「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。」(黙示録11:17)
第一にイエス様に心の王座を明け渡す人生が黄金の捧げ物です。
第二に乳香の捧げ物とは芳香性のゴム樹脂で、香り良く高価です。私たちの捧ぐ香り良き乳香とは賛美と感謝です。「私たちは、キリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」(ヘブル13:15)
苦難の只中でつぶやいて当然のような状況下でも涙とともに感謝と賛美が出来るなら、それは賞賛に値する大きな信仰です。試練と逆境の時こそ、その信者の信仰の真価が問われます。
何があっても怒らず、愛する主を悲しませることを口にしない。絶対に良き神様を信じて疑わない。私はあらゆる時に神様を感謝して賛美する。そんな決意が素晴らしく高価な乳香です。他に、乳香は高貴な人への贈り物にふさわしく(創世記43:11)、傷付くイエス様に対する癒しの薬であり(エレミヤ8:22,51:8)、香水でもあるため、かんばしい香りが家畜小屋の悪臭とは対照的で、即席の消臭剤にもなりました。この世がイエス様に与えた環境は悪臭でしたが、神様からの贈り物は愛の配慮ある消臭芳香剤です。
第三に没薬の捧げ物とは死体埋葬関連グッズです。イエス様は死の苦難を受ける預言ですが、私たちの場合、自我の死を意味します。積極的に犠牲愛で自分に死んで他者を生かす、従順な砕かれた柔和な心を得とくすることです。これこそ神様が喜んで受けてくださる没薬の捧げ物です。成熟した大人クリスチャンは子供のように素直で明るくかどの取れた人たちです。自我が砕かれたクリスチャンは謙遜で柔和です。信仰深い信者は頑固ではなく、最も小さな子供から老人まで親しくなれる柔和さがあります。自我を早く壊すことが祝福の近道です。
通常、赦せない人をイエス様が私たちの罪を赦してくださった愛をおぼえて自分の憎悪と復讐心を殺して赦す時、今でもイエス様に没薬の捧げ物を捧げることになります。
2008年12月8日、米海兵隊の戦闘機FA18Dホーネットがエンジン故障から住宅地に墜落、パイロットは直前に無事脱出、機体は爆発炎上で民家二棟が全壊、住民4人が死亡という痛ましい報道がありましたが、実はニュースにならない領域で彼らはクリスチャンホームでした。その日、韓国人移民の夫ユン・ドンユンさんは仕事の為、自宅不在でしたが、この事故で妻のユン・ヨンミさん36歳、娘のグレースちゃん1歳3ヶ月、娘のレイチェルちゃん2ヶ月、そして生後間もない孫の世話の為、渡米してきたばかりの母キム・スクイムさん60歳の合計4人が一瞬にして昇天となりました。どんなに悲しく厳しい試練でしょうか。翌日、報道陣を前に記者会見で夫のユンさんはこう語りました。「子供たちがもういないなんて信じられない。どうしたらいいのか分からない」と涙に言葉を詰まらせ、更にこう語りました。
「パイロットについては責めるつもりはないし、憎んでもいない。彼ができる限りの手を尽くしたことは分かっている。この事故のせいで彼が苦しむことのないよう祈ってください。」
美しいイエス・キリストから受けた赦しの宣言です。憎んで当然の事態に、赦しの心を持てた偉大な奇蹟の人です。その後、彼のところには米軍の慰謝料を始め、全国から莫大なお金が慰めとして送られましたが、ユン・ドンユンさんは生前、妻が携わっていた孤児たちを助ける社会福祉団体と教会に全額を寄付したのです!語るにはかくも短く単純でも、自らに置き換えて熟考すれば、非常に難易度の高い赦しに富んだ美しい愛の犠牲です。これこそ神様の御前に芳しいキリストの香りを放つ現代版、没薬の捧げ物ではないでしょうか。
「前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。」(ヨハネ19:39)
以前、乳香と没薬の液体をクリスマスに捧げた聖徒がいましたが、いずれも素晴らしい香水でした。
イエス様は人生の初めも最後も没薬の香りに満たされていました。やがて再臨に続く千年王国のときにも、全地が美しく香る花々が咲き乱れることでしょう。
ところで没薬とアロエを混ぜ合わせて人体用の防腐剤ならば、これを若くて張りのある美肌を長期保存できる老化防止の、化粧水には使えないでしょうか?勇気のある方、チャレンジしてみては?
