Little Tree

日々のいとなみのなかで感じた子どものこと、季節の移ろいやこころに映る風景

アフリカのこと・・・その2

2008-05-28 18:01:05 | 表現すること
気持のよい風に吹かれながら

まずは、関内駅から放送ライブラリーまで
開港記念バザールで賑わうスタジアムの横を歩いていきました。

出店がたくさん並んでいて、人出も多くって
いつもとは違う風景に、道を失ってふと観ると
古い灯篭(岩亀楼の石灯篭)とその先に綺麗な植え込みと池が見えました。

何度も通っている道なのに、今までまったく気づかずにいたのが不思議です。

ゆっくり歩いて、新聞博物館のある建物の9階にある
放送ライブラリーまで上がりました。

見学者は、まばらでしたが

入り口横で、インドネシアの津波の被害のあと「徹子の部屋」に出演した際の
田沼武能さんのインタビュー映像を、観ることができました。

写真展は、すべて白黒写真ですが
子どもたちの表情が活き活きと輝いていて
どんなに辛く厳しい状況でもこんな笑顔を見せてくれることに驚いてしまいます。

生活していくためには、小さい子どもたちも働いていますし
限られた学校施設の中で、懸命に学ぶ表情は真剣そのものです。

難民キャンプでの子どもたちや元少年兵の姿にふれて
ありきたりの言葉では、表しきれない複雑な思いが浮かんできます。

田沼武能著「難民キャンプの子どもたち」より引用いたしますと

『 私は四十年近く世界の子どもにレンズを向けてきた。その中には数多くの難民の子どもたちがいた。難民の子どもたちは、どんな苦難に直面しようとも、力いっぱいその壁を乗り越えて生きている。決して希望を捨てない。私は、そんな姿に人類の強いエネルギーを感じる。
 第二次世界大戦後、日本は幸いに新憲法によって戦争を放棄したが、世界に、は今なお戦争や紛争が原因で苦しんでいる子どもたちがたくさんいる。その子どもたちが苦難に負けず頑張って生きている姿をたくさんの方々に伝えるために、私はカメラに収めてきた。この子どもたちが一日も早く幸せになるために力をお貸しいただければ、写真家としてこれに過ぎる喜びはない。』

『 難民と呼ばれる人たち、その子どもは、好きこのんで難民になっているのではない。その多くは国と国、または権力者が起こす内紛や戦争に巻き込まれ、悲劇の主人公となってしまったのである。そんな中でも子どもたちは夢と希望を求め、瞳をキラキラと輝かせ、日々の苦悩を吹き飛ばして生きている。いいかえれば子どもは常に前向きに生きるエネルギーがある。そのエネルギーに大人は勇気付けられているといっても過言ではない。(中略)
 スーダン南部の町ナシールを訪ねると、…みんなボロボロの服で、裸の子もたくさんいた。白い紙に欲しいものを書いて私たちに見せていた。その中に「PEACE ONE]というのがあった。彼らは貧しい英語の知識を駆使し、単語を並べて「平和がいちばん」と意思表示をしていたのだ。』(引用ここまで)

 
日本に住んで、なに不自由なく暮らしているはずの子どもたちの笑顔と
彼らの笑顔とは、モチロン比べようもないことですが

同じようでいて、どこか違うところが感じられてしまいました。

同じ写真展にあった、南アフリカ共和国のきちんとした制服を着た
エリート校の子どもたちのどこかうつろに見えてしまう表情を、その間に置いてみると…

人にとっての幸せって、何なんだろう?という想いが浮かんでしまいました。


もうひとつ「まずは、生きるための糧を得るために学ぶ」という目的意識がある…ということが

「子どもたち自身が学びたい」という意欲につながっているように感じました。

(ただし、それだけが学ぶことの唯一の目的ではないと思いますし
「学ぶこと自体が楽しい」という段階もあると思いますので。)

さらに、経済的な発展による生活の安定や医療の充実などの恩恵を受けられることは
確かにとても重要です。

その上で、それだけではない『人にとっての幸せ』が
何かしらあるような気がしてなりません。

それが何なのかは…私自身も、これからも考えていきたいと思っています。


さて…次は、BankArt1929で明日まで開かれている

「ナショナルジオグラフィックPresentsアフリカ希望の大地・写真展」に
(場所を勘違いしてしまって、横浜税関や神奈川県警の前を通って大回りをして)向かいました。

古い銀行の建物を利用した一階のスペースでは、
回り灯篭のようなインスタレーションや子どもたちの写真のスライドなどが公開されていました。

地階では、私が入ったときは「ヒョウの眼」という
好奇心旺盛のまだ幼いメスのレガディーマが主人公の映像作品をやっていました。

ヒョウ親子の関係や段々に狩りを覚えていく様子や他の様々な動物とのやりとりなど
とても面白く、興味深く観ることができました。

(時おり、kirikouのことを思い出して
人の親子にも、どこか似たところがあるように思えてなりませんでした。)

それから3階に上がって、写真展を観ました。

様々な視点から捉えた、鮮やかなアフリカの風景や動物たちの映像が
とてもリアルな感覚を呼び起こしてくれていたと思います。

特に大きなライオンの全身像や
(マウンテンだったか、おそらくローランドか?の)ゴリラの家族の写真と
やっぱり人を映した写真が印象的でした。

2階のブックショップでは、ナショナルジオグラフィックのバックナンバーも置いてありました。

(こちらは)ニシローランドゴリラの表紙の
2008年2月号「ゴリラの家庭学」が面白そうで、
ついつい購入してしまいました。


人も動物も、それぞれ日々を懸命に生きているんですね。


そして、動物として生きていたヒトの祖先が

その動物としての生き方を、どこかに残しながらも

ある時点から、「ある種ユニークな特徴を獲得した」らしいということは

かつて、ダーウィン先生が打ち出した「進化論」という理論から
類推することができるのでしょうか?


研究者ではない私には、適切な言葉遣いが良くわかりませんので

その壮大な理論を、いま「生きているヒトの在りよう」に、あてはめて申し上げるのは無理なお話です。

けれど、そんなことをアレコレと想像するだけでも
なにやら、ワクワクドキドキしてしまいます。


もうひとつ、人工的なものの美しさも、決してワルクはありませんが

やっぱり、私自身は生きているものを観ること

そして生きているものに触れることが、一番好きなのかもしれないなぁ…

と、つよく感じた一日でした。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。