On the Corner

めぐりあいつむぎつづれおる日々を生きていく中で感じたことを

長くて短い日

2023-01-07 20:00:00 | Diary
1/2に面会後、どうしてるだろう、もちなおしてくれたかな…と思っていた1/6金曜日、
15:30頃に病院から、明日10:00に来るよう連絡があったらしい。
悪化してきて酸素も多く、皮膚も紫がかり、呼びかけにも反応がないとのこと。
 
静岡のいとこに連絡し、こんな状況だけど面会に来れるか聞いたら
3名までしか会えないなら母、叔父、私が会ってほしいと言ってくれた。
病院に確認してLINE通話でつなげたら、と約束しておく。
 
言い出しにくいなーと思いつつ、気になり調べたり考えたりしていた葬儀の手配のことも
夕食のときに母に切り出し、家の近所の葬儀社に見積もりをもらうと伝える。
 
母も思ったよりすんなりとそうだよね、と言ってくれて、夜中に万が一のときはお願いしたい旨をメールしておく。
 
いよいよ覚悟しないといけないんだな…と思いつつも、なんだかふわふわした気持ち。
伯父のときも、祖母のときも、この路線を使うなあ、と朝の陽が眩しい相鉄線に乗り込み、みんなで言葉少なに向かう。
 
9:45頃病院に到着し、母がまず3階の病室へ。
5分の面会のはずがなかなか降りてこないので心配しつつ、土曜の静かな病院の廊下でフェイスシールドなどを装備する。
 
主治医の先生と話せたと目を赤くしながら戻ってきた母と交代して叔父が行き、ラスト私の番。
 
祖母は1/2にはなかった酸素マスクをして、ちょっと苦しそう。
後から聞いた話では、面会だからときれいにしてくれていた吸入カップには痰に血もやや混じっていたそうだ。
食べられないうえに、出血もあって痛かっただろう…
 
窓際の位置は変わらず、身体を左右から向きを変えられるように
ベッドの位置だけ斜めになっていた。
やはりビニールの衝立があって手に触れたりはできないようになっていて、
ビニール越し、シールド越しに話しかけても、目を開けそう…ということもなく。
じっと見守るしかできなかった。
 
機器に影響出ない少しの時間なら電話してもいいと先生からOKをもらい、
いとこにかけるもタイミングが合わず、何度もかけても出なくて、仕方ない。
 
先日と違って、先生が「5分経ちましたので」ときっかり面会終了の合図に来られ、エレベーターホールまで見送ってくれる。
 
階下で手袋やエプロンを外していたら、やっといとこから折り返しがきて、簡単に面会した状況を伝える。
 
 
病院の近くにいたほうがいいですか?とは、なんとなく先生にも看護師さんたちにも聞けないまま、病院を出る。
駅まで約10分の道のり、快晴の空の下をてくてくと坂を下る。
 


 
離れがたくて駅前のショッピングモールで小一時間ほど日用品の買い物をしていたけど、
帰るか〜と横浜駅まで戻り、叔父と別れ、母と昼食に地下街に寄る。
 
軽く腹ごしらえしておこうか、という感じだったのだけど。
行きたかったうどん屋さんも雲呑屋さんも行列で、鶏やさんに。結構しっかり食べたわ。


 
店を出た13時過ぎ、母が叔父からの電話に気付き、折り返したら病院から亡くなったと電話があったとのこと。
母のところにも着信がいくつか残っていて、ちょうど会計している頃で電話に気づいていなかった。
 
 
そうか…
やっぱりそばにいたらよかったな。
 
きっと間に合わなかったのだろうと思うけど。
私たちが帰ったあと3時間もしないうちだったんだ。
 
息を引き取ったとき、あまり苦しまずにいてくれたかな…
 
病室を出てエレベーターが閉まるまで頭を下げ続けていた先生の姿を
思い出しながら、なんともいえない気持ちに。
 
改札に向かいながら、昨夜メールしておいた葬儀社に電話してみると、
病院名を伝えたら、よく行くのでわかると言われ、また、そうかそういうことですよね、という複雑な気持ち。
 
