教師の道を選んで
「人生の問題に興味があり過ぎて、私は商業の実務的な学科には興味が持てなかったが、経済思想史のようなものには心をひかれた。河上肇博士の本も主なものは読んだ。『資本主義経済学の史的発展』や『貧乏物語』などは繰り返して読んだ。思想的にはついて行けないところがあっても、河上肇氏の文には人をひきつける魅力があった。
本位田祥男氏の『消費組合運動』という本を読んで深く共鳴し、私の生涯をこの運動のために捧げようかと思ったこともあるが、結局は私の性格その他から考えて、教師の道をすすむ決心をするようになった。人間はその性格に合った職業を選んで、それに全力を尽すことによって、神と人とに仕える以外に道はないと考えたからである。
関西学院には宗教や人生の問題を考えさせる雰囲気とともに、英語を重視し、これに興味を持たせる校風があって、4年の課程のうち、最初の2年は英語の時間もずいぶん多かった。そういうことから、学校の学科のうちで一番自主的に勉強したのは英語だった。英語といっても話す英語は不得意で、もっぱら読む英語だったけれど、関心のおもむくままに種々の作家のものを読んだ。
英文科に入っていたらよかったのにと思うことがしばしばだった。ついに英語、英文学の研究にこれからの生涯をゆだねようと決心して、高商部を卒業するとともに関西学院中学部の英語教師となった。大正13年4月のことだった。
関西学院高商部を同期に卒業したのは130人ぐらいで、その中には学者としては会計学の青木倫太郎君、政治家としては後に農林大臣になった永江一夫君、実業家としては大阪瓦斯の社長になった藤坂修美君、阪急百貨店の副社長になった村上元吾君などがある。
卒業したころ永江と村上と私とが集まると、永江は政治家としての理想を語り、村上は実業家としての夢を語り、私は若い教師として一心にハーディなどを読んでいた。めいめいすきな道を歩んで来たという点では、3人とも悔いはなかったと思う。
神戸は我々が若い学生時代を送った場所として懐かしい町である。用事がなくても時々歩いてみたい町である。関西学院のあった所も今はすっかり変ってしまったが、いま王子公園で王子図書館になっている建物は、昔の関西学院の礼拝堂であった。昔あった尖塔は切り取られているが、赤いれんがの色は昔と変らない。
寿岳しづさんの『朝』という小説に次のような一節がある。 「昨日で試験が終ったのか、丘の緑は眼に染むばかりで、チャベルの鐘も今朝は鳴らなかった。なだらかなたかみの方へ讃美歌を歌いながら登って行く学生があるのも、のびのびした試験後の気分らしい。小高い丘の上には外人教師の邸と並んで神学部の寮舎があった」
寿岳しづさんは、文学部に在学しておられた私たちより一級上の盲目の学生、岩橋武夫氏の妹さんで、岩橋氏と同じクラスの学生だった寿岳文章氏の奥さんになっておられる人である。この小説を読み返してみると、あのころの学院風景が懐かしく目の前に浮かんでくる。
私が中学の教師になったころ、職員室でみんなから敬愛されていたのは教頭の真鍋由郎氏であった。この人は博物の先生で「真鍋ウナギ」というウナギの珍種を発見された人であるが、絵をよくし、漢詩に親しみ、『頼山陽と京阪』『先賢群像』などの本を書き、新村出先生もこれらの本を高く評価された。
いつか職員室で、何かのことからミミズが話題となったが、真鍋先生はミミズを礼賛して、「ミミズのように生きたい」と言われた。先生を心から敬愛していた池部先生が、「しかし園芸家はずいぶんミミズをきらいますよ」と言うと、先生は「ミミズを攻撃しないでくれ。他の動物を殺して食べたりしないで、あのように土だけ食って生きているものを悪くいうのはかわいそうだ。私はミミズの弁護者であり、ミミズ賛美論者だ」と言われた。
真鍋先生は篤信のクリスチャンだった。上級生と下級生とが対立して騒動になったとき、先生が「下級生に代って私があやまるから」と言って、講堂の床の上にすわって上級生に謝られたので、いきり立った上級生も、真鍋先生の深い人格に感激して騒ぎがおさまったというようなこともあった。
