ブログを始めてから約3ヶ月が経ち、「書くこと」について少し考えてみようと思います。
昨年の4月に、親野智可等先生のブログに出会ってから
子どものこと、日々の暮らしの中で気づいたり思ったことなどを
毎日のように書き込みさせていただきました。
それまでは、この何年間も日記すら書いておりませんでした。
そんな中で、偶然に大村はま先生のご本に出会い
「教室をいきいきと」「日本の教師に伝えたいこと」「教えることの復権」
「教えるということ」「教えながら教えられながら」「心のパン屋さん」など・・・
はま先生の子どもたちを「教える姿勢」「見つめる視線」「細やかな心遣い」にふれて
その誰にも真似のできないくらいのご自分への厳しさと
子どもたちを教えることに徹するあたたかくて強靭な志を、つよく感じました。
そんな中で、私自身が子どものころに出会った先生や学ぶことの楽しさを思い出し
kirikou たちに、いま必要とされる教室での支援員になることをめざして
もう一度、学んでみようという決心をするに至りました。
また、「小学校長のお仕事」のprincip先生には
保護者の目から見た教育や学校についての素朴な疑問について
学校現場での豊富なご経験からの、いろいろなお話をしていただきました。
また、私の思うことや考えていることを書いたものに対して
ほんとうにお忙しい中、丁寧にお返事を下さって
ネットを通じた双方向に近いやり取りをさせていただいて
とても勉強になりました。
こんな風に、「思ったこと」「考えたこと」「気づいたこと」や
面白かった本のことや出合った人のことなどを、ブログに書き込みをする中で
私なりに、文章を書くことの練習をしていたのかもしれません。
大村はま先生は、「これから大人になる人」としての中学生に
「日本語を学ぶこと」を伝え「教えること」にまっすぐに取り組まれて
「ひとつひとつの言葉のもつ意味を、吟味し捉えること」や「文章を書くこと」を
子どもそれぞれの様子をしっかり把握しながら、ほんとうに丁寧に指導をされていたようです。
その実践を語る文章は、その内容の厳しさとは違い
とても、わかりやすく想いがまっすぐに、こちらに伝わってくるような
やさしく読み手を、書き手の先生の想いの真ん中に連れて行ってくれるように
私には感じられました。
その文章を読みながら、いつしか私もこんな文章が書けるようになりたいと
強くあこがれていたように想います。
なぜ、人はこんなにも何かを伝えたいと想い
何かを言葉にして書きたいと想うのでしょう?
それは、自分ひとりで書いていればいいだけのものなのか?
誰かに読んでもらって始めて、そこに歓びが生まれるものなのでしょうか?
答は、ひとつでもなく、あるのかも不確かで
そんなことを問うこと自体、なんの意味もないのかもしれません・・・
私自身、まだまだ思うようには書けないもどかしさはありますが
いま、こんな風に書いてみたいと想う気持ちに素直になって
その気持ちや想いをお伝えしていきたいです。
よろしかったら、皆さまのお話を、いろいろとお聞かせいただけると
とても楽しく、もっと広い世界にまでいけるような気がいたします・・・
昨年の4月に、親野智可等先生のブログに出会ってから
子どものこと、日々の暮らしの中で気づいたり思ったことなどを
毎日のように書き込みさせていただきました。
それまでは、この何年間も日記すら書いておりませんでした。
そんな中で、偶然に大村はま先生のご本に出会い
「教室をいきいきと」「日本の教師に伝えたいこと」「教えることの復権」
「教えるということ」「教えながら教えられながら」「心のパン屋さん」など・・・
はま先生の子どもたちを「教える姿勢」「見つめる視線」「細やかな心遣い」にふれて
その誰にも真似のできないくらいのご自分への厳しさと
子どもたちを教えることに徹するあたたかくて強靭な志を、つよく感じました。
そんな中で、私自身が子どものころに出会った先生や学ぶことの楽しさを思い出し
kirikou たちに、いま必要とされる教室での支援員になることをめざして
もう一度、学んでみようという決心をするに至りました。
また、「小学校長のお仕事」のprincip先生には
保護者の目から見た教育や学校についての素朴な疑問について
学校現場での豊富なご経験からの、いろいろなお話をしていただきました。
また、私の思うことや考えていることを書いたものに対して
ほんとうにお忙しい中、丁寧にお返事を下さって
ネットを通じた双方向に近いやり取りをさせていただいて
とても勉強になりました。
こんな風に、「思ったこと」「考えたこと」「気づいたこと」や
面白かった本のことや出合った人のことなどを、ブログに書き込みをする中で
私なりに、文章を書くことの練習をしていたのかもしれません。
大村はま先生は、「これから大人になる人」としての中学生に
「日本語を学ぶこと」を伝え「教えること」にまっすぐに取り組まれて
「ひとつひとつの言葉のもつ意味を、吟味し捉えること」や「文章を書くこと」を
子どもそれぞれの様子をしっかり把握しながら、ほんとうに丁寧に指導をされていたようです。
その実践を語る文章は、その内容の厳しさとは違い
とても、わかりやすく想いがまっすぐに、こちらに伝わってくるような
やさしく読み手を、書き手の先生の想いの真ん中に連れて行ってくれるように
私には感じられました。
その文章を読みながら、いつしか私もこんな文章が書けるようになりたいと
強くあこがれていたように想います。
なぜ、人はこんなにも何かを伝えたいと想い
何かを言葉にして書きたいと想うのでしょう?
それは、自分ひとりで書いていればいいだけのものなのか?
誰かに読んでもらって始めて、そこに歓びが生まれるものなのでしょうか?
