
☆『種の起源(上・下)』(チャールズ・ダーウィン・著、渡辺政隆・訳、光文社古典新訳文庫)☆
岩波文庫版の『種の起原』(八杉龍一・訳)を読んだのは3年くらい前のことである。ある講座で知り合った方々と読書会を開くことになり、最初に取り上げたのが『種の起原』だった。以前から進化論に興味があり、自分の拙い研究とも関わりがあったのだが、進化論の原典である『種の起原』は読んでいなかった。むしろ『種の起原』の内容は解説本ですまし、読んだことにしておこうと思っていた。もちろん、けっして褒められた態度ではない。
岩波文庫版のページをめくってみると、内容の高度さというよりは、日本語の読みづらさが気になった。何やら迂遠な日本語という感じで、意味がうまく取れなかった。訳書で原典に挑戦する場合、内容の理解に先立って、訳文の理解―読みやすさが敷居の高低を決めるように思う。一人では到底読めなかった『種の起原』を、数人の方々とともに約半年をかけて読み通した。このときの知人の方々とは、いまもそれなりに付き合いがあり、つながりを大事にしている。(読書会のほうは、諸事情が重なり、残念ながら『種の起原』だけで終わってしまったが)

今年2009年はダーウィンの生誕から200年、『種の起原』の出版から150年に当たる。ガリレイが宇宙に望遠鏡を向けてから400年にも当たっており、それを記念して「世界天文年」でもあった。「世界天文年」は天文学の普及に相当力を入れていたこともあって、書店へ行けば天文書が目立つ年であった。天文書には劣るものの、進化論関係に書籍もかなり目立っていたように思う。そんな2009年の最後を飾ったのが、渡辺政隆さん新訳の『種の起源』である。渡辺さんも、新訳を刊行するならば、この年をおいて他にはないと決断したという。
渡辺訳『種の起源』は実に読みやすい日本語で書かれている。今回すべてを再読したわけではないが、部分的に読んだだけでも、文章のわかりやすさは格段にちがう。少々極端にいえば、新たな訳書を読んでいるというよりも、新たな書物をよんでいる感じさえする。読書会の頃に渡辺訳があったならば、八杉訳ほどには苦労せずに読めたのではないかと思う。もっとも皮肉な見方をすれば、八杉訳を読破したときほどの達成感は得られなかったかもしれない。
渡辺さんの手による「訳者まえがき」、「本書を読むために」、「解説」、「訳者あとがき」もたいへん参考になる。『種の起源』を読むにあたっての注意点・問題点を喚起するとともに、ダーウィン以後の進化論の動向のみならず、簡単ながら日本における進化論の受容や現状についても言及している。「進化」という言葉の齟齬については、まったく同感である。「ポケモンの進化」や「イチローの進化」について、「生物の進化は世代交代を経た枝分かれの歴史であって、一個人が進化することはありえない」と渡辺さんは指摘している。
思うに、いまの日本では「進化」の氾濫がおきている。車も、家電製品も、ファッションも、読書さえも「進化」している。たしか、ある新聞記事では気象情報も「進化」していたように思う。日本語の「進化」には「生物の進化」のみならず「質的な向上」といった意味が含有されていることは承知している。しかし、これほどまでに「進化」を軽々しく使っている時代はないのではないか。
そもそも「質的な向上」の意味では「進歩」や「発展」という言葉ですむのではないだろうか。それを「生物の進化」とリンクしそうな「進化」に置き換えるところに、何か作為的な雰囲気を感じる。作為的といっても明確な意思によるものというよりは、知らず知らずのうちに醸成されている時代の気分のようなものである。生物進化の頂点に立っていると信じてやまないヒト―人間が「進歩」ではなく「進化」を使うことで、自らの価値を物事に投影しているかのようにも思える。「進化」という言葉と社会的文脈や思想との関わりには、今後も関心を持ち続けることになりそうだ。
