イエス・キリストの福音

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【 憂うつ症からの解放 】 預言者エリヤは私たちと同じような人でした。ある時は天から火を下らせ、ある時は水を下らせ、多くの奇蹟によってイスラエルを御前に立ち返らせましたが、

2021-05-13 04:00:00 | 日記

【 憂うつ症からの解放 】

預言者エリヤは私たちと同じような人でした。ある時は天から火を下らせ、ある時は水を下らせ、多くの奇蹟によってイスラエルを御前に立ち返らせましたが、やはり私たちと同じような人ゆえ、ある時はブルーなひどい落ち込み体験もありました。

もし、その様を医者が診断するならば自殺願望レベルの重度のうつ病と燃え尽き症候群でしょう。エリヤの失敗体験を参考に、いかにして神様が御使いを送って彼を癒されたのか、その効果的な治療法を学びましょう。

まずは燃え尽き症候群の問題があります。

エリヤは確かに偉大な預言者としてたった一人で堕落したイスラエルのすべての民と450人のバアルの預言者たち、アシェラの預言者たち400人を相手に戦っていました。

その頃のエリヤには落ち込みは全くありませんでした。

真剣な戦いで緊張していたから、忙しかったから、使命感に燃えていたから等、理由があったでしょう。誰であれ熱心に一事に専念しているとき、落ち込みません。

没頭することをやめ、時間的空白が出来る時、油断する心こそ危険です。

暇な人に限っていろいろと余計なことまで考え始めて恐れたり、憂うつになったり、隣のうちの庭のことまで考えて変な隣人に変身するものです。

落ち込みたくなかったら、一生懸命祈って神様の仕事に積極参加することです。

多忙は必ずしも悪くありません。落ち込む暇がないほど忙しく燃え続けることが大切です。

「私は忙しくてゆっくり悩んでいる暇がない!」とかね。

忙しいエリヤが祈ると主の再建された祭壇に天から主の火が下り、イスラエルはこれを見て霊的破れ口となり、リバイバルが起きました。

偶像バアル宗教から全ての民が離れ、

「主こそ神です。主こそ神です。」

と告白して御前に立ち返る悔い改め運動が起きました。

そしてエリヤの命令に従ってバアルの祭司たちはすべて成敗されました。

このように神様との関係が修復される救霊のリバイバルが起きると、これに続いて、トランスフォーメーションが起き、その病める大地も癒されます。

悔い改めた彼らの上に3年半ぶりの大雨が降り注ぎ、万物が生き返り始めました。

それは、雲ひとつない干ばつの中、雨乞いして粘り強く祈ったエリヤへの神様からの応答でもありました。

まさに力と力の対決に勝利を得たエリヤでした。

やがて日本にもこのレベルの天から主の火が下る!雨が下る!こんなすべての人前で明確なしるしと不思議がともなえば御言葉を確かなものとして立証でき、イスラエル同様のリバイバルが起きるでしょう。

エリヤは確かに勝利しましたが、立っているものは倒されないよう継続的な用心が必要です。なぜならその後、イゼベルの反撃が始まったからです。

「アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らずイゼベルに告げた。すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。

「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」(第一列王記19:1,2)

イゼベルはもともとイスラエル国内に偶像バアルの預言者たち450人とアシェラの預言者たち400人をアハブ王の妃として嫁がれてきた時、同伴した悪妻です。

その影響力は大きく、夫のアハブ王が主を離れ、王の影響を受けたイスラエル国民全体も主を離れてバアル偶像に仕えるほどまで全体に堕落が波及しました。

そこで主に遣わされたエリヤが天から火を!雨を!降らせて彼らイスラエルを悔い改めのリバイバルに導いたわけでしたが、イゼベルは面白くありません。

面目が丸つぶれで、すべてのバアル信者と預言者たちを瞬時になくしたわけですから、その復讐劇は全身全霊で行なわれたことでしょう。

事実、イゼベルはひどい偶像崇拝者であり、魔術を使って呪いをかけるレベルの人でした。

第二列王記9:22でヨラムとエフーの会話からこのことが分かります。

「ヨラムはエフーを見ると、「エフー。元気か。」と尋ねた。エフーは答えた。「何が元気か。あなたの母イゼベルの姦淫と呪術とが盛んに行なわれているかぎり。」

イゼベルはこのように個人的に姦淫を行なって自爆するだけでなく、他人に呪いをかけてその人生を狂わせる悪い人でした。

そのため、ここでも当然、四面楚歌の仕打ちを受けたイゼベルがエリヤに対して黙っておくはずがありません。

「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」

この言葉の中にはもっと深い、呪術的な意味合いがあり、イゼベルは自分の偶像に誓願祈祷しながらエリヤを呪っているのです。

だからこそエリヤはその後、通常の人でもめったに体験しないレベルのひどいブルーな落ち込みを体験しています。

「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」(列王記第一19:3,4))

