終末論について、いくつかの情報を紹介します。
ただし、聖書に特化せず集めてみました。
他の宗教の終末論ではあっても、だいたい合致しているという点を紹介します。
キリスト教の終末論
外典のエズラ書を動画でまとめて下さってます! エズラ書外典は、旧約聖書(ユダヤ教)の外典です。
2/3の動画で、“地球の進化について行けない者が残される”という概念はニューエイジのアセンション思想です。残されるのは、罪の悔い改めをせず、神に立ち返らない者が残されると、聖書に書かれています。
人類史上最も恐ろしい予言書|山田高明 Takaaki Yamada|note
みなさん、こんにちは。 「世界一恐ろしい」又は「人類史上最も恐ろしい予言」とは、いったい何でしょうか? 何を恐ろしく想うかというのは、そ...
note(ノート)
黙示思想と「神の国」──イエスがユダヤ教から受け継いだもの 『終末論の系譜』より
ユダヤ教の終末論
短くまとめて下さってます。ハルマゲドン(世界最終戦争≒第三次世界大戦)が起きること、地球上の1/3が亡くなることなど、キリスト教の終末論と矛盾しません。
ハルマゲドンは、イスラエルのハイファ港近くに広大な谷間があり、その上にメギドの丘があります。艱難時代の最後に起こる最終的な決戦の地 です。
メギドの丘の登り口には、“聖書によれば、この地で人類最後の戦争があると言われている”と記されているそうです。
イスラム教の終末論:
以前、イスラム教の終末論に登場するマハディ(神側に立つヒーロー)やダジャール(反キリスト)のことについてブログに触れました。
マハディ(神から遣わされたヒーロー)、ダジャール(反キリスト)と、そして、イエスが現れるという点です。キリスト教の終末論と比較すると、マハディって誰?となります。ややこしいのが、マハディはクルアンには登場しません。
私は、マハディとしてトランプがイスラム支配層にインストールされるのではないかと考えています。そうすれば、13億人のイスラム教徒を支配統制でき、世界規模のNW0が成功しそうにみえます。しかし、反対する国々が反逆に出て、中東は戦争状態になるのではないでしょうか? この点はあくまでも個人の考察です。
イスラーム教が教えるイエス:
イエスはイスラム教では預言者として崇拝されています。イエスのアラビア名は イサ(ISA)。イスラム教徒はイエスが預言者であり神の使者であると信じていますが、キリスト教徒と異なり、イエスが神の御子であるとは信じていません。イスラム教徒はイエスが処女から誕生したことを信じていますが、イエスの十字架の死の贖いと復活は信じていません。十字架にかかったのは、イエスの替え玉となった弟子の一人だと信じています。イスラム教徒はイエスがゴルゴタの丘の磔刑で死んだのではなく天に引き上げられ、終末に戻って来ること(再臨)を信じています。イエスが裁きの日に地球に戻り、正義を回復し、アルマシ・アド ダジャール(偽のメシア=反キリスト)を倒すと信じています。
外典について(さらに詳しく):
>>「聖書事典」(日本基督教団編)より
外典と偽典
エスドラス第1書(別名 ギリシャ語エズラ書、第3エズラ書)
エズラの名を冠する書物は正典・外典を通じていくつかあり、しかもヘブル語、ギリシャ語、ラテン語で記されており、聖書の版によって名称がまちまちなのできわめてまぎらわしい。以下に主な古代語訳聖書における名称を一覧表に整理してあるが、この中で、「ギリシャ語エズラ書」とあるのが、ここにいう「エスドラス第1書」のことである.