呻吟しながら八杉訳を読んだとき感じたことの一つは、当時はまだ遺伝のメカニズムがわかっておらず、進化の具体的な機構が説明できないもどかしさである。一方で、もう一つ深く印象に残ったのは、多くの具体的な例を挙げることで自説を検証するなど、ひじょうに注意深く書かれていることである。渡辺訳を読みなおしてみて、ダーウィンのこの注意深さが、八杉訳の読みにくさに反映していた点もあったように思う。
渡辺さんによると「進化に照らさない生物学は意味がない」といったのはドブジャンスキーという進化論の学者だそうである。生物学や進化論を少し意識的に勉強し始めた頃、よく聞いた言葉である。地球上のすべての生物は共通祖先に由来しているのだから当然のことである。もちろん人間もまた例外ではない。渡辺さんは「解説」を「『種の起源』を読まずして人生を語ることはできない」との言葉で結んでいる。
自分が進化に興味を持った原点もそこにあった。人間を考えるとき、生物としてのヒトを射程に入れないことには、すべてが空理空論になるように思われた。人間と環境との関係を論じるエコロジーはもちろんのこと、社会や経済の問題であれ、その基盤をなす思想を問うときも、進化をはずすことはできない。ダーウィンの『種の起源』はその原点にして原典である。ダーウィンに倣って、まず『種の起源』に当たってから、われわれは“注意深く”進化を論じなければならない。いま反省を込めて思っているところである。

追記(訂正):読書会では『種の起原』よりも先にファラデーの『ロウソクの科学』を読んだのを思い出した。読書会で最初に読んだのは『ロウソクの科学』だったことになる。
岩波文庫版の『種の起原』(八杉龍一・訳)を読んだのは3年くらい前のことである。ある講座で知り合った方々と読書会を開くことになり、最初に取り上げたのが『種の起原』だった。以前から進化論に興味があり、自分の拙い研究とも関わりがあったのだが、進化論の原典である『種の起原』は読んでいなかった。むしろ『種の起原』の内容は解説本ですまし、読んだことにしておこうと思っていた。もちろん、けっして褒められた態度ではない。
岩波文庫版のページをめくってみると、内容の高度さというよりは、日本語の読みづらさが気になった。何やら迂遠な日本語という感じで、意味がうまく取れなかった。訳書で原典に挑戦する場合、内容の理解に先立って、訳文の理解―読みやすさが敷居の高低を決めるように思う。一人では到底読めなかった『種の起原』を、数人の方々とともに約半年をかけて読み通した。このときの知人の方々とは、いまもそれなりに付き合いがあり、つながりを大事にしている。(読書会のほうは、諸事情が重なり、残念ながら『種の起原』だけで終わってしまったが)

今年2009年はダーウィンの生誕から200年、『種の起原』の出版から150年に当たる。ガリレイが宇宙に望遠鏡を向けてから400年にも当たっており、それを記念して「世界天文年」でもあった。「世界天文年」は天文学の普及に相当力を入れていたこともあって、書店へ行けば天文書が目立つ年であった。天文書には劣るものの、進化論関係に書籍もかなり目立っていたように思う。そんな2009年の最後を飾ったのが、渡辺政隆さん新訳の『種の起源』である。渡辺さんも、新訳を刊行するならば、この年をおいて他にはないと決断したという。
渡辺訳『種の起源』は実に読みやすい日本語で書かれている。今回すべてを再読したわけではないが、部分的に読んだだけでも、文章のわかりやすさは格段にちがう。少々極端にいえば、新たな訳書を読んでいるというよりも、新たな書物をよんでいる感じさえする。読書会の頃に渡辺訳があったならば、八杉訳ほどには苦労せずに読めたのではないかと思う。もっとも皮肉な見方をすれば、八杉訳を読破したときほどの達成感は得られなかったかもしれない。