私が就任した年の夏・真鍋先生は腸チフスで入院されたが、病床から寝たままで書かれた先生の葉書が私のところにとどいた。新しく教師になったばかりの私に対する温かな思いやりに満ちた助言がこまごまと書かれていて、1枚の葉書がこのような喜びと励ましとを与えうるものだということを教えて下さったのは真鍋先生だった。
関西学院は昭和4年、神戸から西宮の郊外、上ケ原に移転した。そのころから私は高商部の教師になるよう、高商部の神崎部長や恩師の牧岡先生からしきりににすすめられた。私は中学部の教育を楽しみ、生徒たちにも愛着を感じていたので、高商部へ移ることを何年も断っていたが、繰り返してすすめられるので、昭和7年高商部の教授になった。
中学部の教師をしていた間に、健康もようやく良くなって、結婚をし、長女も生まれた。幸福に好きな英語・英文学の勉強をした時代だった。高商部に移った私は、英語の授業の上に学生指導の責任を負わされ、心を労することも多かったが、学生との接触は深くなり、私が教師の幸福をしみじみ感じた時代であると言えよう。
田舎から出て来た学生で、学校をさぼってずるずると欠席するのを落第させないように、下宿へ起しに行って出席させたりした。同窓会などで古い卒業生が、よく私にしかられた思い出を話す。しかし、よくしかった学生ほどお互い親近感が深いような気がする。よくしかる教師は第一流の教師とは言えないが、「おこる教師は必ずしもたちの悪い教師ではない」と言ったら、それは自己弁護に過ぎるであろうか。
やがて満州事変、それが中国へと拡大して、日本の非常時は次第に深刻になって行った。私ももう40歳になろうとしていた。池大雅は年30に及んだとき、意のごとく技の進まないのを憂えて、祇南海に教えを乞うたというが、私も40に近く、人間としての私自身の未熟を憂える気持が強かった。そのころ高商部の雑誌に次のような文を書いている。
病弱に苦しんでいた学生時代の日記の見返しに、「人間の身の苦しやと思うとき落つる涙の甘き味わい」という与謝野晶子の歌を書きつけていたことを思い起す。人の世の苦難の中からあふれ出る涙にこそ、真の人生の醍醐味があるのだというその歌の心は、病弱に苦しむ私の胸に強く響いたものである。この時代からすでに20年に近い歳月が流れた。日記の見返しに書く言葉もいろいろの変遷をたどって、この頃の日記の見返しには、「この秋は雨か嵐か知らねども今日のつとめに田草とるなり」という古い歌を書き記しているが、20年の間に私がどれだけ進歩したかを考えると、ほんとうにさびしい。
しかし、ともかく私はこの天命を知った歌がすきである。ある音楽ずきの青年に西田天香氏が、「洗濯のバサバサいう音の中に、べートーベンの音楽以上の音楽を感ずることが出来ませんか」と言ったという話を、先年一燈園の田北氏から聞いて深く心を打たれたことがある。私などはまだ一合目にさえ達していないという感じがしたものである。
しかし、道はいかに遠くても勇気を失ってはならないと思う。何十年のたゆまぬ読書も、思索も、洗濯のバサバサという音に天来の声を聞き、野の花に天国を見るような境地に人間の心を導いて行くのでなければ、それはむなしい篤学ではないだろうか。
学生の有志たちを集め、奉仕の実践をする会をつくって、学校の内部で、または民家に出かけて、学生とともに奉仕の実践をしたのはその頃である。夏休みには遠く瀬戸内海の本島にその学生たちと合宿して、勤労奉仕をしたり、学生生活のあり方、人間完成の問題などを一緒に考えたりした。集まった学生はいい学生が多く、むしろ私が教えられることが多かった。島の合宿は何年も続けて夏ごとに出かけた。
そのころ満州へ全国の旧制高校、専門学校の学生を各校から5人ずつ選んで送り、一夏働かせることが数年続いた。その第1回の年に、私も付添いとして行くことを学校から依頼され、1ヶ月学生と共に汗にまみれて満州で勤労奉仕をしたことがあるが、学生たちにとっても私にとってもいい体験だった。