答は、ひとつでもなく、あるのかも不確かで
そんなことを問うこと自体、なんの意味もないのかもしれません・・・
私自身、まだまだ思うようには書けないもどかしさはありますが
いま、こんな風に書いてみたいと想う気持ちに素直になって
その気持ちや想いをお伝えしていきたいです。
よろしかったら、皆さまのお話を、いろいろとお聞かせいただけると
とても楽しく、もっと広い世界にまでいけるような気がいたします・・・
下記の文章は教育などには関係ありませんが、500字にまとめた昔の私の拙文です。丹波の田舎の話で、暇潰しに読んで戴ければ幸いです。
「舗装で死んだ古里の道」(京都新聞「窓」01.5.31.掲載)
五月最後の日曜日に、小学校の同窓会が開催された。梅雨入りには少し早いものの、朝から時折り小雨の天候だった。「雨ふるふるさとははだしであるく」。卒業して半世紀あまり、私は、いつかこの山頭火の句を再び実現させたいと思っていた。
母校は、口丹波の小さな山村にある。古里訪問は久し振りだ。昔は、国鉄バスで市内から郡の中心部まで2時間、村へはさらに徒歩で1時間を要した。今は道路は広くなって舗装され、車で合計1時間の距離になった。しかし、過疎が進み、母校は2年前に廃校になっている。
小学校へは、わら草履で通学した。おろしたての草履は香ばしい匂いがして、しっとりと朝露を吸った。農家の夜なべで作った自家製である。雨が降ると、草履を腰にぶら下げて、はだしで歩いた。硬い小石が、足の裏に痛かった。でも、土や砂利の感触が全身に伝わった。あのころの道は生きていたのだ。
村道は国道に昇格して立派になったが、道行く人の姿はほとんどない。車もまるで通らない。いつの間にか、雨が上がった。立派になった道は、アスファルトの下で死んでしまったのか。私が古里の道をはだしで歩くことは、もうないだろう。
書くことに限らず
人として、ほんとうに大切なことを教えていただきました。
素晴らしいお話を、ありがとうございます。
丹波というと栗や大きな粒の黒豆を思い浮かべました。
里山の風景は、今では貴重なものになってしまったのですね。
今の子どもたちに、単に伝えるだけでなく
実際に体験できる自然をいかに残していけるのか
よく考えてみたいです。
私は、つい先日ブログを始めたばかりなのですが、
書くたびに「書くということ」の意味を考えるようになりました。
ほかの方に読んでもらうという目的があって、文章を書くと思うのですが、
「書くこと」は自分自身にとっても大きな意味があるように感じます。
書きつけるという過程をとおして、
自分の思いの整理につながり、
また新たなひらめきがあるように思います。
「ああ、自分はこんなこと考えてるんだな」と。
精神科の診察では、患者さんに、
文章を書いてきていただくことが、よくあります。
文章を相手に読んでもらうということ、
自分の気持ちを整理して、新たな気づきができるようなること
を通して、お互いのコミュニケーションを深めていきます。
これは、精神科の場面だけではなく、
普段の私たちにもあてはまると思います。
他者がいて、何かを伝えようとする、
上手く伝えられないけど、書いていると
だんだん整理できて、
新たな自分を発見する。
そこへ相手からの反応があり、
さらに、相手に何かを伝えようとする。
そのような双方向のプロセスを通して、自己というものが変化していくのかなあ、と思います。
風待人さんのゆったりとした文章、
読んでいてこちらも、豊かな気持ちになるような気がします。
これからもお邪魔いたします。
よろしくお願いいたします。
とても示唆に富むお話をしていただいて、
ほんとうにありがとうございます。
「17歳のカルテ」という映画を
メルマガをしている精神科医の方のお勧めで見ました。
実は、主人公と、若い頃の自分に共通するものを感じました。
だからというわけでもないのですが
おそらく、私にとってはブログで文章を書くことや
自分の思いを言葉にすることに、大きな意味があると感じています。
あまりたくさんは観ておりませんし、好みは少し偏っているかもしれませんが
映画のお話もしてみたいと思っています。
ぜひまた、お話をお聞かせください。
私の父は「ものかき」の端くれでしたが、「書くことの(創作)生み出すことの非情さ、喜び、苦しさを話していた事が有ります。私は作文もろくに書けない子供でした。いまでもちゃんとした文章は書けません。でも、自分の本音を自分で悟るには「書くことかな」と思い3年前からサークルに入れていただき、自分の中で、熟成させるためにも(自己満足でも良い)と思い、始めました。しかし、それを読んで下さる方がいて、自己満足だけでない喜びも発見しました。書くことは生きて行くことだと思います。
今、私がいるのは、そのまえに脈々と流れる先人が居て、これから先には子供、孫が居る。そしてそれを支えた多くの人。自分も、全ても(自然も)それに対する「愛」。それが書くことかな、などと思ったりしています。でもまだほんとうのところ分かっていません。ただ書くことは素晴らしいことだと思い始めています。文を綴っていきたいです。
お父様からお聞きになった言葉は
花ひとひらさまのこころやからだのなかに溶け込んで
そして新たなかたちとなって息づいていらっしゃるんでしょうね・・・
自らの心の動きや、何かを目にした時の喜びや驚きや
いろいろな想いが、たくさんあっても
それを言葉にしていくことは、意外に簡単なことではないと感じています。
けれど、そのことに気づいて
その上で、言葉にしてみたいと想う時が訪れるものなんですね・・・
わが子を見ていて、
自分のこころの中にあるそんな小さな「たね」を育てて
言葉にして書いたり、話し言葉にして表現できることの楽しさや
その言葉を介して、いろいろな方とつながることのできる喜びに
いつか、気づくことができたらいいなぁ・・・と想います。
そのことを伝えるために、今の私はこんな風に書いているのかもしれません・・・