イエス様聖誕の日、最初の礼拝者である東方の博士たちは、バビロン方面から遠路はるばるやって来たという説もあり、真理追究の熱心は学ぶところが大いにあります。聖書は預言します。「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(マタイ19:30)初めの礼拝者は東方の博士たち。東洋人が最初のイエス様の栄光の目撃者であり、リバイバル体験者です。しかし、福音宣教の歴史は聖書預言通り、あとの者なる西洋社会が先にリバイバルしました。福音はいつも西へ西へと世界を取り巻き地球を一周しました。こうして終わりの時代に突入した今!ついに先の者なる東洋があとの順番になって福音化されリバイバルしています。終末の今こそ東洋が祝福される最後の時代!特に極東アジア地域、日本が救われる新時代となります。
東方の博士たちの訪問以降のこと、ヘロデ王の迫害を逃れてエジプトへ移住した幼子イエスを抱く両親ですが、現地では外人大工を信用して生涯設計の住宅等を建築するエジプト人はまずいなかったことでしょう。もしヨセフに任せたら文化様式や芸術観の異質な中東イスラエル風の家がエジプトにポツリと浮き立つからです。加えてローマ帝国から75%もの重税が課され続けていたユダヤ人にとって預貯金豊富な者は皆無であり、貧しき大工はいっそう厳しい経済状態だったと思われます。そこで神様からの三年半の避難生活に必要な経済的備えがこれら贈り物の黄金・乳香・没薬でした。珍品を重んじる贅沢なエジプトでは高価に換金され生活費に十分あてがわれたと思われます。当時、イエス様を聖霊によって身ごもったマリヤでしたが、信仰なきユダヤ人から見れば姦淫の罪ゆえと誤解され、律法的に石打ちの刑にあう危険性の中、ヨセフとマリヤは互いを信じて、神様の御心を受け入れ、イエス様を生み育て共に生きることを命懸けで決意していました。神様は今も彼らのようにイエス様にお仕えして福音の為に生きると命懸けで決意する献身者を経済的に必ず祝され、一切の必要を満たされます。
また、当方の博士たちはギリシャ語でマゴスですが、一説では占星術者とも言われています。イザヤ66:3によると「牛をほふる者は、人を打ち殺す者。羊をいけにえにする者は、犬をくびり殺す者。穀物のささげ物をささげる者は、豚の血をささげる者。乳香をささげる者は、偶像をほめたたえる者。実に彼らは自分かってな道を選び、その心は忌むべき物を喜ぶ。」とあるとおり、占い師の多くが乳香を占い道具に使っていました。そしてこれらをイエス様にささげて全面放棄して帰国という行動は、すなわち、彼らが救い主に出会った以降、罪悪の商売廃業の証しであり、マタイによれば「別の道から自分の国へ帰って行った。」と御言葉に象徴されたように、新しい人生、新しい職場とライフスタイルに転換された信仰告白だとも言えます。誰であれイエス様に出会えば、古きを捨て、新たな人生の道が開きます。
主の聖誕をルカは羊飼い中心に記録します。
「男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。」(ルカ2:7,8)
イエス様の宿屋がなく、家畜小屋が聖誕地に選ばれたことは、幾つかの象徴があります。
やがて永遠の国に旅立つ全人類にとってこの世は一時的な宿屋ですが、世俗で満室の宿屋となったこの世には本質的にイエス様をお迎えする場所がないという受難告知です。
「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」
(ヨハネ1:10-12)
個人レベルで私たちの心はどうでしょうか。地方からユダヤ人が集まる稼ぎ時に身重の妊婦を受け入れれば後々やっかいになるという宿屋の主人たちの思惑も理解できそうですが、そのとき、私たちも知らずしてイエス様をお迎えできない状態です。福音は人間的計算をこえた経済より愛を重視する時、初めて見えてくる世界です。私たちが知らずして愛の動機で旅人をもてなし、悩める誰かを受け入れるとき、実はイエス様を知らずして受け入れていることが多くあります。(マタイ25:37-40)
愛のない者に神様は分かりません。なぜなら神様は愛だからです。誰でもへりくだらないと汚れて狭い家畜小屋には、入れなかったように御救いは謙遜に心持低くして教会の門をくぐる所から始まります。
家畜小屋でお生まれになったイエス様が布にくるまれて飼葉おけに寝かされたことは、十字架を現します。メギドの遺跡から発掘されたソロモン時代の飼葉おけは、長方形の石を、飼葉を入れるために四角く掘り下げたものでした。それはまさに赤ちゃんのベッドにふさわしい大きさですが、見方によると死者が眠る棺おけにも見えます!