終戦に近い19年、私は中学部の教頭になり、戦後の22年に中学部長となった。私は十数年も高商の学生を教えて、教師の喜びを味わっていたのだし、中学下級生の扱いは自信がなかったので、中学部に行くことはずいぶん躊躇されることであった。私が決心して引き受けたのは、小川未明氏が、いろいろの社会改造の運動をしたが、結局少年少女の心に美しい精神を植えつける以外に社会をよくする道はない、と考えたというのと同じような気持からだった。
聖書にも、「汝の若き日に造り主をおぼえよ」という言葉があるが、教育は下ほど大切であるという考え方が、私に勇気と決断を与えた。
少年の心に種をまく
関西学院の教育はキリスト教教育であり、教師の信仰は重大な問題である。
私がキリスト教に接したのは関西学院に入ってからであった。すでに20歳だったので、ニュートン先生、べーツ先生、吉岡先生などのキリスト教的人格に強く心を打たれながら、キリスト教の教義の問題になるとひっかかるところが多くて、私が洗礼をうけるには長い年月を要した。それを解決し得たのは、日本人の心を深く理解した原田美実牧師のおかげである。原田先生は長く川合信水先生に心酔しておられ、私も原田先生に導かれて川合先生の門に入り、川合先生から洗礼をうけた。
川合先生のことは、岩波書店から出版されている大塚栄三氏の『郡是の川合信水先生』にも書かれている。東北学院出身の牧師であり、教育者であった。
郡是製糸にはいられたのは45歳の頃であるが、郡是は従業員の教育を託する人を求めていて、川合先生という立派な人があることをきいて、「ぜひ来ていただきたい」と先生に交渉した。波多野鶴吉社長は、「従業員たちは親から委託されたものであるから、これを教育してよい人にしたい」と言ったが、先生はこれに答えて、「従業員をよくしたいと思うなら、まず第一にあなた自身がよくならなければなりません」といわれた。波多野社長はえらい人で、「まず私から御教示を受けたいと思いますから、どうかおいでを願いたい」と言った。
社長の片腕だった片山金太郎氏も、社長とともに川合先生について修業し、川合先生の最高の弟子の1人になった。社長と専務とがこういう態度だったので、従業員の教育はすばらしい効果をあげた。旅行者が野道を歩いていて畑仕事をしている娘さんに会う。「よい娘さんだな」と思ってその辺の人にきくと、「あの娘さんは郡是に行っていましたから」と答える。それほど教化が効果をあげていたといわれる。
郡是をやめられた後は、故郷に近い富士吉田市の「不二山荘」においてキリスト教を教え、道を説かれた。そして日本のことを常に憂え、日本のために祈られた。「日本が滅びないでいるのは、どこかで義人が祈っているからだ」と常に言われた。
関西学院中学部の教育の中心はキリスト教精神であり、純な若い魂の中にキリスト教精神をしみ入らせることは私の心からの願いであった。中学部の卒業生で、長く外国の大学で研究して帰国し、いま立派な学者になっている一人の卒業生は、学院の思い出を次のように書いている。
むしろ世界の孤島で不毛の心を持ち続けたかも知れない私が、少年のころキリスト教教育をうけたことによって、未知の世界に心が開けたということが、今の私には何にも増して重大なことであったと思えます。私どもにとって大事なのは、個人一人一人の尊厳ということと、車の両輪のように人類全体の運命ということが心に刻まれていなければならないという発想は、もしも私が中学部に学んでいなかったら決して生まれていなかったと思うのです。
この卒業生は「人類全体の運命」と書いているが、現代世界の最大の問題は、原水爆が日日進んで行きつつある中に、人類が生き残れるかという問題である。
ユネスコ憲章は、「戦争は人の心の中で生れるのであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という。教育の使命、殊に宗教教育を行う学校の使命は大きい。私は少年の心に種をまくことの意義を信ずる。 」
『人間の幸福と人間の教育』矢内 正一著(昭和59年9月30日創文社) より
