第一に「天国」。確かにそこには世俗の罪から開放された聖なる御使いたちが万の幾万倍、千の幾千倍も住んでいます。しかし、彼らは一応に巻き物を開く権利者にはなれません。なぜなら神様の法律である律法で「もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。」
(レビ記25:25)と定められた通り、土地を失った兄弟の「親類」でなければ買戻しの権利が認められないからです。土地を失った兄弟はアダム、買戻しの権利ある「親類」はアダムと同じ血筋の肉を持つ人間でなければなりません。ところが御使いは、どんなに力に優れていても霊的存在として造られたため人間アダムの「親類」には決してなれません。有資格の該当者なき天国に失望したヨハネ。
そこで第二に「地上」。使徒ヨハネが気を持ち直して天国の代わりに地上を見ると、そこにもまた無数の人間が確認できましたが、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者」は皆無でした。なぜなら人はすべてすでに売られた罪ある存在。盲人が盲人を手引きできず、奴隷が奴隷をあがなえないように、地に住む人全てがその道を踏み外した罪人でした。「それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)
そこで第三に「地の下」を使徒ヨハネが懸命に捜索しました。「買い戻しの権利のあるアダムの親類は誰かいないか?」「地の下」とはどこでしょうか?二つの意味があります。一つは地上のはるか下にある閉ざされた空間の黄泉です。
「悟りのある者はいのちの道を上って行く。これは下にあるよみを離れるためだ。」
(箴言15:24)
しかし黄泉もまた天国の御使い同様、すでにこの世の人生を終えた人たちの住居、彼らも霊的存在としてアダムの「親類」には該当しません。ましてや罪を犯して黄泉で滅んだ人々ならば救いの希望も実力もありません。そこでもう一つの「地の下」それは高度な建築技術が発達した実に地下街を始め、地下高速やトンネル、鉄道網、地下室など、今や地の下にさえ住むことができる時代であり、まさに使徒ヨハネから見た未来社会である現代都市です。しかしどんなに人類の文明が発展し進んだ地下都市に住居を設けられる快適な時代になっても罪は親から子へ代々、内側に宿って流れる為、今もこれからもアダムの子孫である我らは「買戻しの権利」あるアダムの「親類」である救い主には慣れないのです!そのため、どんな異端グループも宗教教祖も人を救えないのです。罪が内に宿っているから神様の御前、支払うべき贖いの代価が何もないみじめな存在だからです。まさに聖書の語る通りです。
「たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。」(詩篇49:8)
しかし、涙なき天国で涙なく号泣したヨハネに福音が語られました。
「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」(黙示録5:5)
ハレルヤ!
ここに人類サイドに大きな希望の光を見ます。「ユダ族から出たしし、ダビデの根」なるイエス・キリストが十字架の上で勝利を得たからです!イエス様がアダムの失敗で失われた全人類と地球を買い戻す為にこの世に来られました。世界が待望した救い主。天も地も待ちわびた唯一の救い主イエス様の到来!しかし、イエス様とて神様の法律なる律法にそむいた行動は一切出来ません。神様の定めと御心に従って行動され、巻き物を開いて、七つの封印を解けるよう命懸けの努力をして条件をクリアーしなければなりませんでした。
そこで救い主の条件。第一に「アダムの親類になること。」
このためにこそイエス様はクリスマスの日を境に受肉されたのです。神様が完全な人となって世に来られたのです。罪を犯したアダムも人間。イエス様も人間。ハレルヤ!
このことによって第一条件、アダムの「親類」を完全クリアーしました!
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2:6-8)
救い主の条件。第二に「贖い金が必要です。」
失われた地球と全人類を買い戻すには代価を支払わなければなりません。イエス様が支払われた贖い金とは、御自身が十字架で流された血潮でした!これこそが父なる神様の義の基準に達する唯一の価値ある聖なる代価でした。オレゴン州メドフォードクリスチャン医療施設のスタンディシュ・リード博士によるとイエス様の懐妊に関して以下の発見をしました。
「女性の卵子そのものには血がなく男性の精子にも血が存在しないのに、それらが輸卵管の中で一緒になると妊娠となり、その血液細胞は父親から来ており、血液型は妊娠の瞬間に決まり、次に胎児の体に母親の血液が入らないよう胎盤で保護されます。」
ですから、イエス様が肉の父の影響の全くない処女マリヤから産まれたということは、アダムから流れる血も母マリヤの血も一切受けないで産まれたということであり、結果、人間の汚れた罪の血を一滴も受け継ぐことなくお生まれになったということです。イエス様の内には父なる神様の命の血だけが純粋に流れていたのです。だからこそイエス様の血潮は父なる神様に唯一受け入れられる人間の罪に汚されなかった、贖いにふさわしい聖なる代価だったのです!
「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」
(レビ記17:11)このような、他には真似の出来ない特殊事情ゆえにイエス様だけが国士無双、唯一絶対の救い主であられ、巻き物に記された権利条件すべてをクリアーできた贖いの実力あるお方なのです。
救い主の条件。第三に「売買は自由意志で決定される為、犠牲愛が必要でした。」
もし、アダムのように失敗して破産した人が自分と土地をセットに売り飛ばして後、買い戻しの権利ある親類が現れても、売買は自由な意思と判断の元に委ねられていました。ルツ記では死別で夫をなくしたルツが貧しくなってルツと土地もろとも売られることになったとき、一番ルツに近い親類者は買い戻しの権利はあったけれど、自分の利益を考えた上で買い戻しをきっぱり断りました。そのため権利が繰り上げされて二番目にルツに近い親類ボアズがこれらを買い取ることになりました。ボアズは代価を支払って後、ルツの土地を買い取って、ルツを小作人ではなく愛する妻として受け入れました。このような事例のように贖いとは購入者の自由意志にすべてがかかっています。
イエス・キリストは御自身の判断で自由意志のもと、私たちの贖いを選択されたのです!受け入れても受け入れなくてもよかった自由の中で私たちを自発的に受け入れたのです!イエス様は勇気ある決断をされたのです。しかもボアズのケース同様に小作人の労働者ではなく、愛するキリストの妻として私たちを買い取ってくださったのです!ハレルヤ!もう私たちはサタンの支配下ではなく、神様の支配下です。キリストにある自由人です。ここに偉大な犠牲愛があります。なぜなら支払うべき代価があまりに大きかったからです。律法は過酷な十字架の死を要求しました!イエス様は受難を避けることも十分出来たのに、自らの御判断で犠牲愛の道を選択された救い主なのです!イエス様は罪に落ちて売られて無益なものとなっていた過去の汚れた私たちを十字架でいのちを捨ててまでも贖う価値があると判断されたのです。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネ第一4:10)
こういうわけで今は誰でもイエス様の十字架の死と復活を信じて受け入れるものは魂が救われて贖われます!そして近い将来、もう一つの残された贖いも始まろうとしています。イエス様が支払われた代価とはアダムの失敗ゆえに失われていた全人類だけでなく地球の支配権をも贖う代価です。今からこの土地に対する贖いも始まります。それが全地を神様と我等クリスチャンのものとして勝ち取る最後のイエス・キリストの再臨です!その日は近いです。