▲テッポウユリ 2020年4月28日 石垣市宮良タフナー原
▲アマリリス 2020年4月28日 石垣市宮良タフナー原
▲明和大津波遭難者慰霊之塔 2020年4月28日 石垣市宮良タフナー原
▲ゲットウ(月桃) 2020年4月28日 石垣市宮良タフナー原
テッポウユリ(鉄砲百合)、別名リュウキュウユリ、サガリユリ、ツツナガユリ、方言名ユイ、ユーガバナ、学名 Lilium longiflorum。
ユリ科ユリ属の多年生草本球根植物。南西諸島および九州南部が原産。
伊江島のリリーフィールド公園は、来場者を抑えて新型コロナウイルス感染拡大を防ぐため、恒例のユリ祭りを中止にし、テッポウユリの花を早くに摘み取った。県立総合運動公園でも、16000本のテッポウユリの花を刈り取った。切ないことだ。
しかし沖縄原産のテッポウユリは、野山に自生の群落もあり、道路沿いの植え込みや庭にもよく植えられている。この季節、石垣島ではあちこちで白いこの花を見ることができる。
写真のテッポウユリは、明和大津波遭難者慰霊之塔の脇に、色とりどりの草花と一緒に咲いていた。
1771年4月24日(明和8年旧暦3月10日)、八重山列島近海を震源とする八重山地震に伴って発生した大津波が、宮古・八重山諸島を襲った。
明和大津波遭難者慰霊之塔は、1983年に、石垣市宮良のタフナー原に建てられた。南に海を見下ろす高台の、ウージ(サトウキビ)畑などが広がる静かなタフナー原。大津波の当時も、テッポウユリがそこここに咲き誇っていただろうと思う。
毎年4月24日にこの慰霊之塔前で行われる慰霊祭は、今年は規模を縮小して極少人数で執り行われたそうだ。
【Wikipedia「八重山地震」】より
震害はなかったが、地震により最大遡上高30m程度[22]の大津波が発生し、宮古・八重山両列島で死者・行方不明者約11,000人・家屋流失約2,000戸という惨事になった。石垣島では潮が引いて青、緑、紅、紫熱帯色の色彩眩き大小の魚がサンゴ礁の根株の下に跳躍し、婦女、小児がこれを捕えているところに、しばらくして東方洋中に二条の暗雲が垂れ込め、砕けて激しき暴潮漲溢が弃馬の如く狂い、繰り返し襲って来た(『ひるぎの一葉』[23])[24][1]。八重山諸島では死者約9,200人[25]、生存者約19,000人で、14の村が流され、津波の直接の被害として死者・行方不明者は住民の約3分の1にのぼった[26][1]。耕作可能地の多くが塩害の影響をうけ、農作物の生産が低迷し、社会基盤が破壊された。津波発生の翌年6月初ごろより、疫癘の流行が白保村から始まり、環境衛生が極度に悪化して伝染病が流行したと推定され、古老らによって「イキリ」と伝承されているが、これは疫痢のこととされる(『奇妙変異記』)。強制移住や翌年の飢饉と疫病の流行によって、八重山で死者約5,000人を出した。その後1776年、1802年、1838年、1852年と飢饉や疫病がうち続き、約100年後の明治時代初頭の八重山諸島の人口は、地震前の4割から3割程度にまで減少した[27][24][1]。
慰霊之塔と前広場は、モモタマナやクワなどの高木と月桃の茂みに囲まれている。
前広場へ回り込む道の入り口に、タコラサー石と呼ばれる大きな石がある。明和の大津波で生き残った人たちがたいまつの明かりを頼りにここに寄り集まったという言い伝えがある石だ。
【石垣島の伝説「タコラサー石」】より
「タコラサー石」には、“明和の大津波で生き残った人たちがたいまつの明かりを頼りに寄り集まった”という言い伝えがあります。「明和の大津波」とは、1771年4月24日の午前8時頃に、八重山・宮古諸島を襲った大津波のことで、日本近海で歴史上最大級の津波災害をもたらせたと言われています。もともと大津波が起こった原因は地震でした。地震の震源地は、石垣島・白保崎の南南東約40kmの海底で、地震の規模はマグニチュード7.4。地震の揺れによる被害は、一部の建物や石垣が崩れるなど比較的軽いものでしたが、大津波が発生したためにたくさんの溺死者が出たのです。この日、野良仕事で集落の外にいて難を逃れた運天築登之(ちくどぅん)と、御用布を蔵元に納付するために宮良村を離れていて難を逃れた外本御嶽の神司・大久ウナリの2人が、津波の後にこの石に辿り着き、日が暮れかけてからたいまつを焚いていたら、その明りを頼りに生存者が集まってきたので、生存者の救護や食糧の調達をして、一時期共同生活を送ったと言われています。(後略)
石垣島東海岸の村々は壊滅的な被害を受け、宮良では86%、白保では98%の住人が亡くなった。生き残った元の集落住民をはるかに上回る「寄百姓」が近隣や離島から入ったそうだ。村の人々は飢餓と疫病と闘いながら、塩害にあった田畑を耕して生活を立て直していった。宮古・八重山諸島は、1637年から課せられた「人頭税」に呻吟していた時代だった。
宮良の豊年祭は、地元民以外の立ち入りを厳しく制限する「秘祭」として有名だが、一昨年の豊年祭の時、宮良の年配の方が自家に呼んでくれ、来訪神アカマタ・クロマタの訪問を見せていただくことができた。また、その方が話してくださった村の歴史を聞いているうちに、「厳しい時代を生き抜いた先祖たちに寄せる尊敬と感謝と祈りを込めた豊年祭だから、子孫である地元民だけで厳粛に執り行いたいということなんだ。」と納得した。
【参考文献】
『八重山を学ぶ―八重山の自然・歴史・文化―』 『八重山を学ぶ』刊行委員会 2018年
『新訂増補 八重山歴史』 喜舎場永珣著 国書刊行会 1954年