イエス・キリストの福音

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

【心の傷を癒そう】 「幼少期に虐待された親は、自らの子を虐待する」傾向がデータとしてあることは有名ですが、虐待された人が後に防御的本能が過剰に働くあまり、

2021-05-07 04:00:00 | 日記

【心の傷を癒そう】

「幼少期に虐待された親は、自らの子を虐待する」傾向がデータとしてあることは有名ですが、虐待された人が後に防御的本能が過剰に働くあまり、目の前の幸福さえ柔軟に受け入れられず、むしろ恐れが先行して自発的によき現状を破壊していくこともあります。過去を切り捨て、新たな意識変革が大切です。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)

またある種の限度を超えた苦痛に見舞われたとき、耐え切れなくなると、人はその痛みを他の物事に置き換えて回避しようとするケースもあります。

聖書のヨブは部下とすべての財産を失い、息子娘らを彼らの家もろとも一瞬に失い、悪性の腫物にも打たれました。さらには追撃ちをかける愛なき裏切りのことばが厳しく妻からヨブに臨みます。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」(ヨブ2:9)

ヨブはさすが東洋一の義人と呼ばれただけあって、このようなつらい目に遭っても、罪を犯すようなことばを口にしませんでした。しかし、どんなにつらい試練を耐え忍んでも所詮肉を持つ人間、次第にそのひずみは時間と共に徐々に現れ出てきます。ヨブは壊れ、ヨブはゆがみ始めました。なんと信仰者ゆえ神様や人はのろえませんが、代わりに生命体なき自分の生まれた日をのろいました。

「ヨブは声を出して言った。私の生まれた日は滅びうせよ。「男の子が胎に宿った。」と言ったその夜も。その日はやみになれ。神もその日を顧みるな。光もその上を照らすな。やみと暗黒がこれを取り戻し、雲がこの上にとどまれ。昼を暗くするものもそれをおびやかせ。

その夜は、暗やみがこれを奪い取るように。これを年の日のうちで喜ばせるな。月の数のうちにも入れるな。ああ、その夜は、はらむことのないように。その夜には喜びの声も起こらないように。日をのろう者、レビヤタンを呼び起こせる者がこれをのろうように。その夜明けの星は暗くなれ。光を待ち望んでも、それはなく、暁のまぶたのあくのを見ることがないように。それは、私の母の胎の戸が閉じられず、私の目から苦しみが隠されなかったからだ。」

(ヨブ3:2-10)

ヨブは自らの誕生日をのろい、その夜をのろい、誕生日の夜明けの星までのろいました。理性的には異常なことです。預言者エレミヤもひどい迫害を受け悩んだとき、ヨブ同様に受けた痛みを他の物事に置き換えて回避しようとする異常行動にでました。

「私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。私の父に、「あなたに男の子が生まれた。」と言って伝え、彼を大いに喜ばせた人は、のろわれよ。その人は、主がくつがえして悔いない町々のようになれ。朝には彼に叫びを聞かせ、真昼にはときの声を聞かせよ。彼は、私が胎内にいるとき、私を殺さず、私の母を私の墓とせず、彼女の胎を、永久にみごもったままにしておかなかったのだから。」(エレミヤ20:14-17)

預言者らしくない、現実逃避のやつ当たり的のろいのことばと思えますが、もし私たちの周囲の誰かが同様の反社会的異常行動に出たとき、その本質は不幸を開花した目に見える表面的現状ではない、もっと深い根の不可視な部分があることを知らなければなりません。異常行動は過剰なストレスを受けて、なおかつうまく発散できないで悩んでいる人々からの危険信号です。

子供が好んで虫を殺したり、おもちゃや人形を訳なく壊すとき、あるいは大人が無謀な行為と知りながらもギャンブルや大酒のみ、遊興、酩酊、淫乱、好色など明らかに身を滅ぼす衝動的行動に出るとき、まずは背後の根の部分である原因を把握した上で適合した対処をとらなければなりません。植物を根から掘り出さなければ、後日、再び成長してくることと同じです。

