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『いとおしい日々』(小池真理子・著、ハナブサ・リュウ・写真、徳間文庫)
こころの内にそっとしまっておきたくなる写真つきのエッセイ集である。エッセイと写真とのコラボレーションが見事としか言いようがない。その主題は「和」。「調和」とか「柔和」とかの「和」ではなく、「和風」の「和」である。もちろん「和風」から「調和」や「柔和」が引き出されることもあるだろうが、主題はあくまで「和風」にかかわる感性であるように思う。
その対象となるのは和の空間と、それを切り取る光や影、音や匂い、そして和の事物と人の所作。静まりかえった温泉旅館の仄暗い廊下。紙や木の柔らかな匂いで満たされた木造家屋。障子から静謐さを湛えた光が射し込む和室。青畳の上で風呂敷を包む艶めかしい指。日だまりでうつらうつらしている飼い猫の日向の匂いが満ちた白い腹。秘密めいて淫靡な雰囲気が漂う母親の鏡台の引き出し。蚊帳をくぐる時のかさこそという衣ずれのような音。などなど、自分なりに小池真理子さんの文章を切り貼りしてみたが、すべての文章に及びそうで切りがない。ハナブサ・リュウさんの写真も同じだ。
すべてが「優しい既視感」に満ちている。そして、漂うほのかなエロティシズム。子どもの頃に見た我が家とその周囲の風景や感じた物事が、見事なまでに凝縮され再現されている。個々にわたれば、実際の過去とは異なる風景や物事もあるが、それらに関わる感性は一致していて、自分のこころを和ませてくれる。モノクロの写真も既視感と和みをいっそう際立たせてくれる。ここまで書いてきて気が付いた。出だしは「和風」の「和」なのかもしれないが、その奥底にあるのは「和み」の「和」なのかもしれない。自分の過ぎ去った記憶を呼び起こしてくれる、懐かしくて優しい言葉と写真たち。そこにこころの「和み」、「和」がある。
直木賞作家としての小池真理子さんの名前はもちろん知っている。彼女の名前が人の口に上ることも多いように思うし、作家買いするファンも少なくないにちがいない。しかし、自分はというと、小池さんの小説はただの一冊も読んだことがない。エッセイもこれが初めてである。いや、正確にいえば、ずいぶん昔にいまの作風とは異なったエッセイを何冊か読んだおぼえがあるが、そのことはおいておくとしよう。ともあれ、小池さんの小説を知らなくとも、むかしのエッセイがどうであったにせよ、この本は「いとおしい日々」を思い起こさせてくれる大切な存在であることに変わりはない。本棚にある多くの文庫本のなかにそっと置かれることも変わりはない。けれども、甘い感傷に浸りたくなったとき、これからも幾度となく手に取ることになるだろう。そのことも、また変わりはない。
こころの内にそっとしまっておきたくなる写真つきのエッセイ集である。エッセイと写真とのコラボレーションが見事としか言いようがない。その主題は「和」。「調和」とか「柔和」とかの「和」ではなく、「和風」の「和」である。もちろん「和風」から「調和」や「柔和」が引き出されることもあるだろうが、主題はあくまで「和風」にかかわる感性であるように思う。
その対象となるのは和の空間と、それを切り取る光や影、音や匂い、そして和の事物と人の所作。静まりかえった温泉旅館の仄暗い廊下。紙や木の柔らかな匂いで満たされた木造家屋。障子から静謐さを湛えた光が射し込む和室。青畳の上で風呂敷を包む艶めかしい指。日だまりでうつらうつらしている飼い猫の日向の匂いが満ちた白い腹。秘密めいて淫靡な雰囲気が漂う母親の鏡台の引き出し。蚊帳をくぐる時のかさこそという衣ずれのような音。などなど、自分なりに小池真理子さんの文章を切り貼りしてみたが、すべての文章に及びそうで切りがない。ハナブサ・リュウさんの写真も同じだ。
すべてが「優しい既視感」に満ちている。そして、漂うほのかなエロティシズム。子どもの頃に見た我が家とその周囲の風景や感じた物事が、見事なまでに凝縮され再現されている。個々にわたれば、実際の過去とは異なる風景や物事もあるが、それらに関わる感性は一致していて、自分のこころを和ませてくれる。モノクロの写真も既視感と和みをいっそう際立たせてくれる。ここまで書いてきて気が付いた。出だしは「和風」の「和」なのかもしれないが、その奥底にあるのは「和み」の「和」なのかもしれない。自分の過ぎ去った記憶を呼び起こしてくれる、懐かしくて優しい言葉と写真たち。そこにこころの「和み」、「和」がある。
直木賞作家としての小池真理子さんの名前はもちろん知っている。彼女の名前が人の口に上ることも多いように思うし、作家買いするファンも少なくないにちがいない。しかし、自分はというと、小池さんの小説はただの一冊も読んだことがない。エッセイもこれが初めてである。いや、正確にいえば、ずいぶん昔にいまの作風とは異なったエッセイを何冊か読んだおぼえがあるが、そのことはおいておくとしよう。ともあれ、小池さんの小説を知らなくとも、むかしのエッセイがどうであったにせよ、この本は「いとおしい日々」を思い起こさせてくれる大切な存在であることに変わりはない。本棚にある多くの文庫本のなかにそっと置かれることも変わりはない。けれども、甘い感傷に浸りたくなったとき、これからも幾度となく手に取ることになるだろう。そのことも、また変わりはない。