七十人訳(LXX)の重要写本では,
エスドラス第1書=ギリシャ語エズラ書
エスドラス第2書=正典エズラ記,ネヘミヤ記
LXXの異本では
エスドラス第2書=ギリシャ語エズラ書
劾ラテン語訳
エズラ第1書=ギリシャ語エズラ書
ウルガタ
エズラ第1書=正典エズラ記,ネヘミヤ記
エズラ第2書=エスドラス第2書1―2章
エズラ第3書=ギリシャ語エズラ書
エズラ第4書=エスドラス第2書3―14章
エズラ第5書=エスドラス第2書15―16章
以上のように名称の用い方が混乱している.
本書の内容は,代下35・1―36・23および正典エズラ記全部,ネヘミヤ記7・73―8・12までに記されている記事と並行しており,その記述も似通っている,ただし本書の3・1―5・6は,正典に平行記事を見出すことのできない特有の記事である.
正典のエズラ・ネヘミヤ記(本来は1巻の書に数えられた)と本書との関係について,本書が正典のエズラ・ネヘミヤ記を書き改めたものか,それとも本書が先に存在していて,正典の方がその要約であると見るぺきか,ということが古来多くの学者によって論じられたが,いまだに定説はない.両者よりも古い共通資料があったと推論する者もいる.またLXXにおけるエズラ・ネヘミヤ記がマソラ原典の直訳であるのにくらべると,本書はマソラ以外のヘプル語(もしくはアラム語)原本を想定させる.注目すべきことに,A・D, 1 世紀前後のユダヤ人史家ヨセフスは,正典のエズラ記によらず,本書を史料として用いている.その理由は,おそらく内容の価値よりもギリシャ語Q文体がすぐれているために,本書を重く見たためであろう.
本書の中で,最も特色ある部分は3―4章の「3人の衛兵」の物語である.ベルシャ王ダリウスの親衛隊に属する3人の衛兵が,世界で最も強いものは何かという論争を行う.第1の者はそれは酒であるといい,第2の者は王であるという・最後の者は,「最も強いものは婦人である,しかし,真理こそ最後の勝利者である」と主張し,ついにこの説がすべての人を説得する.これがこの物語の人要であるが,これは古代オリエント諸国に種々な形で伝えられていた「知恵」物語に材料をとってユダヤ的に変形したものであろう.
本書の編集の年代も決定が困難であるが,おそらくB.C・2世紀の半ば,150年頃と推定される.
2.エスドラス第2書(別名,エズラの黙示)
1-2章,3―14章,15―16章の3部分にわかれているが,ラテン語訳聖書ではそれぞれを第2,第4,第5エズラと名づけている.(→前掲の表)
第2の部分が本書の主要部であって,第1,第3部は本来はそれぞれ独立の文書であったと思われる,本書の成立とその後の伝達の経過はきわめて複雑であるが,大要次のように考えられている.
A・D.1世紀末,本書の主要部3―14章がおそらくアラム語で書かれた・やがてそれはギリシャ語に訳されたが,2世紀の半ばにキリスト教徒の手によって序文(現在の1―2章)が付加された.その後3世紀に入って更に別のキリスト教徒の編者が15―16章を付加した・
本書は,シリヤ語,コブト語,エチオピヤ語,アラピヤ語などに訳されたが,その後アラム語原本はもとより,ギリシャ語訳すらも失われて,西方教会にはもっばらラテン語訳を通して伝えられるに至った.1897年エジプトで15章の断片を記した皮革写本が発見されたが,これは現存する唯一のギリシャ語写本である(オクシリンコス・パピルス文書)・
本書の主要部は,ゼルバベルの父(またはおじ)サラチエルの見た七つの幻であるが,このサラチエルはエズラの別名であるともいう(3・1).七つの幻のうち,最初の三つはユダヤ人の現在の苦境と悲惨とを描き,後半は将来の栄光を描いている.その用語・文体はヨハネ黙示録に似ており,また偽典のパルクの黙示(後述)に影響を与えていると思われる. なお,キリスト教徒の付加とされる1―2,15―16章の各部分には,新約聖書との並行記事を多く見出すことができる.
