イエス・キリストの福音

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第三章 聖霊様とあなた 【聖霊様はあなたの助け主】 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。

2021-05-04 04:00:00 | 日記

第三章 聖霊様とあなた

【聖霊様はあなたの助け主】

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」

(ヨハネ十四章十六節)

最初の助け主はイエス様で、もうひとりの助け主とは聖霊様です。

今日も聖霊様はイエス様が二千年前に病をいやし、悪霊を追い出し、多くの奇蹟を現し、天国の希望の福音を語られたと同じ働きを継続なされ、私たちを保護し弱さを克服できるよう助けてくださいます。それゆえ「もうひとりの助け主」と表現されています。

霊の世界ではもともと父なる神様をトップに仰ぎ、ミカエル、ガブリエル、ルシファーが三大天使長として、おのおの天の御使いの三分の一ずつを配下に組織されていました。

ところがルシファーが高ぶって堕落したとき、天国から追放され汚れた悪魔となりましたが、その時、自分の配下に配属されていた天の御使いの三分の一も巻きぞいにこの地上に投げ落とされ悪霊となりました。尾を持つ竜のようなルシファーの堕落ぶりを聖書はこう記録します。

「その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。」 

(黙示十二章四節)

今、悪魔、別名サタンは投げ落とされた地球の中心に本営の王国を設けて滅びの黄泉を住まいとし、そこから地上に向かって空中の権を持つ悪霊どもを送り込み、人々に罪を助長させ、魂を盗み、事故や病気や自殺や罪悪によって殺し、最後は黄泉にまで引きずり込んで滅ぼすことを願いとし使命としています。しかし恐れることは全くありません。他の三分の二の御使いはいぜん神様の力強い完璧な軍隊のままで、数の上でも神様の軍隊が圧倒的に二倍多いです。

このことを良く知る預言者エリシャは敵のアラム軍隊に包囲された窮地の時にも動揺せず、恐れる側近の若者を励まして大胆に宣言できました。

「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」

(列王第二 六章十六節)

事実エリシャが祈ると若者の霊の目が開かれ、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山にまで満ちていました。ハレルヤ。圧倒的な勝利です。

私たちも霊の目が同様に開かれる必要があります。本当は悟るなら、無数の力強い天の御使いがあなたを取り巻いて毎日、敵の攻撃や各種の災いから守っています。

あなたは特別な存在で天国の注目を受けている高価な尊い重要人物、どこにいても御使いのボディーガードが伴っています。敵の脅かしを一切恐れることはありません。

聖書は、はっきりと「平和の神はすみやかにあなたがたの足元にサタンをふみくだいてくださる」と硬く約束しています。あなたの足のサイズは何インチですか?どんなに大きい足の人でも三十から四十センチでしょうか。サタンはせいぜい三十センチ以下の私たちの足に直接踏みつけられるくらい非常に小さいミニサイズの存在なのです!

力のないすでに敗北した小人なのです!サタンを決して巨大な強敵だとは思わないでください。サタンは偽りの父で自分を大きく思わせてもその実、本当はとても小さい無力な小人です。

一方、神様は天の天もお入れすることができない偉大なお方なのです。その神様があなたの見方で、日々あなたを強め、あなたを助け、あなたを守ります。あなたが意識してもしなくても絶えずあなたとともにいる力強い助けてくださるお方なのです。強く雄々しく勇気を持ちましょう。聖霊様はあなたの助け主です。

聖書でイエス様が裏切り者イスカリオテ・ユダのことを「悪魔」と呼ばれた箇所があります。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」(ヨハネ六章七十節)

ユダにとっては悔い改めをうながすイエス様からの明瞭な警告でした。

ペテロのケースも同様です。

「イエスは振り向いて、ペテロに言われた。下がれ、サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 

(マタイ十六章二十三節)

霊の世界が見えない著者マタイが観察するとイエス様がペテロを叱責されたように見えましたが、本質は十字架を否定しペテロを惑わすサタン自体に下がれと命じておられたのです。ただ霊的な世界の出来事は人間サイドにもある程度、責任はあります。

サタンは百%一方的には人に入れません。心に罪と隙があるときだけです。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ、いのちの泉はこれからわく。」 

(箴言四章二十三節)

私たちの心が悪に侵略されないよう罪を悔い改めて、思いを清く守ることが霊の戦いです。

戦いの戦場は人でも環境でもなく私の心です。悪い思いを受け入れ、温め続けると、それはやがて心の中で敵の前進基地となり、強固な要塞となってしまいます。そうなると否定的な考えや誤った思い、反聖書的な宗教的思想など破壊するのに少々時間がかかります。

