おかげさまで、「シーン1」の舞台から、子どもBが退場して
現在「シーン2」は、2階の窓際で、傍らに電話の子機と携帯を置いて
パソコンの前に、母親A(私)が座っている場面からです。
サテ…
今、一番一生懸命に読み進めては、また戻りして
何度も何度も読み返しているのが、竹内均著『自閉症の社会学』という本です。
これまで「社会学」で論じられてきたことを、手掛かりにして
「自閉症の人々の感じている世界や、住んでいる世界や社会との関わり」を
丁寧に読み解いていこうとなさっていますので
周りの社会との関わり方を模索している私にとって、とても大切な視点からの
考察が、書かれているように想います。
(今年、受講している「社会学」のレポートに、
すぐに結び付く訳ではありませんけれど…)
何より、とっても面白いんです!(第9章p193より引用)
『…自閉症スペクトラムの子どもたちには、社会化は無理なのでしょうか?そうではないと先の療育書は主張しています。つまり、このような場面ではこのように行動すべしというきそくしゅうのようなもの、「私たちの社会では多くの人どんなふうに感じてどんなふうに行動するのかというパターン的知識」と「それに合わせて行動を組み立てる技術」ならば、修得させることは可能なのです。(吉田,二〇〇三年一三八頁)…』
ただし『いわゆる実感を伴わないとしても、とりあえず社会上の摩擦を減らすという効果だけは期待できるという点です。パターン的知識」とその運用技術を身につけることで、「社会性の障害自体が改善したわけでなくても子どもは自分の力で「社会的な行動」をとることができるようになっていく」わけです。(吉田,二〇〇三年、一四二頁)』
このあと、『「本当の社会性」と「パターン的知識」とは質的に違うと言わねばなりません。』と
ありますけれど…この点は、どこがどう違うのか、私にはまだよく分かりません。
続いて、P194~
『 自己矛盾的な概念
「社会化という概念は、本来自己矛盾的である」と、社会学においては考えられています。(柴野、二〇〇一年、2頁)。社会化は、一方では、人間が社会によって作り上げられているという側面を意味すると同時に、他方では、社会化によって個性が実現されるという側面をも意味しているからです。すなわち個人を「受動的存在」と見る考え方と、個人を「能動的存在」と見る考え方が矛盾しつつも両立しているのです。(中略)
ある療育書では、次のようなやさしい表現でこの自己矛盾を表現しています。「この世の中の「社会性」は私たち「多数派」の論理に適合したものです。自閉症スペクトラムの子どもたちにとってきっとそれらは「理屈にあわない」「肌になじまない」ものなのです。」「君の感じ方・考え方はそれはそれで真実なのだと思うけれど、多数派の理屈にあわせる技を持ったほうが君もみんなも暮らしやすいからね。よろしく頼むね、ということなのです」(吉田,二〇〇三年、一五六頁)』。
『知りたいという欲求を育む
自閉症スペクトラムの人たちにとって、社会化の自己矛盾は、避けられない難問です。…「世の中の理屈を知りたい。どうもぼく(私)はそれをみんなより知らないみたいだ、と思ってからでなければ教えようがありません。」(吉田,二〇〇三年、一五七頁)。…自発性と習得との微妙なバランスを保つための細かい配慮は、社会化にとってまさに本質的なのです。
ところで、「世の中の理屈を知りたい」というこの欲求こそ、社会化へと向かう重要な要因であると同時に、社会学という学問が満たすべきものではないでしょうか。(中略)
<普通>の人にとって社会学は、当たり前のことを難しく考える堅苦しい学問と感じられているかもしれません。古典的な社会学入門が「社会とは何か」や「行為における合理性とは何か」と言うような根本的な問いかけからはじまるのも、大げさに見えるかもしれません。しかしながら、社会化を、自然にではなく、パターンと技術で成し遂げなくてはならない人にとっては、「社会とは何か」という問いかけは、もっと生々しく緊急の問題として受け取られるのではないでしょうか。社会学は、すでに社会の中に生きている人々のための自己反省ツールというだけではなく、社会という未知の世界を旅する「野生」の人々のためのサバイバル・ガイドとしての役割も果たすべきではないでしょうか。だからこそ、なおさら、自閉症をめぐる諸課題は、今後の社会学が目を向ける大事なテーマの一つだと思うのです。』
(引用ここまで)
(因みに、文中で引用されていたのは、
吉田友子著『高機能自閉症・アスペルガー症候群「その子らしさ」を生かす子育て』
柴野昌山「文化伝達と社会化ーパーソンズからバーンステインへ」とのこと。
お話は、とても興味深いんですけれど…
私自身が、納得できる部分と、まだ、そうなのかなぁ?どうなのかしら?と
納得できていない点もありますが
『自分の経験や体験に照らし合わせて、
しっかりとした実感を伴った理解や納得が得られること』が、
私にとって、とても大切なことですから、慌てないでゆっくりと
自分なりの理解を進めていくつもりです。
サテ…初めの予想とは、違って、ついつい気になる本の引用をしてしまいましたので
タイトルにいたしました「インプロ」のお話をする時間がなくなってしまいました。
とりあえず、「インプロ」ってなに?というページを見つけましたので
貼り付けておきます。
<普通>の人々も、例えば「こんなときどうする?」というような場面に出合った時
「どんな脳の働きを経て、意思決定をして、次にどんな行動をなさるのか?』
そこに、自閉症スペクトラムの方々との違いが、何かしら見いだせるのか?
