携挙について、さぁ、どこまで続くんでしょうか?(?_?)
調べるのに、一番苦労しているのは語源です。携挙については新約聖書にしか書かれてませんので、原語はギリシア語(古代ギリシア語の方言であるコイネ・ギリシア語)になります。
聖書関連の注解書・参考書を1冊も持ってないので、調べるのに時間がかかります。
調べていくうちに知ったことは、ギリシア語の冠詞には、女性名詞・男性名詞・中性名詞があるようです。
ちょっくら冠詞の話をします。 "冠詞"は、名詞の前につく a 、an、the の事です。
更に、冠詞は2種類に別けれます。定冠詞 (a, an) と不定冠詞 (the) です。
●定冠詞:数えられる名詞につけて、その名詞が不特定のものであることを表す。英語 a, the / 仏語 un / 独語 ein。
●不定冠詞:名詞につけて、それが特定のものあるいは一般的なものであることを示す。英語 the / 仏語 le, la, les / 独語 der, die, das。
※但し、文脈次第で、名詞に冠詞をつけない場合もあります (無冠詞・無定冠詞のケース)。
ギリシアは、イタリアやフランスの近くに位置しますが、ギリシア語はロマンス原語の仲間ではありません。中性名詞もあるならドイツ語と同じようですが、ゲルマン言語( ドイツ語、オランダ語・北欧諸語、英語)の仲間でもありません。
ギリシア文字は北フェニキア文字のアルファベットのルートで出来ました。アラム文字、ヘブライ文字、アラビア文字、ラテン語、キリル文字(露語)もフェニキア文字から派生したようです。ギリシアと言えばヨーロッパのイメージがありますが、言語的には、アジア圏の言語であるセム系言語に関係します。
古代ギリシャ語(コイネ語含む) は、定冠詞のみ使ったようで、不定冠詞 (the など特定なものを意味する冠詞 )は 存在しなかったようです。コチラの方のブログを読むと、古代ギリシア語を理解・翻訳することの難しさが伝わって来ます。不定冠詞(the)が存在しない言語なので、何を指しているのか判りにくいと思われますが、特定するためには焦点を合わせる判断力が要るようです (;´Д`)💦 ちなみに、現代ギリシア語は不定冠詞が存在します。ということは、古代ギリシア語である新約聖書を、完璧に他言語に訳そうとするのは難しいというこです。言語の性質が違うからです。これは旧約聖書(ヘブル語)についても同じだと言えます。
>>ギリシャ語の冠詞 ( https://chrismichaelmoore.com/greek )
冠詞は新約聖書の約14万語中、約2万語あります。すなわち、7語に一つは冠詞です。冠詞は英語の「the」の由来ですが、ギリシャ語の冠詞は英語の冠詞よりも、多くの働きがあります。大きく分けると、冠詞は①何でもを「名詞化」する→②その中で場合によって、名詞化したものに対してさらに「名づける」ことや、「主格化」する機能もあって→③そして最終的に英語の「the」のように「特定」する機能もあります。特定しようとしている程度、言い換えたら【ピントを合わせる】程度は数段階があって、焦点を当てていきます。ですので、ギリシャ語の冠詞の基本的な意味を覚えましょう。
焦点) 不定?→①名詞化→②主格化→③特定
※冠詞がなくても特定である場合もありますので、ないからと言って不定ではなく、ただ、あると焦点を当てる方向性があります。このたった24語を完全に覚えたら、聖書の1割以上だけではなく、まだ分からない単語について多くの情報が分かり、文書を解くカギになることは多くあります。ギリシャ語の冠詞は名詞の【①格、②性別、③数】と合わせます。
例えば、ギリシア語を別のコトバに訳すのに難しいと思われる点は、このような聖句箇所が示されました。マルコ9:3を例に取ります。
KJV欽定訳: And his raiment became shining, exceeding white as snow; so as no fuller on earth can white them.
NIV(New International Version): His clothes became dazzling white, whiter than anyone in the world could bleach them.
GNT(Good News Translation) : and his clothes became shining white—whiter than anyone in the world could wash them.
口語訳:その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。
新改訳:その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。
新共同訳:服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
文語訳:其の衣かがやきて甚だ白くなりぬ、世の晒布者を爲し得ぬほど白し。
数日前、"雪のように白く"と訳されてなければ、改竄聖書、悪魔の書 である。ラックマン訳だけが正しい!と仰る日本人の方から返事が来ました(韓国語のアクセント動画ですので、韓国人の方かも知れません?)