外典エズラ書(エズラの黙示)その2
旧約外典偽典概説-付・クムラン写本概説-
レオンハルト・ロスト著 教文館1972年
荒井献・土岐健治共訳
原題
EINLEITUNG IN DIE ALTTESTAMENTLICHEN
APOKRYPHEN UND PSEUDEPIGRAPHEN
Einschiliebich der groben Qumran-Handschriften
von LEONHARD ROST
Quelle & Meyer,Heidelberg,1971
IIIパレスチナのパリサイ派に由来する文書
二 第四エズラ書
伝 承
本書は、ラテン語、シリア語、エチオピア語、アラビア語、アルメニア語、サヒド語、グルジア語訳として保存されている。そしてこれらの翻訳本は、ギリシア教父諸文書に引用の形でしか保存されていない失われたギリシア語訳を越え、アラム語原典ではなく、やはりおそらくヘブライ語原典に遡るであろう(R・H・チャールズ)。ラテン語訳は実にウルガータの付録に伝えられているが、前に二章(第五エズラとも言われる)、後ろに二章(第六エズラとも言われる)が付加され、八二二年に記されたコーデックス・サンゲルマネンシスから一頁切 断されたために失われた、元来は七・三五と七・三六の間に挿入さるべき部分が含まれていない。ほとんどすぺてのラテン語写本は、この切断されたコーデックスに従っている。ただ六つの写本ーーーその中最も重要なものは 九世紀のコーデックス・アムビアネンシスであるがlのみが、シリア語写本に保存されているこの部分を持っている。シリア語本文は、ミラノの聖書写本アンブロシアーナ(六世紀)にのみ存在する。エチオピア語訳は多数の写本に存在する。二つの独立したアラビア語訳がオックスフォードとヴァティカンに完全な形で存在し、第 二のものの抜葦および断片がオックスフォードとパリにある。アルメニア語訳は非常に自由である。これは、M・E・ストーンによれば、失われた、キリスト教的に改作された、ギリシア語本文に遡源される。サヒド語とグルジア語訳は断片のみが存在している。
表 題
ラテン語写本は、本書を第四エズラ書(Esdrae Liber IV)として提示しており、その際、キリスト教の時代になって付加された最初と最後の章(一、二、一五、一六)を区別して提供している(この部分は第五および第六エズラ書)。アレクサンドリアのクレメンスには、ギリシア語で次のような名称が見出されΕσδρασ ο προφητησ.〔預言者エズラ〕。アムブロシウスはこれを受け継いでいる。
内 容
ここでは、ユダヤ人の著者に由来する三―一四章のみが顧慮される。これらは七つの「幻」を含んでいる。しかし最初の三章は対話であり、最後の章は、五人の人々の助けによって九四冊の文書を口述筆記し、その中七〇冊を隠しておくようにという、天使を介して伝えられたエズラに対する委託を報告している。三・一-五・一九の最初の対話は、罪とこの世の艱難の起源に対する問を取り扱い、終末の接近に対する慰めに満ちた展望をもって終わる。五・二〇-六・三四の第二の対話は、何故神はその愛する民を異邦人の手に渡されたのか、という問題を探究し、神の秘かなる世界計画と、この計画を露わにする終末の接近を指示している。六・三五-九・二五の第三の対話は、先ず、何故にイスラエルは、約束されていたのであるから自己に属すべきはずのこの世を、現在いまだ所有していないのかという問題に集中してなされており、この世を通路とみなし、罪人の運命と世界審判について、中間状態の七重の苦痛と七重の喜びについて語り、審判における執り成しの可能性を否定し、神の憐みが罪人の滅びと如河にして結びつけられうるのかという問題に心を労したあげく、恵みに定められているエズラは、罪人の当然うくべき運命について思い煩うよりもむしろ自分G身の将来について考える方がよいという注意をこれに結びつけている。