まだまだ、わかっていないこともたくさんあるように想うんですけれど。
世の中の出来事は、おそらく「シナリオの決まっているお芝居」とは
どこか違っていますし…
けれど、その時に生きている人々の意志や想いを反映しているハズです。
社会の中で多数派の方々のやり方が、すべて正しいことなのか?
他にも、より良い方法や考え方があるのか?
多様な意見を出しあう中から、違った方向性が観えてくるという可能性はあるのか?
などと言うことが、どうも気になって仕方がありません。
言ってみれば、実はシナリオのない、即興劇に参加しているような
私(たち?)の「日々の暮らし」ですけれど、
できることならば、明るくて安心できる「社会」を創りつつ
皆様とご一緒に過ごしていけますように!!!
(今日の午後は、ある覚悟をして二人で「まなびの教室」に行ってきます。
また、この続きは、後ほどにいたしましょうね…)
現在「シーン2」は、2階の窓際で、傍らに電話の子機と携帯を置いて
パソコンの前に、母親A(私)が座っている場面からです。
サテ…
今、一番一生懸命に読み進めては、また戻りして
何度も何度も読み返しているのが、竹内均著『自閉症の社会学』という本です。
これまで「社会学」で論じられてきたことを、手掛かりにして
「自閉症の人々の感じている世界や、住んでいる世界や社会との関わり」を
丁寧に読み解いていこうとなさっていますので
周りの社会との関わり方を模索している私にとって、とても大切な視点からの
考察が、書かれているように想います。
(今年、受講している「社会学」のレポートに、
すぐに結び付く訳ではありませんけれど…)
何より、とっても面白いんです!(第9章p193より引用)
『…自閉症スペクトラムの子どもたちには、社会化は無理なのでしょうか?そうではないと先の療育書は主張しています。つまり、このような場面ではこのように行動すべしというきそくしゅうのようなもの、「私たちの社会では多くの人どんなふうに感じてどんなふうに行動するのかというパターン的知識」と「それに合わせて行動を組み立てる技術」ならば、修得させることは可能なのです。(吉田,二〇〇三年一三八頁)…』
ただし『いわゆる実感を伴わないとしても、とりあえず社会上の摩擦を減らすという効果だけは期待できるという点です。パターン的知識」とその運用技術を身につけることで、「社会性の障害自体が改善したわけでなくても子どもは自分の力で「社会的な行動」をとることができるようになっていく」わけです。(吉田,二〇〇三年、一四二頁)』
このあと、『「本当の社会性」と「パターン的知識」とは質的に違うと言わねばなりません。』と
ありますけれど…この点は、どこがどう違うのか、私にはまだよく分かりません。
続いて、P194~
『 自己矛盾的な概念
「社会化という概念は、本来自己矛盾的である」と、社会学においては考えられています。(柴野、二〇〇一年、2頁)。社会化は、一方では、人間が社会によって作り上げられているという側面を意味すると同時に、他方では、社会化によって個性が実現されるという側面をも意味しているからです。すなわち個人を「受動的存在」と見る考え方と、個人を「能動的存在」と見る考え方が矛盾しつつも両立しているのです。(中略)
ある療育書では、次のようなやさしい表現でこの自己矛盾を表現しています。「この世の中の「社会性」は私たち「多数派」の論理に適合したものです。自閉症スペクトラムの子どもたちにとってきっとそれらは「理屈にあわない」「肌になじまない」ものなのです。」「君の感じ方・考え方はそれはそれで真実なのだと思うけれど、多数派の理屈にあわせる技を持ったほうが君もみんなも暮らしやすいからね。よろしく頼むね、ということなのです」(吉田,二〇〇三年、一五六頁)』。