ペテロはイエス様から岩の上に教会を立て、天の御国の鍵を与えるという賞賛の御言葉を受けた直後、人間ができていなかったため浮ついて高ぶった心の隙間にサタンが入りました。人は誉められた時こそ謙遜にへりくだり、心の隙を作らないことが大事です。

 

献金泥棒と各種の罪悪で心の隙間だらけだったユダにおいては悪魔は二段階スライド式で彼の中に入って完全支配しています。一度目は

「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた。」(ヨハネ十三章二節)

始めは悪い思いからです。悪い思いが来たらすぐに追い出さなければ邪念は増大し、悪魔の入る心の戸口を全開することになります。

二度目は

「彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。そこでイエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」 (ヨハネ十三章二十七節)

ユダはイエス様からの最後の警告の悔い改めチャンスを踏みにじって自分の意志でパンを受けたため自己責任のもとサタンが完全に入りました。

人は誰でも罪を犯します。誤まって罪を犯し、サタンが恋い慕っているときは即刻悔い改め、乱れた心の思いを治めないと、ユダやカインのように殺人にまで罪は発達します。

万一、罪を犯したら、時を待たず、すぐにイエス様に口で告白して悔い改める幼子のような素直な心と習慣を持ちましょう。イエス様の十字架の血潮がすべての罪を赦して清め、聖霊様が常習的に罪を犯さないよう助けてくださいます。

聖書をよく読む人は聖霊様に満たされ、感情的な不安定さを遠ざけて罪の誘惑に打ち勝てます。聖書を沢山読んで心に神様の言葉を蓄え、否定的な悪い思いや非生産的な破壊的思いに心を支配されないよう武装しましょう。

 

ある牧師が結婚式の司式を任されました。ところが時間がなく十分祈らず、聖書も十分読まないで、ただ渡された式次第をもとにいつものように習慣的・形式的に司式を執り行いました。与えられた新郎新婦に対する聖書朗読予定の御言葉は以下のものでした。第一ヨハネの手紙四章十八、十九節

「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」

結婚式にふさわしい愛のメッセージ箇所です。ところがこの牧師はあらかじめ聖書を読んでいなかったため、過ちも気づかず第一ヨハネの手紙なのに第一を見落として本番で違うヨハネの福音書から同じ章と節を堂々見事に読み上げました。

ヨハネの福音書四章十八、十九節

「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」

聖書を毎日よく読んで十分祈ってからイエス様の仕事をしなければいけません。賛美も同様です。よく祈って聖霊様に満たされて導くと素晴らしい奉仕ができ会衆も恵まれます。

これは新しいゴスペルソングと伝統的な賛美歌の両方を礼拝に採用するある教会の賛美リーダーの失敗ですが、その日は教会の執事が賛美リーダーとして会衆の前に立ち集会前に賛美を導くことになっていました。ところが良く祈らず聖霊様の助けが弱かったこの執事は、言い間違えて会衆の前で大きな声で叫びました

「賛美歌582円」

実に大きな笑いをとりました。礼拝中に賛美歌582円が一体何の意味でしょうか!それは本当は「賛美歌582番」

と曲の番号を言いたかったのですが、緊張のあまり日ごろの本職である八百屋が現れて、細かい野菜の値段を呼ぶ感覚でそう叫んでしまったようです。

「賛美歌582円」

復活のイエス様がテベリヤ湖畔で御姿を現わされたとき、記憶に新しい弟子たちの裏切り行為が全くなかったかのような平然さと愛で接しておられます。彼らの過去の過ちに一切触れず、むしろ祝福だけを与えるイエス様の御姿はまさに

「愛は人のした悪を思わない」

の典型的模範です。

「イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。」(ヨハネ二十一章六節)

ペテロにとってこの大漁体験は初めてイエス様を単なる宗教家以上の神ご自身であると知った、あの出会い当初の大漁体験とマッチする感動的ななつかしい体験だったでしょう。

誰でも失敗し挫折したなら、もう一度初めの愛を思い返し初心に立ち返ることです。

イエス様はこの日、ペテロに対し深い赦しと心の傷の癒しまでなさっておられます。なぜならペテロは心底はイエス様を愛していたのに肉の弱さで人を恐れて三度目は偽り誓いながらも裏切りの言葉を語り、心がひどく病んでいたからです。もし、この日のイエス様による心の癒しがなかったならば、その後の教会の柱のようなリバイバリスト・ペテロはありえなかったことでしょう。主にある働き人は誰でもまず心癒される体験が必要です。

「シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。」(ヨハネ二十一章十一節)

ギリシャ語の「ペテロ」は数字で「153」とも置き換えられます。

そうです。この大漁体験は魚の数自体が無言のうちに、

「ペテロのためだよ」

と語っているのです。もっともイエス様の愛の配慮にその日、ペテロは気づかなかったと思われますが、危険なことは、心の傷が放置されたままの人は時に異常行動に走ります。

岸辺に立たれたイエス様を発見した当初のペテロはウエットスーツでもライフジャケットでもない重たい上着をわざわざ身にまとって水の負荷がかかりやすい不安定状態に変身してから

「ザブーン!」

と冷たい湖に飛び込みました。異常です。他の弟子たちはペテロほどひどい裏切り発言はなかったため、良心の呵責も少なく、比較的冷静に舟に乗って魚をちゃんと確保しながら岸に移動しましたが、ペテロの場合はそうはいきません。イエス様の御前メンツが立たず顔も上げられません。そこでペテロはあえてダイビングによりずぶ濡れ状態になってから御前に現われ、食事の時も一人冷えた体に水がポタリ、ポタリとしたたり落ちながら、あえてイエス様の哀れみを受けやすい可愛そうな姿を演出したのかもしれません。

ペテロは内心祈ります。

「イエス様、見てください。私はずぶ濡れでしょう。可愛そうでしょう。だから赦してね。」

もっともペテロはそんな深い考えもなく、実は何がなんだか分からなくなって水に飛び込んだと思われますが、人は未処理の放置された心の傷や蓄積されたストレスのゆえに異常行動をとるケースがしばしあります。

義人ヨブも試練の只中で生命なき自分の誕生日や夜自体を呪うという異常発言をしています。

「ヨブは声を出して言った。私の生まれた日は滅びうせよ。「男の子が胎に宿った。」と言ったその夜も。」(ヨブ三章二!二節)

 

預言者エレミヤも迫害の只中で受けたストレスのはけ口に生命なき自分の誕生日を呪うという同様の異常発言をしています。

「私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。」

(エレミヤ二十章十四節)

もし私たちの身近な誰かが異常な発言や行動をとるときは、生じた間題自体よりその背後の心の傷を扱って癒さなけれぱなりません。子を持つ親は特に注意が必要です。子供がおもちゃや、ぬいぐるみを積極的に破壊するとき、小さな虫を好んで殺すとき、背後に隠れたその子のストレスと心に受けた傷が間題です。異常行動はその人格者の内なる痛みの外なる危険信号です。

 

ある小さな女の子の顔に瞬間チックが走ってけいれんするのを私はしばし確認しました。そこで事情を調べると両親が家庭内で頻繁に暴力伴う夫婦喧嘩していることが分かりました。両親が信仰で和解と一致を祈り求め、聖霊様の恵みを受けて喧嘩をやめたところすぐに娘のチックも完全に癒されて止みました。

 

また、まれに心の癒されていない深い傷が今ではなく、長い年月の後に現れる特殊ケースもあります。ヨセフが十七歳で受けた傷がそれです。

「ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせたからである。」また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた。」からである。」(創世記四十一章五十一~五十二節)

父ヨセフは海外エジプトで産まれた長男に「マナセ」(忘れる)、次男にエフライム」(実り多い)と名づけましたが、次男「みのる君」は良しとして、長男の「忘れる君」はまずい名前を付けました。ヨセフの心が実は病んだまま、つらい十三年以上の過去を

「忘れていない、忘れたい、忘れたい」

その葛藤する内なる病める思いの複雑な現われです。それが公前で変な名前という形でトラウマとなって現われたのです。マナセにとってはいい生涯の迷惑です。

その後、兄弟たちに再会したヨセフは心の封印を解いた大泣き体験をし、次第に心癒されていきますが、私たちも過去の癒されていない心の痛みが、外国の地で変な形で現われたヨセフのように異なる環境のどこかで突如、過去に起因する異常行動となって現われるといけません。今、聖霊様によって心の癒しを受けましょう。

では如何にすれば、私たちも心の癒しをイエス様から受け取れるのでしょうか。傷つくペテロの心を癒されたイエス様から教訓を受けましょう。