「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

願わくは弱者の声が届きますように―『弱者はもう救われないのか』

2014年07月06日 | Life
☆『弱者はもう救われないのか』(香山リカ・著、幻冬舎新書)☆

  もうけっして若くはない歳である。身体も生まれつき健常とはいいがたい。この二つのことだけでも、予想以上の差別を受ける。職やアルバイトを探しても、なかなか決まらない。いまはあからさまに年齢制限を設けることはしていないが、まったくの建前であることを思い知らされる。現状は正規雇用の職を探しているのではなく、自分のできるパートやアルバイトを探しているにすぎないのだが、それでもなかなか難しいのが実状である。そして、仕事が決まらないため、ますます経済的にも厳しい状況に追い込まれつつある。
  ある理由からアパートを変えたいと思ったが、さまざまな壁に阻まれて、これまた難しい状況におかれている。身体の障害は外見上ほとんどわからないし、そのことで他人に迷惑をかけたこともない。だからいままで住まい探しでは、障害のことについて自分で話すことはしてこなかった。今回もそうである。しかしそれでも、経済的なこと、年齢のこと、それに独り身であることが加わると、ほとんどの不動産屋はいい顔をしない。たまに少々親身になってくれる店があっても、物件の選択はごく限られたものになってしまう。経済的敗者は必然的に社会的弱者となっていく。
  何年か前に『ハリエット・ブルックスの生涯』という本を読んだ。原子核を発見したことで知られるラザフォードと比肩すべき業績を挙げたとされながらも、ほとんど無名の存在となった女性科学者の伝記である。この本のサブタイトルは「マタイ効果と女性科学者」であり、このときはじめて「マタイ効果」のことを知った。「マタイ効果」は、香山さんの本にも書かれているように、新約聖書の一節「持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまで取り上げられるであろう」に由来している。格差は新たな格差を生み出し、格差は増長していくのである。自分が弱者であるかどうかはともかくとして、さらに厳しい状況におかれている人たちは、いっそう厳しい状況に追い込まれていることは、容易に想像がつく。
  本書を読んでいると、少なからず気が重くなってくる。「弱者はもう救われないのか」と問いながらも、その答えが示されていない、からではない。目をそらしがちな現状を、再認識させられるからである。答えがやすやすと見つかるくらいならば、たぶん香山さんもこのような本は書かなかったのではないかと思う。まずは現状を認識し、その状況を声にして発信していかなければならない。一読して感じたことである。
  結局のところ、ここでは自分の愚痴しか書けなかった。しかし本書では、弱者救済の歴史や現状を整理し、香山さん自らの経験を踏まえた上で、その倫理的根拠を探ろうとしている。前述したとおり、その明確な答えは示されていない。いや、「おわりに」にあるように、弱者を救うのは当然のことである、というのが答えなのかもしれない。しかし、その答えが社会に浸透しているとはいいがたい。強者(経済的勝者)には、弱者の存在すら目に入っていないことも多いという。だからこそ、その答えを、弱者の声を社会に向かって不断に発信していくほかないのである。明日は七夕である。願わくは、弱者の声が届きますように。

  

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