次いで三つの幻がこれに続く。第一の---叙述全体としては第四の――幻(九・二六-一〇・六〇)は、一人の嘆き悲しんでいる女を示し、その不幸が語られる。彼女は輝きの都、つまり救いの時のエルサレムに姿を変える。次の、叙述全体としては第五の幻(一一・一―一二・五一)は、海からやってきた鷲とその肢体になぞらえて、本来の歴史を明示する。第六の幻は、人のようなものが海からたち現われ、天の雲と共に大きな山の頂に立って彼の敵たちと光の嵐を持って戦い、遂に彼らが煙と灰とに化する様を示す。第七の幻(一四・一-五〇)は、二四巻の正典の書物と七〇巻の隠された書物とを書き記すようにという、すでに上に言及した委託を与える。
批判的な問題
七つの「幻」に分けられている本書は、エズラとも呼ばれるサラティエルによって、都の滅亡後三〇年目にバビロンで著わされたと主張している。他方、〔正典〕エズラ記三・二その他から知られており、その時代も場所も確実なゼルバベルの父が、五世紀に属するエズラと混同されている。このことは、元来は別々であった素材が合成していることを示唆するであろう。例えば、ダニエルに向けられて、彼を遠く導くところの鷲の幻は、ここに組み込まれる前に、長い歴史を持っているのである。人の子の幻も、二匹巻の正典と七〇巻の隠された書を五人の人々の助けによって書き記すようにというエズラヘの委任を伴った最後の幻はなおさら、枠の外にはみ出している。しかし、R・H・チャールズと共に、最初の四つの幻の中にあるサラティエルの黙示を今挙げた部分と結び合わせた一人の編集者を想定しなければならないのか、それとも、古い素材の改作と合成を著者の手に帰するべきであるのか、という問題にはやはり後者の方により蓋然性があると答えざるをえないであろう。
著者及び著作年代
著者はサラティエルでもエズラでもなく、紀元後一世紀の終わり頃の一ユダヤ人である。彼はエルサレムの破壊の印象を今なお忘れえないでいる。この破壊は紀元前五八六年のものではありえず、おそらく紀元後七〇年の破局であろう。とすれば、三〇年目という表現は、おそらくエゼキエル書一・一に依って選ばれたものであろうが、しかしきりのよい数としてとられている可能性もあるであろう。というのは、鷲の幻は、もしもこれをやはりローマ帝国を指したものと解するならば―――おそらくそれが正当であろうと思われるのだが――存命中の皇帝ドミティアヌス(紀元後八一―九六年)の治政を思わせるからである。著者はエルサレムにいたのか、それともたぶんディアスポラのユダヤ人としてローマにいたのかは確言できない。エルサレム説を否定するものは何もないが、多くの事柄、特に普遍的な思想の広さは、ローマ説を支持している。エジプトのユダヤ教の影響は、クムランの影響と同様にほとんど示されていない。
意 味
本書は、過度に厳密な律法遵守と自己を義とする分離主義という古い理念が揺らぎ、今や自らを、神から捨てられた人類に対する、神に選ばれた 少数者と自覚し、それ故に今や神の義ではなく、神の憐みを間うているユダヤ教を知らしめる。これは、自己の破局を、もはや哀歌の詩人のように民族的な不幸としてだけとらえることなく、自己の窮状を、もはやヨブのように神の義に対する問いかけとして持ち出すこともない。このように自由な排他的・民族的な枠を超えて思考しているユダヤ教は、パレスチナとの密接な関係の中に探ねられないであろう。もちろん著者は、哀歌やヨブ記の著者と違って、来るべき救済の時に対する終末論的な希望を、解決さるべき問いとして持ってはいる。しかしここでも、自己の民に対する救済の時の到来ではなくて、全人類の待望への間いが彼を動かしている。このように本書は多くの点において特殊な立場をとっており、このような立場は、本書の思想が部分的にシリア語バルク黙示録によって採用されているということによっても、弱まることはない。