青葉城恋唄

仙台生まれ、仙台育ちの40代女性。
日々の生活で考えたことを記す雑記帳。

無口な人

2006年04月28日 | ひと・いきもの
私の父は2004年の7月に他界した。

私は三姉妹の末っ子で、姉曰く、
親は私が生まれた頃には子育ての情熱を失っていたらしい。
確かに写真の数は圧倒的に少ない

女の子にはよくあることかもしれないが、
ある時から私は父が大っ嫌いになってしまった。
同じ家にいるのもいや。
2人でいてもほとんど話さない。
まして一緒にでかけることなどなかった。

父は家にいる時はほとんど自分から話すことはなかった。
無口な人だった。

私が専門学校に入るため関東へ引っ越した年の夏。
初めて生まれ育った土地を離れての生活を始めた夏。
父が食道ガンと診断された。
今まで居候に近かった私が必要とされる初めての状況。
けど、そんな時に私は何百キロも離れた場所で生活していた。

夏休み、バイトをしながら父の入院する病院に通った。
春休み、父の放射線治療に毎日付き添った。
そんな時も、父と私はあまり必要以上に話さなかった。

次の年の夏休み、自宅で療養する父の看病をするつもりだった。

夏休みに入る直前の連休に一度帰省した。
夏休みまで帰らないつもりだったが、母が
「その前に帰ってこられないか」とメールをよこしたから。
連休以来久し振りに帰ってみると父はほとんど意識をなくしていた。
よびかけには反応するけれど私が誰かわからない。
母が早く帰ってこいと言った意味がわかった。

私は泣きながら、必要な時に限ってそばにいられなかったことを詫びた。
父は「いいから」とだけ言った。
理解しての言葉かどうかはわからない。

一週間後、父はこの世を去った。

父の死後、私がいかに父と話してこなかったかを実感した。
姉達が話す父、母の知る父、父の同僚から聞く父の話。
どれも私は初めて聞く父の姿だった。

昨夜、父と一番仲の良かった次姉から電話があった。
長電話の中で父の話になった。
父の病気が発覚する前、姉に送られた手紙があり、
その中で父が「今年のお父さんの夢」を書いていたという。
長姉の第2子誕生・次姉の結婚に続き父はこう書いていたらしい。
「○○(私)の専門学校合格」と。

父は無口な人ではない。
と、私は父がいなくなってしまった今になって理解した。
父が無口だったのは自分のせいだったのかもしれない。

姉が父と最後に野球を見に行った時の写真を送ってきた。
機嫌良さそうな父の顔が写っていた。
その次の日に一緒に野球を見に行っている私は、
父のそんな顔を見ていなかったことに気付いた。
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2 コメント

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Unknown (ちゅーりっぷ)
2006-04-29 17:21:09
>父が無口だったのは自分のせいだったのかもしれない。



この一言、痛いっす。
返信する
ふふふ。 (zoo)
2006-04-29 18:44:07
見に覚えあり?

「孝行したいときに親はなし」という言葉があるけど、

ほんと、元気な内に孝行というか

話はたくさんした方がいいよ
返信する

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