いつでもスタンバイしておくからと言ってもらえて、
母と私はまた相鉄線に乗り込む。
 
上り坂をぜいぜいと小走りに向かって、着いたらキーパーソンの母だけが病室に行けるとのこと、
あとは霊安室に移動してからの対面になると、私は廊下でまた待つことに。
 
叔父もほどなく来てくれて、母も降りてきて、看護師さんから
ご遺体の搬送手配はされていますか、と聞かれる。
身体を浄めて白装束にしてくれて、霊安室に移動するとのこと。
移動後は、速やかに引き取りになるそうだ。
 
あ、もうそんなに早く動かさなきゃいけないのね?!と思いつつ、また葬儀社に連絡。
担当してくれる方が丁寧に応対してくれて、1時間ほどで迎えにきてもらえることになった。
 
電話で見積もり依頼したことや、安置先のことなど簡単に話しているうちに
祖母が霊安室に運ばれたとのこと。
 
霊安室ってどこだろうと思ったら、いつも呼ばれたときに出入りしていた
職員通用口の向かいだった、びっくり。
 
小さなプレハブの霊安室、まるで祖母は眠っているみたい。
つやつやしていて、唇も赤くて、いつもヘルパーさんたちから
「肌きれいね」と褒めてもらえるのを喜んでいたときのまま。
 
ショートステイ先の面会でもガラスドア越し、病室でもビニール越しだったね。
先月の転院のとき、一緒に介護タクシーに乗ったとき以来ぶり、
やっと何も遮るものがない状態で会えたのにね、悲しいよ。
 
 
おばあちゃん、99年11ヶ月の人生おつかれさま。
 
1923年生まれ、8人兄弟の5番目、生後半年で関東大震災を経験して、戦火をくぐり抜けて、
戦後の混乱、高度経済成長期に3人子育てして、
夫を亡くしたあと60才、70才と定年を2回も経験して。
 
好きなことを仕事にしているから続けられると言っていたね。
私にとっても、仕事し続ける家族がいたことで、一生仕事をする勇気やら覚悟やらを持てた気がする。
 
革細工、洋裁、編み物、俳句、カラオケと晩年まで多趣味で、PC教室にも行っていたっけ。
海外にも普通の旅行ではなく文化交流の使節団みたいなのでも行っていたし。
 
そして気の強さったらなかったよなあ、とぼんやり思い出す。
女三世代の喧嘩ったら本当に虫も食わないね。
 
晩年は思うように歩けなくなって外にも出たがらなかったけど、絶対に杖は使いたくない、と
母や私が繋ぐ手を痛いくらいにギュッとを握って自力で歩いていたね。
車椅子にもあまり乗りたがらなかった。
 
お洒落好きで80才手前くらいまでヒールの細いロングブーツ履いて集まりには出掛けていたし、
自分の颯爽と歩く姿への理想が強かったんだろうね。
 
 
一緒にいて相手が恥ずかしくないようにお化粧やお洒落はするんだと言っていたっけ。
血管が浮き出た手も、赤やピンク、パールがかったネイルで指先が元気に見えたし
相手だけでなく自分も華やかな気持ちになっていたと思う。
 
60代頃は病気もしていたけど、それ以降はほんとに大きな病気しなかったしね。
気丈夫だったと思う。
転けたりひっくり返ったりしても、骨が折れないのは猫かなんかですかと思うレベルだったし、
99才でも日常の服薬なんて便秘気味のときに飲むものくらいだったもんね。
 
元気でいてくれたからこそ、同居の私も仕事に遊びに夢中になれたと思う。
 
介護が本格化したのもここ2、3年くらいで、わかっていても思うようにならないストレス、
睡眠不足に打ちのめされそうになったりもしたけど
寝る支度を手伝って、ベッドに横になった祖母におやすみーと声をかけ、
電気を消すとき、いつも祖母は
「どうもありがとう、おやすみ」と言ってくれた。
その声、穏やかなトーン、まだ耳に残っている。
 
感謝の言葉で眠りにつくのも、感謝を伝えてくれるのもいいな、と思っていたよ。
ありがたいな、と。
 
そしてショートステイ先や特養でも、きっと祖母はヘルパーさんたちに伝えていたことだろう。
 
その言葉をもう永遠に聞けなくなった、と急にさびしくなったけど、
まるで眠るように横たわっている祖母に、私からも伝えたい言葉。
「どうもありがとう、おやすみ」
 
さびしくなるよ。
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