ユダヤ人のクリスチャン学者によると、暑いイスラエルでは腐敗臭を放つ死者を一時保管する場所に家畜小屋を用いたそうです。そこには常設の白い布があり、実に幼子イエス様をくるんだ布がそれだったと言います。イエス様がこの世でいただいた最初のうぶ着さえ、預言的に死者をくるむ死の衣だったとは!幼子が布でくるまれて自分では何も出来ない状態で一時的な寝床の飼葉おけに寝かされたように、イエス様は生涯の最後に、自分では何も出来ない状態に釘打たれ、一時的な寝床の十字架上、死の眠りにつかれました。
ここで予備知識ですが、イエス様がお生まれになった建物は馬小屋ではなく、家畜小屋(フランス語でétable)「牛小屋」です。
「ああ、なんと、家畜がうめいていることよ。牛の群れはさまよう。それに牧場がないからだ。羊の群れも滅びる。」(ヨエル1:18)
ヨエルが預言した家畜小屋の動物リストには、牛と羊が記され、馬は入っていません。
「全世界の者は、神が彼の心に授けられた知恵を聞こうとして、ソロモンに謁見を求めた。彼らはおのおの贈り物として、銀の器、金の器、衣服、武器、バルサム油、馬、騾馬などを、毎年きまって携えて来た。」(列王記第一10:24-25)
ソロモン王はエジプトから馬を輸入しましたが、そこには高価な輸入品の数々と並べて馬が記されています。当時、馬は高価で高貴な身分の人だけが入手できる高級外車であり、一般庶民の宿屋に使うレベルの洞穴の家畜小屋には牛、羊、ロバくらいしかいなかったようです。
イエス様のベビーベッドに戻りますが、元来、飼葉おけは家畜の餌を食べる食卓です。
その真意はこれです。「イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)
「ベツレヘム」その意味も「パンの家」で産まれたイエス様こそ永遠のいのちを与える「いのちのパン」だという無言のメッセージです。
ある聖徒が「男の子を出産したのでお祝いの礼拝を」という旨で自宅に呼ばれました。訪問先の玄関にはその子のお姉ちゃんになった五歳の女の子が立っていて、そこに消毒用の液体が入った器が置いていました。女の子は私に命じました。
「手をきれいに消毒してから家に入って赤ちゃんにさわって。」
「赤ちゃんってそんなものだったかなあ?」
なんて思いながら私たち三名の訪問者が順次、手を洗って消毒してから室内に入ると、そこにはお猿ちゃんみたいなかわいい男の子が寝ていました。
一般的にそこまでする必要があるか分かりませんが、幼子にとってばい菌はいつも用心です。
イエス様の場合、ベビーベッドである飼葉おけは家畜のよだれが落ち込み飼料が発酵し、ばい菌と隣り合わせの非衛生的環境です。これはイエス様こそ病の霊と闘われる「癒し主」だという無言のメッセージです。
そして最初の訪問者が学者の王たちと羊飼いたちであったことは、イエス様は権威ある上流階級から身分の一番低い一般庶民まで、知者から無学な者まで、すべての国民と階層をモーラして救う全世界で唯一の「救い主」であるという宣言です。仮に最上の王宮にお生まれになっても天の天もお入れできない偉大な神様の御子ですが、あえて家畜小屋を選ばれたのは主の謙遜と福音の戸口が低く庶民向けに設定されている現れです。王宮ならば羊飼いは門前払いを受け、イエス様にお会いできなかったことでしょうが、誰でも気軽に入れる家畜小屋です。福音の言葉もやさしく、誰でも素直にイエス様を信じれば救われます。万一、ですが、私たちの心が宿屋なる家畜小屋のように糞の悪臭と舞い上がるほこりやハエのような罪と呪いと悪霊で汚れた薄暗い霊的環境でも、イエス様はお生まれくださります。イエス様を信じて心に受け入れるその日が、イエス様が心にお生まれになる本当のクリスマスです。聖誕されたイエス様は確実に幼子が大きくなるように、聖霊様として内住され、拡大され、影響力絶大に現れてくださいます。宮清めの心の大掃除もしてくださいます。
「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」(第一ペテロ2:2)
聖書を読み続ければ、必ず信仰は強く成長して救われ、天国に入れる確信も強くなります。
喜びももっと満たされます。ぜひ毎日、忍耐で聖書をたくさん読んでください。多く食べる人は大きな物も持ち上げられる力持ちの大きな人になれます。聖書をたくさん読む人が聖霊充満、イエス充満の霊的力持ちの大きな人となり、神様の大きい仕事も容易に出来ます! あ、食べるだけでなく運動も必要です。霊的スリムな聖霊運動は御教会の奉仕と伝道活動です!