「人生の問題に興味があり過ぎて、私は商業の実務的な学科には興味が持てなかったが、経済思想史のようなものには心をひかれた。河上肇博士の本も主なものは読んだ。『資本主義経済学の史的発展』や『貧乏物語』などは繰り返して読んだ。思想的にはついて行けないところがあっても、河上肇氏の文には人をひきつける魅力があった。
本位田祥男氏の『消費組合運動』という本を読んで深く共鳴し、私の生涯をこの運動のために捧げようかと思ったこともあるが、結局は私の性格その他から考えて、教師の道をすすむ決心をするようになった。人間はその性格に合った職業を選んで、それに全力を尽すことによって、神と人とに仕える以外に道はないと考えたからである。
関西学院には宗教や人生の問題を考えさせる雰囲気とともに、英語を重視し、これに興味を持たせる校風があって、4年の課程のうち、最初の2年は英語の時間もずいぶん多かった。そういうことから、学校の学科のうちで一番自主的に勉強したのは英語だった。英語といっても話す英語は不得意で、もっぱら読む英語だったけれど、関心のおもむくままに種々の作家のものを読んだ。
英文科に入っていたらよかったのにと思うことがしばしばだった。ついに英語、英文学の研究にこれからの生涯をゆだねようと決心して、高商部を卒業するとともに関西学院中学部の英語教師となった。大正13年4月のことだった。
関西学院高商部を同期に卒業したのは130人ぐらいで、その中には学者としては会計学の青木倫太郎君、政治家としては後に農林大臣になった永江一夫君、実業家としては大阪瓦斯の社長になった藤坂修美君、阪急百貨店の副社長になった村上元吾君などがある。
卒業したころ永江と村上と私とが集まると、永江は政治家としての理想を語り、村上は実業家としての夢を語り、私は若い教師として一心にハーディなどを読んでいた。めいめいすきな道を歩んで来たという点では、3人とも悔いはなかったと思う。
神戸は我々が若い学生時代を送った場所として懐かしい町である。用事がなくても時々歩いてみたい町である。関西学院のあった所も今はすっかり変ってしまったが、いま王子公園で王子図書館になっている建物は、昔の関西学院の礼拝堂であった。昔あった尖塔は切り取られているが、赤いれんがの色は昔と変らない。
寿岳しづさんの『朝』という小説に次のような一節がある。 「昨日で試験が終ったのか、丘の緑は眼に染むばかりで、チャベルの鐘も今朝は鳴らなかった。なだらかなたかみの方へ讃美歌を歌いながら登って行く学生があるのも、のびのびした試験後の気分らしい。小高い丘の上には外人教師の邸と並んで神学部の寮舎があった」
寿岳しづさんは、文学部に在学しておられた私たちより一級上の盲目の学生、岩橋武夫氏の妹さんで、岩橋氏と同じクラスの学生だった寿岳文章氏の奥さんになっておられる人である。この小説を読み返してみると、あのころの学院風景が懐かしく目の前に浮かんでくる。
私が中学の教師になったころ、職員室でみんなから敬愛されていたのは教頭の真鍋由郎氏であった。この人は博物の先生で「真鍋ウナギ」というウナギの珍種を発見された人であるが、絵をよくし、漢詩に親しみ、『頼山陽と京阪』『先賢群像』などの本を書き、新村出先生もこれらの本を高く評価された。
いつか職員室で、何かのことからミミズが話題となったが、真鍋先生はミミズを礼賛して、「ミミズのように生きたい」と言われた。先生を心から敬愛していた池部先生が、「しかし園芸家はずいぶんミミズをきらいますよ」と言うと、先生は「ミミズを攻撃しないでくれ。他の動物を殺して食べたりしないで、あのように土だけ食って生きているものを悪くいうのはかわいそうだ。私はミミズの弁護者であり、ミミズ賛美論者だ」と言われた。
真鍋先生は篤信のクリスチャンだった。上級生と下級生とが対立して騒動になったとき、先生が「下級生に代って私があやまるから」と言って、講堂の床の上にすわって上級生に謝られたので、いきり立った上級生も、真鍋先生の深い人格に感激して騒ぎがおさまったというようなこともあった。