渡辺さんの手による「訳者まえがき」、「本書を読むために」、「解説」、「訳者あとがき」もたいへん参考になる。『種の起源』を読むにあたっての注意点・問題点を喚起するとともに、ダーウィン以後の進化論の動向のみならず、簡単ながら日本における進化論の受容や現状についても言及している。「進化」という言葉の齟齬については、まったく同感である。「ポケモンの進化」や「イチローの進化」について、「生物の進化は世代交代を経た枝分かれの歴史であって、一個人が進化することはありえない」と渡辺さんは指摘している。
思うに、いまの日本では「進化」の氾濫がおきている。車も、家電製品も、ファッションも、読書さえも「進化」している。たしか、ある新聞記事では気象情報も「進化」していたように思う。日本語の「進化」には「生物の進化」のみならず「質的な向上」といった意味が含有されていることは承知している。しかし、これほどまでに「進化」を軽々しく使っている時代はないのではないか。
そもそも「質的な向上」の意味では「進歩」や「発展」という言葉ですむのではないだろうか。それを「生物の進化」とリンクしそうな「進化」に置き換えるところに、何か作為的な雰囲気を感じる。作為的といっても明確な意思によるものというよりは、知らず知らずのうちに醸成されている時代の気分のようなものである。生物進化の頂点に立っていると信じてやまないヒト―人間が「進歩」ではなく「進化」を使うことで、自らの価値を物事に投影しているかのようにも思える。「進化」という言葉と社会的文脈や思想との関わりには、今後も関心を持ち続けることになりそうだ。
呻吟しながら八杉訳を読んだとき感じたことの一つは、当時はまだ遺伝のメカニズムがわかっておらず、進化の具体的な機構が説明できないもどかしさである。一方で、もう一つ深く印象に残ったのは、多くの具体的な例を挙げることで自説を検証するなど、ひじょうに注意深く書かれていることである。渡辺訳を読みなおしてみて、ダーウィンのこの注意深さが、八杉訳の読みにくさに反映していた点もあったように思う。
渡辺さんによると「進化に照らさない生物学は意味がない」といったのはドブジャンスキーという進化論の学者だそうである。生物学や進化論を少し意識的に勉強し始めた頃、よく聞いた言葉である。地球上のすべての生物は共通祖先に由来しているのだから当然のことである。もちろん人間もまた例外ではない。渡辺さんは「解説」を「『種の起源』を読まずして人生を語ることはできない」との言葉で結んでいる。
自分が進化に興味を持った原点もそこにあった。人間を考えるとき、生物としてのヒトを射程に入れないことには、すべてが空理空論になるように思われた。人間と環境との関係を論じるエコロジーはもちろんのこと、社会や経済の問題であれ、その基盤をなす思想を問うときも、進化をはずすことはできない。ダーウィンの『種の起源』はその原点にして原典である。ダーウィンに倣って、まず『種の起源』に当たってから、われわれは“注意深く”進化を論じなければならない。いま反省を込めて思っているところである。

追記(訂正):読書会では『種の起原』よりも先にファラデーの『ロウソクの科学』を読んだのを思い出した。読書会で最初に読んだのは『ロウソクの科学』だったことになる。
進歩対進化〔変節〕
進歩:緩やかな、長い間気づかなかった変化。それによって外的な力に対する意志の勝利が揺るぎないものになる。ぼくは自分の欲することをすることができる。あらゆる進歩は自由に属する。たとえば、朝起きたり、楽譜を読んだり、礼儀正しくしたり、怒りを抑えたり、妬まないようにしたり、はっきりと話したり、読みやすいように書いたり、などである。人びとは合意して、平和を守り、不正や貧困を減少させ、すべての子どもたちを教育し、病人の看護をすることができる。
反対に、変節〔進化〕と呼んでいるのは、われわれを知らず知らずのうちに立派な計画から遠ざけることによって、われわれを多少とも非人間的な力に服従させる変化である。「わたしは進化〔変節〕した」と言う人は、時として、叡知において前進したことを理解させようとするが、それはできないのだ。言語がそのことを許さない。in 『アラン定義集』、p137、岩波文庫