昨日まで聖霊に満ちて大きな御わざを現わした同じエリヤとは思えないほど、否定的です。

どんなに偉大な預言者であっても、日々、目覚めた信仰を持ってその背後の霊的束縛、呪いのきずなを打ち砕かなければなりません。

呪いや魔法の力は実在します。誤って人ともめて、解決を見ないまま問題を放置し、和解なく憎しみをかった呪いの言葉を受けてはいけません。

また、文字通り宗教に関わった人々から無用な争いや呪いを受けることも避けるべきです。他宗教の信者から受ける彼らなりの流儀に基づいた祈りも受けてはいけません。

あなたの幸福のために他宗教で祈っていると言われてもだまされてはいけません。

すべて悪霊が働く接点となるだけで、悪から祝福が来ることは絶対ありません。

私は真っ向から働くイゼベル流の呪いを受けて苦しめられたことが何度もあります。

私がクリスチャンになってからのことです。昔からたまたま利用していた床屋に行った時のことです。当時、伝道に燃えていた私はいつの間にか床屋のおばさんに髪を切ってもらいながら伝道をしていました。

福音をいろいろ語るうちに、そのおばさんの反撃が始まりました。うちは親子三代続く熱心な仏教徒、その後、延々と続く話はその教えについてでした。その時私は危ないと思いました。首周りにかみそりを立ててひげをそりながら、間違ったことをしゃべり、その内なる霊は宗教的な惑わしの霊だと思ったとき、恐ろしくなりました。

「このおばさんは今、悪霊の力が一杯入っている。このかみそりの刃の角度が少しかったらどうなる!」内心、祈るばかりでした。

カットがすべて終わり、帰り際に床屋のおばさんは言いました。

「床屋ではお客に対して政治と宗教の話はタブーなのに、今日はおかしいわねえ。」

そして帰宅後、その夜に私はクリスチャンなのに金縛りになって悪夢にひどく悩まされました。悪夢の中で、なんと私の全家族が頭が狂い、裸になって家の風呂場でナイフを持って血だらけに殺しあっているではありませんか。

恐ろしくて、気味悪くて、金縛りが溶けて目覚めたあと私は主に祈りました。

「主よ!なぜ、ひどい罪も犯していないのにこんな悪夢に悩まされたのでしょうか?」

すると即座に聖霊様が私に語りかけてくださいました。

「それはあなたが昨日、悪霊の祈りを受けたからです。」

びっくりしました。確かにあの床屋のおばさんは私の頭に手を置いて髪を削りながらなんかしゃべっていました。

一般的な世間話をする限り、霊は働きませんが、宗教的な会話では話が違います。

それ以降、床屋ではあまり積極的に伝道しないようになりました。

はさみもかみそりも向こう持ちで、こちらは武装解除で体裁不利だからです。

誤ってイゼベルのような邪悪な霊を持った人から汚れた呪いを受けないよう注意しましょう。

エリヤが死を願うほどまで落ち込んだ理由は他にもあります。燃え尽き症候群です。

先日まで一生懸命頑張りすぎて今は、祭りのあとの静けさのようにパワーがすっかり抜けきった緊張感解放のゆえにそのギャップの中で落ち込むケースがあります。

大きな仕事をしたあと、大きく主に用いられた多忙期のあと注意しましょう。

熟練サラリーマンが定年退職以降、人生の目標を突如喪失して早期に昇天するケースがあると聞きました。燃え尽き症候群、注意です。

「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。」(第一列王記19:3)

エリヤの憂うつ症の原因はさらにイゼベルの迫害を恐れたことにもあります。

イゼベルが願えば、王妃ゆえ夫のアハブを抱きこんで軍隊さえ動かせたでしょうが、エリヤは偉大な神様を忘れて、小さな人間の迫害や軍隊を恐れて逃げているではありませんか。

恐れとはこのように割に合わないもので、恐れは刑罰がともない、この種の恐れは百害あって一利なしです。

ヨブはもともと東洋一の大富豪で信仰の義人ですが、ひどい試練を受けた際、こう告白しています。

「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている。」

(ヨブ3:25,26)

ヨブは神様から戴いた数々の祝福をいつかはそこね、家畜の群れを失い、従業員を失い、家も健康も子供たちの命さえ失われはしないかと恐れていたのです。

事実そうなったことからこれらすべてのことが、ヨブが最も恐れ、おびえたものであったことが分かります。ヨブのひとつの良い習慣にもこのことは良く現れています。

「こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。」(ヨブ1:5)

子供たちのために事あるごとにとりなし祈る敬虔なクリスチャンホームの父親の模範的モデルの態度ともとらえられますが、見方を変えると、正しい良い子供たちだったのにあるいは罪を犯した、かもしれないと恐れ、心の中で神をのろったかもしれない。と恐れる元々恐れの多い人だったことが分かります。

恐れには刑罰がともないます。恐れてはいけません。心に抱く悪い恐れが、悪酔いさせ現実をも破壊します。全き愛は恐れを締め出します。決心して恐れを選ばないことです。

ちっぽけなイゼベル一人を恐れたエリヤが天の天をもお入れすることが出来ない、偉大な知恵と力と富と勢いに満ちた神様を忘れて落ち込んでいます。おかしな話です。