私が就任した年の夏・真鍋先生は腸チフスで入院されたが、病床から寝たままで書かれた先生の葉書が私のところにとどいた。新しく教師になったばかりの私に対する温かな思いやりに満ちた助言がこまごまと書かれていて、1枚の葉書がこのような喜びと励ましとを与えうるものだということを教えて下さったのは真鍋先生だった。
関西学院は昭和4年、神戸から西宮の郊外、上ケ原に移転した。そのころから私は高商部の教師になるよう、高商部の神崎部長や恩師の牧岡先生からしきりににすすめられた。私は中学部の教育を楽しみ、生徒たちにも愛着を感じていたので、高商部へ移ることを何年も断っていたが、繰り返してすすめられるので、昭和7年高商部の教授になった。
中学部の教師をしていた間に、健康もようやく良くなって、結婚をし、長女も生まれた。幸福に好きな英語・英文学の勉強をした時代だった。高商部に移った私は、英語の授業の上に学生指導の責任を負わされ、心を労することも多かったが、学生との接触は深くなり、私が教師の幸福をしみじみ感じた時代であると言えよう。
田舎から出て来た学生で、学校をさぼってずるずると欠席するのを落第させないように、下宿へ起しに行って出席させたりした。同窓会などで古い卒業生が、よく私にしかられた思い出を話す。しかし、よくしかった学生ほどお互い親近感が深いような気がする。よくしかる教師は第一流の教師とは言えないが、「おこる教師は必ずしもたちの悪い教師ではない」と言ったら、それは自己弁護に過ぎるであろうか。
やがて満州事変、それが中国へと拡大して、日本の非常時は次第に深刻になって行った。私ももう40歳になろうとしていた。池大雅は年30に及んだとき、意のごとく技の進まないのを憂えて、祇南海に教えを乞うたというが、私も40に近く、人間としての私自身の未熟を憂える気持が強かった。そのころ高商部の雑誌に次のような文を書いている。
病弱に苦しんでいた学生時代の日記の見返しに、「人間の身の苦しやと思うとき落つる涙の甘き味わい」という与謝野晶子の歌を書きつけていたことを思い起す。人の世の苦難の中からあふれ出る涙にこそ、真の人生の醍醐味があるのだというその歌の心は、病弱に苦しむ私の胸に強く響いたものである。この時代からすでに20年に近い歳月が流れた。日記の見返しに書く言葉もいろいろの変遷をたどって、この頃の日記の見返しには、「この秋は雨か嵐か知らねども今日のつとめに田草とるなり」という古い歌を書き記しているが、20年の間に私がどれだけ進歩したかを考えると、ほんとうにさびしい。
しかし、ともかく私はこの天命を知った歌がすきである。ある音楽ずきの青年に西田天香氏が、「洗濯のバサバサいう音の中に、べートーベンの音楽以上の音楽を感ずることが出来ませんか」と言ったという話を、先年一燈園の田北氏から聞いて深く心を打たれたことがある。私などはまだ一合目にさえ達していないという感じがしたものである。
しかし、道はいかに遠くても勇気を失ってはならないと思う。何十年のたゆまぬ読書も、思索も、洗濯のバサバサという音に天来の声を聞き、野の花に天国を見るような境地に人間の心を導いて行くのでなければ、それはむなしい篤学ではないだろうか。
学生の有志たちを集め、奉仕の実践をする会をつくって、学校の内部で、または民家に出かけて、学生とともに奉仕の実践をしたのはその頃である。夏休みには遠く瀬戸内海の本島にその学生たちと合宿して、勤労奉仕をしたり、学生生活のあり方、人間完成の問題などを一緒に考えたりした。集まった学生はいい学生が多く、むしろ私が教えられることが多かった。島の合宿は何年も続けて夏ごとに出かけた。
そのころ満州へ全国の旧制高校、専門学校の学生を各校から5人ずつ選んで送り、一夏働かせることが数年続いた。その第1回の年に、私も付添いとして行くことを学校から依頼され、1ヶ月学生と共に汗にまみれて満州で勤労奉仕をしたことがあるが、学生たちにとっても私にとってもいい体験だった。
