「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『遺体科学の挑戦』

2007年03月06日 | Science
『遺体科学の挑戦』(遠藤秀紀・著、東京大学出版会)
  『解剖男』、怪しげで忌まわしい感じがする。『人体 失敗の進化史』、刺激的だがエセ科学的な雰囲気も漂っている。そして『遺体科学の挑戦』、遺体を科学するとは、法医学かなにかの本だろうか。これはすべて同じ著者、遠藤秀紀氏の著書であるが、けっして怪しげでも忌まわしくもなく、しごく真っ当な科学の本である。しかし、法医学のような実利的な分野の本とは明らかに一線を画している。前二者が、どちらかといえば遺体科学の具体的な事例が書かれているのに対して、本書『遺体科学の挑戦』は遺体科学に関わる著者の理念や哲学が中心にすえられている。著者は「動物はなぜ生きていけるのかを、その“中身”から知りたい」と思い、大学で獣医学を学び、獣医解剖学の分野へと進んだ。その後、十数年間、上野にある国立科学博物館で動物遺体の解剖に没頭してきた。それは純粋に知の欲求に応えようとした学術的な作業であり、眼前の実利やいわゆる実学とは無縁の存在だ。それゆえ、遺体科学は、現代社会が当然のこととして受け入れている合理主義や市場主義の強力なアンチテーゼともなりうる。
  遺体科学の対象は、動物の死体ではなく“遺体”である。それは人間の死する体を“御遺体”と呼ぶように、道徳倫理的な信条を動物学の分野に持ち込んだものとしての“遺体”ではないと著者はいう。遺体科学は、動物の死する体を扱いながらも、死のイメージを超克して積極的に挑戦していこうとする姿勢が“遺体”という文字に表されているように思われる。われわれは特別な思い入れをしたペットなどでもなければ、動物の死体を遺体とはいわない。道端にころがっている動物の死体にいたっては、不気味で不潔な物体や生ゴミでしかなく、生き物の死体とすら認識しない。それは日常の世界だけの話ではなく、アカデミックな科学の世界、とりわけ動物の死体をプロフェッショナルに扱っていると思われている解剖学の分野でも同様であると著者は指摘する。伝統的な解剖学にとっての動物の死体は、あくまで論文作成のための材料であって、いずれは焼却などの滅失処分の運命をたどる。著者の矛先は分子生物学などの現代生物学にも向けられる。分子生物学にとって、動物の死体は遺伝子解析などのサンプルを取る材料以外の何物でもない。とはいえ、著者は伝統的な解剖学や現代的な分子生物学に批判の矢を向けることで、その存在や有用性を否定しようとしているわけではない。ただ、それらを支えている合理的な目的性に根本的な疑問を投げかけているように思われる。
  遺体科学の本質は、知力、体力、そして資力の続く限り遺体を「無制限無目的」に収集することにある、と著者は繰り返し述べている。そしてそれは、かつての博物学の常道であるという。先ごろ、自主的な勉強会でダーウィンの『種の起源』(岩波文庫版)を読んだ。そのときにまず感じたことは、彼の「自然選択説」を例証するための枚挙的な資料の豊富さだった。しかし、ダーウィンは自然選択説を提唱しようという明確な意思をもって資料を収集したのではなかった。むしろ、遠藤氏も述べているように、自然選択説という「一定のセオリーを導き出すに至った理由は、そこに到達できるだけの発想を支える一次資料の集合を、無制限の枚挙的収集から作り上げていたからである」といえる。少なくとも、遺体を無制限無目的に収集することは、官庁や事務方に提出する書類に明記するような「研究目的」とは縁がないといえるだろう。近年、環境保護の流れの中で生物多様性の保護も注目を集めているが、それも遺伝子資源の保護という明確な目的と表裏をなすものであると思われ、けっして無制限無目的な枚挙的収集と合致するものではない。合理的な目的があるとなれば、そこに市場が開かれ金が集まる。さらに政治が絡めば、そこで票も動くのが道理である。現代において科学という営為もまた政治経済や国際情勢と無関係ではありえないが、そのような科学の姿が純粋な知の欲求に応えるものであるかどうか、やはり疑問を抱かざるを得ない。著者の視程は、博物学の復権とでもいうべき科学内部の話題を超えて、科学と社会のあり方にまで及んでいる。
  本書でも言及されているが、パンダの掌にある6番目の指の存在は、かなり有名な話である。著者はさらに、パンダの遺体の研究から「“第七の指”登場」を発表した人物である。著者がパンダの遺体に向き合ったのは、パンダが社会的に有名な動物だったからではもちろんない。遺体科学の本質は無制限無目的なのだから、動物園で観客が列をなしたパンダであろうが、道端で死んだノラネコであろうが、遺体科学は遺体を何らかの材料として区別することはしない。その「遺体からどれだけの謎を認識し、それを解明できるか」の「一点に尽きる」のだという。またあるとき、イスラエルの研究者が著者のもとを訪ね、国立科学博物館に所蔵されていたアカネズミの頭骨を見たいと言ってきた。地球温暖化の影響が日本のノネズミのサイズに影響を与えたか否かを知りたいという。古くからのネズミの遺体が無制限無目的に収集されていたからこそ、その研究者の知的欲求に応えられたという鮮やかな実例といえるだろう。著者は、その来訪者の研究が論文発表として結実することを期待しなかったという。それは、博物館の来訪者に対して誠意を尽くすことが博物館キュレーターの心だからだと著者はいう。この博物館キュレーターの心が、すなわち遺体科学の本質(心)でもあるように思われる。ところで、その後この来訪者は学術誌に研究成果を発表し著者を喜ばせた。著者はその喜びを込めて「遺体の仕事は、一人の人間の生涯を時間的に超えた尺度で、新しい知の議論を人類にもたらすのである」と述べて「引き継がれる遺体」という章を結んでいる。
  パンダに第七の指を登場させた遠藤氏や、アカネズミの頭骨から地球温暖化の影響を論じたイスラエルの研究者の話は、新たな知を発掘しようとする真の研究者の姿を見る思いがして、実にすがすがしい。ところで、昨年、先の『解剖男』や『人体 失敗の進化史』が書店に並んだとき、やや興味をもって手には取ってみたものの買うまでには至らなかった。ましてや著者の遠藤秀紀氏に、その後あまり日を経ずしてお会いすることになるとは、そのときは思ってもみなかった。詳細は書かないが、ある講座に学生として参加したとき、その講座の主要な講師の一人が遠藤先生であった。これらの著書からも窺えるように、歯に衣着せぬ発言をされる方だったが、その場を離れれば一介の学生に対しても気取ることなくお付き合いくださる先生だった。とはいえ、その講座でも遺体科学に対する情熱がはしばしに感じられ、その意味では一種の威厳を放たれているように思われた。その威厳の基は、遺体科学に対する情熱と、もう一つは遺体科学の理念にも見られる潔さであるように思う。科学者といえども金や票の動きに流されてしまうのが世の常である。そんな世の中にあっても、遠藤先生は自らの、そして人類の知の欲求に応えるべく、もくもくと動物の遺体を収集され、たぶん今日も遺体に向かわれて、新たな謎解きに思いを巡らせていらっしゃるにちがいない。遠藤先生の情熱と潔さとを、本書であらためて学ばせていただいたように思う。遠藤先生に敬意を表するとともに、遠藤先生と巡り合わせてくれた講座と、その縁にも感謝したい。
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