他にも、ルカ 9: 41の “曲がった時代よ”の訳は 間違いで、“曲がった世代よ” が正しい訳であるから原語が改竄されている、という動画など多々ありました。
それでも、私は、調べないうちは先入観や偏見持たず、自分の目で確かめたいタイプなので、ラックマン氏とラックマン訳について3晩連続で調べました。ラックマン氏は嫌いじゃないです。日本で住まれていた時、一度、禅にハマられたようで、多文化に偏見を持ってなかった方だと思われます。 でも、大事でないことにばかり拘割り過ぎると本筋からズレてしまいます。イヴが食べた“知恵の実”は、果たしてリンゴなのか桃なのか?もし、リンゴなら、サン富士?ジョナゴールド?蜜入り? という拘りとよく似ています ( ´艸`)💦
私が思うに、どうして"雪のように白く"と訳される場合や訳されないケースに別れるのかは、ギリシア語は繊細であり、不明瞭・不透明な場合もあるということです。また、ギリシア文化の慣習を表現するのにピッタリと当てはまるコトバが見つからないからだと思います。ですので、こういうケースは改竄とは無関係です。 例えば、「生殺しの蛇に噛まれる」という諺は、災いの根源や悪者の息の根を完全に取り去らなかったため、自分の身に害が及ぶことです(類義語:蛇の生殺しは人を噛む)。でも、この諺を英語でワンフレーズで直訳しても、根本の意味が理解されません。
ラックマン氏の言うことだけを鵜呑みにする前に、自身がギリシア語や各言語の特徴・特異性を知ならいと勝手な思い込みになります。
色んな説を自分で調べることなく、有名牧師の教えを鵜呑みにして受け身になっているクリスチャンが日本にも多いです。自分だけの想い込みなら良いですが、牧師や教師という立場の人が、携挙が艱難前に起こると堂々と公言して拡散するのは、未信者に対しても間違ったことを扇動していることになります。
現在、艱難前携挙説を信奉する信者の多くが自分では徹底して調べてないです。テレビ伝道者の中川牧師・自分の教会・好きな牧師がそう教えてるから信じた。なんていう人が殆どだと思います。アメリカでも人気な説でもあるし、レフト・ビハインドの映画を観たから、益々、艱難前携挙が確信できた!なんて理由もあると思います。でも、これって、私から見るとミーハーだとしか感じられません。
私はアメリカという国を “セロリーの国”と思ってます。韓国もよく似ています。様々な新セオリーが誕生しやすい国です。米国人も韓国人も、自分自身に自信を持っている人が多いです。傲慢な自信でないなら、自信は良いことです。目立つことが好きなので、成功者・セレブ・開祖・元祖になりたいという想いの強い国民性です。成功欲だけでなく一攫千金願望も強い分、努力もします。新しく自分のビジネスをスタートしたい・開祖したい人が多いので、ある意味バイタリティがあります。ただし、国民性的なマイナス点として、これらの国では、多くの新セオリー、異端グループが生まれてきました。もちろん、日本の仏教・神道にも新興宗教はありますが、これらの国と比較したら、数は全然少ないです。
さて、艱難前携挙説に戻りますが、どうしてそのセオリーを信じてしまったのでしょうか? 自身の動機を見つめなおして下さい。
日本のQアノン信者は、アメリカQアノン現象に釣られました。今は、サイオプだと完全にバレてしまっています。自分で考えたり調べる前に、感情やノリで追随するのは危険です。
また、初めから先入観を持っているなら、答えに聖霊の導きがありません。神様の声は、自分の好き嫌いや感情ではなく、still small voice(動かない小さな声)です。
オープンマインドになって、他の説も徹底して調べて下さい。私は、今でも比較するために、艱難前説も聴いたり読んだり継続しています。昨年、中期説も調べましたが、やはり腑に落ちませんでした。ただ、中期説についても再度、徹底して調べようと思います。
牧師という立場の人たちが、他の説を徹底して調べずして艱難前携挙が起こります!などと動画を出すのは無責任ではないでしょうか? 携挙のタイミングについて間違ったことを拡散するのは、後に大きな責任となります。ホントに聖霊の導きから来た答えなのでしょうか?先入観なしで徹底的に調べたのでしょうか? 牧師であるなら、私の何倍も何倍も調べる必要があると思います。携挙の時期については、艱難前に起こらなければ、牧師生命も絶たれます。信頼されなくなります。もちろん、中川先生も例外ではないです。 ですので、“携挙について真実だけを教えて下さい”と、神様に祈り始めてみて下さい。
私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。ヤコブ3:1
私だって、こんな嫌われることを言うのは嫌です! 特に縦社会の日本では、教会であっても違う意見を言うと、牧師でないのに傲慢なヤツ、女のくせに、信徒の立場で生意気な!と思われますから。でも、この事に限っては、「顔を火打石のように頑固にして シッカリ伝えなさい」と神様から言われました。嫌われても何と思われても、言いなさいということです。
私は、7年前に神様から、「私のために、嫌われる準備は出来ていますか?」と3回聞かれました。その都度、「はい、出来ています。」と応えました。何だか、嬉しいような悲しいような心境になりました。その時は何のことか判りませんでしたが、その翌月に、何のことだかスグに判りました。そして、今でも、嫌われることを言わざるえないというのが、自分の役割だと感じます。 日本人はおしとやかな人が多すぎて、牧師に意見出来ない人が多いです。だから、私のような性格の者が選ばれたのです。ただ、私は教えているつもりではなく、神から頂いたコトバをシェアしているだけです。私の一番多く頂いている聖霊の賜物は教える事でなく discerning です。
主なる神が助けてくださるから わたしはそれを嘲りとは思わない。
PS すみません、今回書けなかったアポスタシー(Ⅱテサロニケ 2: 3)については、数日内に書きます。