終戦に近い19年、私は中学部の教頭になり、戦後の22年に中学部長となった。私は十数年も高商の学生を教えて、教師の喜びを味わっていたのだし、中学下級生の扱いは自信がなかったので、中学部に行くことはずいぶん躊躇されることであった。私が決心して引き受けたのは、小川未明氏が、いろいろの社会改造の運動をしたが、結局少年少女の心に美しい精神を植えつける以外に社会をよくする道はない、と考えたというのと同じような気持からだった。
聖書にも、「汝の若き日に造り主をおぼえよ」という言葉があるが、教育は下ほど大切であるという考え方が、私に勇気と決断を与えた。
少年の心に種をまく
関西学院の教育はキリスト教教育であり、教師の信仰は重大な問題である。
私がキリスト教に接したのは関西学院に入ってからであった。すでに20歳だったので、ニュートン先生、べーツ先生、吉岡先生などのキリスト教的人格に強く心を打たれながら、キリスト教の教義の問題になるとひっかかるところが多くて、私が洗礼をうけるには長い年月を要した。それを解決し得たのは、日本人の心を深く理解した原田美実牧師のおかげである。原田先生は長く川合信水先生に心酔しておられ、私も原田先生に導かれて川合先生の門に入り、川合先生から洗礼をうけた。
川合先生のことは、岩波書店から出版されている大塚栄三氏の『郡是の川合信水先生』にも書かれている。東北学院出身の牧師であり、教育者であった。
郡是製糸にはいられたのは45歳の頃であるが、郡是は従業員の教育を託する人を求めていて、川合先生という立派な人があることをきいて、「ぜひ来ていただきたい」と先生に交渉した。波多野鶴吉社長は、「従業員たちは親から委託されたものであるから、これを教育してよい人にしたい」と言ったが、先生はこれに答えて、「従業員をよくしたいと思うなら、まず第一にあなた自身がよくならなければなりません」といわれた。波多野社長はえらい人で、「まず私から御教示を受けたいと思いますから、どうかおいでを願いたい」と言った。
社長の片腕だった片山金太郎氏も、社長とともに川合先生について修業し、川合先生の最高の弟子の1人になった。社長と専務とがこういう態度だったので、従業員の教育はすばらしい効果をあげた。旅行者が野道を歩いていて畑仕事をしている娘さんに会う。「よい娘さんだな」と思ってその辺の人にきくと、「あの娘さんは郡是に行っていましたから」と答える。それほど教化が効果をあげていたといわれる。
郡是をやめられた後は、故郷に近い富士吉田市の「不二山荘」においてキリスト教を教え、道を説かれた。そして日本のことを常に憂え、日本のために祈られた。「日本が滅びないでいるのは、どこかで義人が祈っているからだ」と常に言われた。
関西学院中学部の教育の中心はキリスト教精神であり、純な若い魂の中にキリスト教精神をしみ入らせることは私の心からの願いであった。中学部の卒業生で、長く外国の大学で研究して帰国し、いま立派な学者になっている一人の卒業生は、学院の思い出を次のように書いている。
むしろ世界の孤島で不毛の心を持ち続けたかも知れない私が、少年のころキリスト教教育をうけたことによって、未知の世界に心が開けたということが、今の私には何にも増して重大なことであったと思えます。私どもにとって大事なのは、個人一人一人の尊厳ということと、車の両輪のように人類全体の運命ということが心に刻まれていなければならないという発想は、もしも私が中学部に学んでいなかったら決して生まれていなかったと思うのです。
この卒業生は「人類全体の運命」と書いているが、現代世界の最大の問題は、原水爆が日日進んで行きつつある中に、人類が生き残れるかという問題である。
ユネスコ憲章は、「戦争は人の心の中で生れるのであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という。教育の使命、殊に宗教教育を行う学校の使命は大きい。私は少年の心に種をまくことの意義を信ずる。 」
『人間の幸福と人間の教育』矢内 正一著(昭和59年9月30日創文社) より
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