『知りたいという欲求を育む
自閉症スペクトラムの人たちにとって、社会化の自己矛盾は、避けられない難問です。…「世の中の理屈を知りたい。どうもぼく(私)はそれをみんなより知らないみたいだ、と思ってからでなければ教えようがありません。」(吉田,二〇〇三年、一五七頁)。…自発性と習得との微妙なバランスを保つための細かい配慮は、社会化にとってまさに本質的なのです。
ところで、「世の中の理屈を知りたい」というこの欲求こそ、社会化へと向かう重要な要因であると同時に、社会学という学問が満たすべきものではないでしょうか。(中略)
<普通>の人にとって社会学は、当たり前のことを難しく考える堅苦しい学問と感じられているかもしれません。古典的な社会学入門が「社会とは何か」や「行為における合理性とは何か」と言うような根本的な問いかけからはじまるのも、大げさに見えるかもしれません。しかしながら、社会化を、自然にではなく、パターンと技術で成し遂げなくてはならない人にとっては、「社会とは何か」という問いかけは、もっと生々しく緊急の問題として受け取られるのではないでしょうか。社会学は、すでに社会の中に生きている人々のための自己反省ツールというだけではなく、社会という未知の世界を旅する「野生」の人々のためのサバイバル・ガイドとしての役割も果たすべきではないでしょうか。だからこそ、なおさら、自閉症をめぐる諸課題は、今後の社会学が目を向ける大事なテーマの一つだと思うのです。』
(引用ここまで)
(因みに、文中で引用されていたのは、
吉田友子著『高機能自閉症・アスペルガー症候群「その子らしさ」を生かす子育て』
柴野昌山「文化伝達と社会化ーパーソンズからバーンステインへ」とのこと。
お話は、とても興味深いんですけれど…
私自身が、納得できる部分と、まだ、そうなのかなぁ?どうなのかしら?と
納得できていない点もありますが
『自分の経験や体験に照らし合わせて、
しっかりとした実感を伴った理解や納得が得られること』が、
私にとって、とても大切なことですから、慌てないでゆっくりと
自分なりの理解を進めていくつもりです。
サテ…初めの予想とは、違って、ついつい気になる本の引用をしてしまいましたので
タイトルにいたしました「インプロ」のお話をする時間がなくなってしまいました。
とりあえず、「インプロ」ってなに?というページを見つけましたので
貼り付けておきます。
<普通>の人々も、例えば「こんなときどうする?」というような場面に出合った時
「どんな脳の働きを経て、意思決定をして、次にどんな行動をなさるのか?』
そこに、自閉症スペクトラムの方々との違いが、何かしら見いだせるのか?
まだまだ、わかっていないこともたくさんあるように想うんですけれど。
世の中の出来事は、おそらく「シナリオの決まっているお芝居」とは
どこか違っていますし…
けれど、その時に生きている人々の意志や想いを反映しているハズです。
社会の中で多数派の方々のやり方が、すべて正しいことなのか?
他にも、より良い方法や考え方があるのか?
多様な意見を出しあう中から、違った方向性が観えてくるという可能性はあるのか?
などと言うことが、どうも気になって仕方がありません。
言ってみれば、実はシナリオのない、即興劇に参加しているような
私(たち?)の「日々の暮らし」ですけれど、
できることならば、明るくて安心できる「社会」を創りつつ
皆様とご一緒に過ごしていけますように!!!
(今日の午後は、ある覚悟をして二人で「まなびの教室」に行ってきます。
また、この続きは、後ほどにいたしましょうね…)