幼稚園の先生がこう語りました。

「幼稚園で子どもたちがままごとをしながら遊んでいる姿を見ると、その子の親に会わなくても実際の家庭環境がよく分かります。」

子どもたちはよくままごと遊びを好んでします。そこでいつも夫婦円満な家庭の子どもなら、ままごとの家庭でも夫婦円満で仲良く微笑ましい楽しい家庭を演じます。ところが常時、争いある家庭の子どもの場合は、ままごとの世界でも争ったり、暗く無愛想にふるまったりするそうです。小さな女の子が「あなた!今日も帰りがおそいわねえ。どこで飲んできたの!」と叫んだり、「うちはいつも赤字なのよ!あーあ、今月もきびしいわ。今から節約生活を始めるわ。おにぎりも小さく作りましょう。あなたも節約して。」とため息をついたり、静かな男の子が新聞を読むしぐさをしながらポツリとつぶやいて「おい、おまえ。ごはん、風呂、寝る。」と言ったり、子どもたちは親の背中を見つめ、面白いことに、そのまま良きも悪しきも反映しています。

戦時中、ドイツのアウシュビッツ収容所に収容された乳児たちが大勢いたそうです。彼らはガス室で殺さないで将来、こき使おうと生かされていたそうです。その粗悪な愛なき環境で与えられたものは、定期的に機械的なほ乳ビンによるミルクだけで、親から抱きしめられて愛情を受けることはなく、必要なスキンシップを受けられなかったこれらの乳幼児たちはその後、数年経たずに皆、死亡したそうです。魚が水がないと生きられないように人は愛がないと生きられません。

「イエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」(マルコ10:16)

アメリカの免疫学研究で、新しい試みとして抱擁療法を実践導入したところ、愛を持って抱擁された患者の免疫力が高まり早期に病から回復できたそうです。

聖書で放蕩息子の父親やイエス様は人を抱きしめて、愛を表現されています。

「父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」

(ルカ15:20)

「しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった。」(ルカ14:4)

ある母親が7歳になる自閉症の娘に抱擁療法を実践しました。当初は娘が抱かれる前より、もっと強く緊張し、泣き騒ぎ、もがいて抱かれる事を嫌がったそうですが、母親は「怒っているんだね。もっと泣いて怒っていいよ。」とやさしく声をかけながら約一時間ほどこれを続けました。 やが娘を抱擁しているうちに、人間と人間が関わっているという意識が母親に生じ、自分が今までこの子に対し、いかに尊厳を傷つけていたかを考えるようになりました。すると娘との交流が生まれ、言葉はなくても目線で語り合えることができ、親子の関係が修復し始めたのです。 

J・アランは「抱っこを通じて子どもの生き生きした感情が呼び起こされ、生きる喜びが回復してくる。母親もまた、わが子への愛情を再認識し、子育ての喜びと意欲と自信を、ひいては母親として生きる喜びを取り戻していく。」と言いますが、この親子の場合もそのことが実現しました。母親としての正しい自覚と娘への愛が回復するにつれ、娘にも顕著な変化が現れました。今までとは違って母親の頼みごとを聞いてくれるようになり、忍耐力も身に付いたそうです。そして今では、娘の情緒不安が少なくなり、笑顔が見られるようにまで回復して、母親も子どもを一人の人間としてみられるようになりました。 

軽度の切り傷、すり傷、打撲などは、放置しておいても自然治療できますが、骨折、ガン、脳腫瘍など大病は放置しておいても自然治療できず、専門病院で医者に観てもらう必要があります。霊魂の傷も同様で自力では完治しない大病の部類であり、霊の病院である教会と霊的領域の専門医なる癒し主イエス様が必要です。痛みを認知できるレベルの病気であれば人々は早期に対処できますが、最も恐ろしい領域の病にらい病のように痛みさえ感じないうちに日々身体が滅びていくものがあります。自覚症状なき大病、それが霊的病気、不信仰です。神様と永遠の事柄に全く無知で無関心、やがては死ぬ現実を忘れたかのように永遠への備えができていない現状、しかし病状の認知、不認知関わりなく、この霊的大病は日々確実に進行し世を蝕んでいます。

啓蒙思想家ルソーはこう言いました。

「我々は生まれると競技場に入り、死ぬとそこを去る。その競技用の車をいっそううまく操るすべを学んだとて何になろう。いまとなっては、ただどんなふうに退場したらよいかを考えればよいのだ。老人にもまだ勉強することがあるとすれば、ただひとつ、死ぬことを学ぶべきだ。」

ホンダ自動車創立者、本田宗一郎はこう言いました。

「飛行機は飛び立つ時より着地が難しい。人生も同じだよ。」

永遠の命なるイエス様をいち早く発見して天国の備えある懸命な生き方が一番大事です。

次に人々が忘れがちな永遠に対する備え同様、日々傷つく心の癒しも忘れてはならない事柄です。