第一に、イエス様の癒しは徹底的です。あえてペテロにとって忌まわしいあの裏切りの夜と正反対の環境再現の中で起こります。あの夜は陰湿なピラトの総督官邸で空腹と暗い寒さの中、悪者たちと共に火を囲み、恐れながら震えながら三度の「知らない」発言。
しかし、この日は自然の美しいテベリヤ湖畔で朝食後に光と復活のイエス様の暖かさのなか、弟子たちと共に火を囲み、イエス様の癒しにかかわる三度の質問。
「わたしを愛しますか。」
それは過去の三度の「知らない」発言ゆえにすっかり左に曲がって傷ついてしまったペテロの偽りのロと心を、三度正反対の言葉「愛する」と発言させることにより、強制的に右に曲げて矯正し、中間の正常な位置に戻す働きでした。
イエス様に多く赦された者は、イエス様を誰より多く愛する告白が心の癒しにつながります。胸に手を置いて析るときハッとして思い出す辛い記憶や恐怖体験、忘れたい失敗や最も悲しかった出来事、そここそ癒しのメスを入れるべき病める霊的患部です。
「ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。」(ヨハネ二十一章十七節)
すべて注射も手術も良薬も口に苦しです。病める過去を正面きって取り扱うことは必ず痛みが伴いますが、イエス様は神の働きに勇敢に奮い立って立ち上がる前のペテロに対して、まず心を癒されたように、今も私たちの心の早期治療を輝かしい未来の為に願われます。このように告白しましょう。
「私はイエス様を誰より何より第一に愛します。愛します。愛します。イエス様の打ち傷のゆえに私の心は癒されました!」
第二に。
「イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。」(マタイ十四章十四節)
イエス様が抱かれた感情、あわれみは非常に重要です。傷つくたましいに対する主の哀れみは大きいです。イエス様が多くの群集を見られた際、「深くあわれんで」、その結果病気が癒される奇蹟がともなっています。ギリシャ語でここに使われた「あわれみ」は「スプランクノン」で、身を引き裂くような断腸の思いです。本来は肝臓、腎臓、心臓のニュアンスを含んだ、張り裂けるような痛みの気持ちです。イエス様は病める人々を心底、痛み伴う感情のレベルまで激しく愛して癒しをなされたのです。
以前、私は癒しに関するある夢を見ました。群集と共に歩まれる白くて長い衣をまとわれた美しい目のイエス様の夢でしたが、多くの病人の病める箇所に触れながら瞬時にすべての病を癒しておられました。そこで私が驚いたことは、ある場所で立ち止まり説教を始められたイエス様が今まで多くの病人を奇蹟的に癒されたことを何も話さず、それが当たり前の日常茶飯事の出来事のように驚きも興奮もせずに、そのままさりげなく福音を伝えられたことでした。そして御言葉の時を一番大事にしておられました。普通のリバイバル聖会なら、目の開かれた人や足のなえていた人を証し人としてステージ上に上げるような奇蹟の連続だったのに、私の見たイエス様は驚きもせず、誇りもせず冷静に純粋な福音を丁寧に語られていました。癒しの奇蹟は見世物でも広告塔でもなく、真実なイエス様の愛とあわれみの純粋な御心の結晶です。私たちは父なる神様の人へのあわれみをもっと理解する必要があります。
「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」
(ルカ十五章二十節)
神様は放蕩するこの時代の息子・娘らをあわれみ一杯で抱きしめたいです。抱擁は人を癒します。西洋と異なりハグする習慣の乏しい東洋ですが、親子間、夫婦間、もっと生活の只中で抱擁しあうならば愛情は深まり、心がなごんで癒されます。
「そこには、イエスの真正面に、水腫をわずらっている人がいた。イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」と言われた。しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった。」(ルカ十四章二~四節)
以下は知り合いの先生の心の癒し体験です。
「私は十歳の時に父を亡くした。昨年、あるインドネシア人牧師の集会に参加して、メッセージの終わりに、この中で子供時代に父を亡くした方は前に出てきてください。お祈りしますと招かれたので即座に前に出た。すると、その牧師とチームのリーダーの方々が私を抱擁し、祈りを始めた。すぐに聖霊様が働かれ彼らは涙をもって真剣に祈ってくださった。私は父親を亡くしたことによる傷は自分で祈ってすでに、いやされていると思い込んでいたので、もうこれ以上、長く祈ってもらう必要はないと考えていた。しかし最初、何も感じなかった私が五分間位、抱擁されて祈りを受けていると、石のような固かった私の心は溶かされ、父の愛を感じ、大声で泣き出してしまった。暖かい父なる神の臨在により、私の子供時代の父親との死別の傷がいやされていくのを感じた。涙と共に聖霊様が力強く働かれ、私の心は父の愛に触れた喜びで満たされた。」ハレルヤ
「イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。」(マルコ九章二十一節)
傷を受けた時があり、傷が癒される時があります。過去に傷を受けたその現場に昨日も今日もとこしえに変わらないイエス様が入って来られ、なぐさめ主、聖霊様が私を強く抱きしめて癒してくださるよう折りましょう。
「あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主が、あなたを導き入れられるとき、主は、多くの異邦の民、すなわちヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およぴエブス人の、これらあなたよりも数多く、また強い七つの異邦の民を、あなたの前から追い払われる。あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない。」(申命記七章一~二節)。
これは主からモーセを通じてイスラエル人に与えられた歴史的課題、七つの異邦人、聖絶命令です。そこでヨシュアの時代、イスラエル人は主の聖絶命令に従って勇敢に戦い抜き、約束の相続地ヨルダン酉岸を征服し、戦争はいったんやみました。しかし、ヨシュア記十一章二十二節では詳細に戦況報告します。
「それでイスラエル人の地には、アナク人がいなくなった。ただガザ、ガテ、アシュドデにわずかの者が残っていた。」
この時、勝利に酔いしれるイスラエル人にとってこれら「わずかに残された者」が、後に大きな問題を招くことになるとは当時、誰もが想像さえしませんでした。しかしその後の歴史はまさに主が事前に警告されていた通りです。
「もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あなたがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、わき腹のいばらとなり、彼らはあなたがたの住むその土地であなたがたを悩ますようになる。」(民数記三十三章五十玉節)。
聖絶から逃れたわずかな者が住む第一の地方ガザ地域。
ここは使徒の働き八章二十六節によると主の使いが伝道者であるピリポ執事に向かって
「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。(このガザは今、荒れ果てている。)」と宣教命令を与えられた地です。それはガザに残されたわずかな者たちがやがて増え広がり、何千年も経過した後の時代にこの地域を不信仰で満たし、荒廃させてしまったからです。
わずかな者が残された第二の地方ガテ地域。
ガテからはやがて3メートル35センチもある巨人の代表戦士ゴリアテが立ち上がり、イスラエル人の代表戦士とひとつ国の命運を賭けた戦いをしようと呼びかけ、朝に夕に四十日間イスラエルの陣営を悩ませました。
第三の地方アシュドデ地域。
ここでは後にダゴンの偶像の宮が造られ、イスラエルから重要な契約の箱が奪われて後、ここアシュドデにある偶像ダゴンのかたわらに安置されてしまいました。そのため主の聖なるみ怒りに触れたアシュドデの全住民は非常な大恐慌と死に直面する腫物に打たれました。
このように本来追放すべき異邦の七部族に妥協してすべてを聖絶しなかったイスラエル人
にとってそのわずかに残された者が、後の時代に彼らの「目のとげ、わき腹のいばら、悩みの種」となってしまったのです。ここに教訓があります。今日の聖絶とは私たちの相続地なる乳と蜜の流れ出る祝福の基、心の中から違法の七つの悪霊どもをすべて一匹残らず追い出すことを教えています。心のうちにわずかに残された悪霊を持っていてはいけません。私たちは主イエス・キリストを信じた時から聖霊様が心のうちに入って来られ死んでいた霊魂が生き返ります。心の王座に新しい王、聖霊様が住まわれます。そのためローマ軍の千人隊長や百人隊長が砕かれて取り除かれた時のように古い隊長であった悪魔は縛られて追放されます。しかし、隊長が除かれて組織の統制力を失なった配下所属の雑兵のような悪霊どもの軍隊は、私たちが礼拝を繰り返すうちに継続して追放されますが、時にある領域で徹底した悔い改めがなされていないため、わずかに古い悪霊が心の中で依然、壊されていない罪を慕う思いの要塞をとりでに取り残されているケースがあります。心の中の要塞とは憎しみや悔い改めていない罪です。ここをとりでとして悪霊は住みつき内側から仲間を再び住まわせようと引きつけるのです。徹底した罪の告白によって全ての領域でこの古い要塞を破壊しなければなりません。