『ダーウィンの悪夢』(フーベルト・ザウパー・監督)
ぜひとも見ておきたい映画だったので、体調はすぐれなかったが、渋谷まで見に行ってきた。あまり体調の良くないときに見るべき映画ではなかったかもしれない。しかし、この世界が“どのように”できているかを垣間見せてくれた点では、たしかに見過ごせないドキュメンタリーだった。もちろん“どのように”というのは自然科学的な意味ではない。グローバリズムというシステムあるいは市場主義によって、われわれの社会が“どのように”なっているかという意味である。
かつて「ダーウィンの箱庭」と呼ばれたタンザニアのヴィクトリア湖では、シクリッドという魚たちが目の前でその進化を演じて見せてくれたという。ところが、誰かが流入したナイルパーチという移入種によって、その生態系は破壊されてしまった。シクリッドの進化やナイルパーチによる生態系破壊のメカニズムは、ダーウィンが「進化論」で語ったことに基づいているにちがいない。ここまでは自然科学の話である。しかし、この映画の主題は、湖の“中”で起きていることではなく、その視座は“外”におかれている。本当の悪夢も湖の外でこそ現出するのである。われわれが日々暮らしているこの世界が、悪夢と無関係でないことを知ったとき、轟然とするとともに、やりきれない感情に襲われてしまう。その悪夢のような現実を突きつけられた後、一歩喧騒とした渋谷の街に出ると、そのリアリティは街並みのなかに霧散してしまうように感じられ、別の虚しさに襲われてしまった。
湖畔の空港に轟音を轟かせて大型貨物機がやってくる。現地の工場で加工されたナイルパーチを運び出すためだ。そのナイルパーチは先進国のレストランなどで供されているという。日本も例外ではない。大型貨物機はナイルパーチを搭載するためにカラでやってくるというが、武器の密輸が強く疑われている。現地の人々はナイルパーチの残骸を食べ、子どもたちは魚の入っていた容器を燃やして、その煙の“麻薬”に酔いしれる。そして女たちは、白人パイロットを相手にした売春で暮らしている。そこには悲惨きわまりない現実がある。
われわれはスクリーン越しに見た現実に驚き、嘆く。一方で、自分たちが先進国で、日本で暮らしていることに、どこか安堵の気持ちを抱かないだろうか。同時に、アフリカはまだまだ悲惨な状況にあるのだと、どこかで納得したような気持ちになっていないだろうか。そんな現状に対して正義感を振りかざし、当該の国々の政府に怒りをぶつけ、機会があれば身近な社会運動にも加わるかもしれない。その人々を救うために。しかし、自分を含めたわれわれがあの国をメチャクチャにしておきながら、今度はわれわれが救ってやろうという。これは事の本質を忘れた転倒した考えだ。この映画はドキュメンタリーとして高く評価したい。しかし、たとえドキュメンタリーといえども、その製作者や監督の視点から逃れることはできない。その意味で、先進国に暮らす者の視点から完全には抜け切れていないように感じる。タンザニアの、アフリカの悲惨さを、アフリカゆえの悲惨さとして、より悲惨に描いていないだろうか。政治的なメッセージを意図していなかったとしてもだ。観客には女性の姿も少なくなかったが、日本の女性たちは、黒人女性の彼女たちが白人相手に売春している実態を見て、何を思うのだろうか。やはりアフリカ人としての悲惨さを真っ先に思うのだろうか。しかし、彼女たちレイシズムとしての差別と性の搾取を同時に受けているのだ。アフリカの、タンザニアの監督が撮ったならば、またちがったドキュメンタリーになったのではないだろうか。あるいは女性が撮ったとしたら、どのような映像になったのだろうか。そのことを踏まえた上でこそ、この映画は高く評価されるべきだろう。
ぜひとも見ておきたい映画だったので、体調はすぐれなかったが、渋谷まで見に行ってきた。あまり体調の良くないときに見るべき映画ではなかったかもしれない。しかし、この世界が“どのように”できているかを垣間見せてくれた点では、たしかに見過ごせないドキュメンタリーだった。もちろん“どのように”というのは自然科学的な意味ではない。グローバリズムというシステムあるいは市場主義によって、われわれの社会が“どのように”なっているかという意味である。
かつて「ダーウィンの箱庭」と呼ばれたタンザニアのヴィクトリア湖では、シクリッドという魚たちが目の前でその進化を演じて見せてくれたという。ところが、誰かが流入したナイルパーチという移入種によって、その生態系は破壊されてしまった。シクリッドの進化やナイルパーチによる生態系破壊のメカニズムは、ダーウィンが「進化論」で語ったことに基づいているにちがいない。ここまでは自然科学の話である。しかし、この映画の主題は、湖の“中”で起きていることではなく、その視座は“外”におかれている。本当の悪夢も湖の外でこそ現出するのである。われわれが日々暮らしているこの世界が、悪夢と無関係でないことを知ったとき、轟然とするとともに、やりきれない感情に襲われてしまう。その悪夢のような現実を突きつけられた後、一歩喧騒とした渋谷の街に出ると、そのリアリティは街並みのなかに霧散してしまうように感じられ、別の虚しさに襲われてしまった。
湖畔の空港に轟音を轟かせて大型貨物機がやってくる。現地の工場で加工されたナイルパーチを運び出すためだ。そのナイルパーチは先進国のレストランなどで供されているという。日本も例外ではない。大型貨物機はナイルパーチを搭載するためにカラでやってくるというが、武器の密輸が強く疑われている。現地の人々はナイルパーチの残骸を食べ、子どもたちは魚の入っていた容器を燃やして、その煙の“麻薬”に酔いしれる。そして女たちは、白人パイロットを相手にした売春で暮らしている。そこには悲惨きわまりない現実がある。
われわれはスクリーン越しに見た現実に驚き、嘆く。一方で、自分たちが先進国で、日本で暮らしていることに、どこか安堵の気持ちを抱かないだろうか。同時に、アフリカはまだまだ悲惨な状況にあるのだと、どこかで納得したような気持ちになっていないだろうか。そんな現状に対して正義感を振りかざし、当該の国々の政府に怒りをぶつけ、機会があれば身近な社会運動にも加わるかもしれない。その人々を救うために。しかし、自分を含めたわれわれがあの国をメチャクチャにしておきながら、今度はわれわれが救ってやろうという。これは事の本質を忘れた転倒した考えだ。この映画はドキュメンタリーとして高く評価したい。しかし、たとえドキュメンタリーといえども、その製作者や監督の視点から逃れることはできない。その意味で、先進国に暮らす者の視点から完全には抜け切れていないように感じる。タンザニアの、アフリカの悲惨さを、アフリカゆえの悲惨さとして、より悲惨に描いていないだろうか。政治的なメッセージを意図していなかったとしてもだ。観客には女性の姿も少なくなかったが、日本の女性たちは、黒人女性の彼女たちが白人相手に売春している実態を見て、何を思うのだろうか。やはりアフリカ人としての悲惨さを真っ先に思うのだろうか。しかし、彼女たちレイシズムとしての差別と性の搾取を同時に受けているのだ。アフリカの、タンザニアの監督が撮ったならば、またちがったドキュメンタリーになったのではないだろうか。あるいは女性が撮ったとしたら、どのような映像になったのだろうか。そのことを踏まえた上でこそ、この映画は高く評価されるべきだろう。
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