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『障害・病いと「ふつう」のはざまで』(田垣正晋・編著、明石書店)
主として序章「脱援助と、絶えざる言い換えの努力」(田垣正晋・著)、第1章「社会における障害とは何か」(田垣正晋・著)、第2章「軽度障害というどっちつかずのつらさ」(田垣正晋・著)、第8章「慢性の病気にかかるということ」(今尾真弓・著)を読んだ。
たとえば、階段や坂道を上るのが自分は苦手である。息切れや動悸がするからだ。老化のせいではない。生まれつき心臓の機能に障害があるからだ。だからといって、階段や坂道をまったく上れないわけではない。ふつうの状態ならば、駅の階段や3階くらいまでだったら一休みせずに上りきることができると思う。「ふつうの状態ならば」とか「思う」といったあいまいな表現をしたのは、ここまでならば大丈夫というような明確な線引きを自分でもできないからだ。その日の体調次第で大きな差がでることもある。しかし、2階までの階段であっても心臓への負担は自覚できるので、基本的にはエレベーターやエスカレーターを使うことが多い。とはいえ、エレベーターやエスカレーターが必ず設置されているわけではないから、その場合や坂道などは覚悟をきめて比較的ゆっくりと上りきるしかない。
こんなとき、自分ひとりならば自分のペースで上ればいいので問題はない。問題は友人・知人などの同伴者がいるときだ。自分の障害を明かしてあっても(明かしてなければなおさら)カッコをつけて、みんなのペースに合わせて上ろうとしてしまうことがよくある。結果的にそれ以上の激しい息切れや動悸におそわれてしまうが、それも何とか噛み殺して平静を装うこともよくある。そのような行動をとってしまうのは、やはり自分の障害の「可視性」にあるのだろうと思う。自分の障害は分類上「内部障害」にあたるが、この障害は他者から見てひじょうにわかりにくい。さらに問題なのは、その障害が“軽度”であるからだ。内部障害以上に軽度障害は「可視性」の問題をはらんでいるといえる。
軽度障害の度合いを他者に伝えるのはむずかしい。自分に障害があることを告白すれば、他者はそれなりの配慮をしてくれるだろう。しかし、それは自分が「障害者」であることを認めることでもある。自分を障害者の範疇に入れると、重度障害者の方に申し訳ない気持ちにもなる。逆に自分の障害を隠せば、身体的にムリを強いられる可能性が高くなる。障害が―内部障害であり軽度であるがゆえに―見えない(顕在化しにくい)ため、怠惰であるとか努力がたりないといった批判を受けることもある。実際、ハローワークが職安といわれていたころ、そんな言葉を浴びせられたことが何度かあった。当時は障害者手帳も持っていなかったので、その場で証明することがむずかしかった。しかし、逆に手帳を示したとしても、はたしてどんな職業の斡旋を受けることができただろうか。手帳上の等級は4級だが、「社会活動制限」との印字と「要介護」の判が押してある。実際には「社会活動制限」もほとんど必要なく、ましてや「要介護」の状態ではまったくないにもかかわらず、こういった区分がいわば機械的になされているということである。しかし、区分と実態が合っていなくとも、これを見たとき、多くの雇い主(あるいは職安職員)は二の足を踏むのではないだろうか。
いまの仕事でも基本的に障害のことは―故意に隠しているというよりも―明かしていない。いまの職場で実際に障害が差し障りになっていることはほとんどないと思うからだ。いまならば障害者手帳を提示して障害の認知を求めることはできるが、そうすることで、変に配慮をされたり、何らかのミスをおかしたときに、それと障害とを結びつけられる可能性もないとはいえない。それを口実にして配置転換や退職勧告にまで発展するのではないかという疑念までもってしまう。そうはいっても、まれに急な用事で走らなければならないときがある。そんなとき、やはり自分の障害のことを言っておくべきだろうかと、一瞬迷うことがある。結局は「障害者」として見られることへの抵抗(ジレンマ)を思うと、少々身体にムリをさせることですましてしまうことが常なのだが。階段で同伴者のペースに合わそうとする心理も同様である。高齢者も「障害者」として捉えることが可能だと思うが、高齢者の心理や高齢者に対する配慮にも通じるものがあるように思う。
そもそも自分は「障害者」であるという自覚があまりない。むしろ「慢性疾患患者」と言ったほうがふさわしいような気がする。しかも、手術を受ければ治癒する“可能性”があるため(※)、いっそう障害とは言いにくい。一昔前に父の強い勧めで障害者の認定を受けたのだが、心理的にはかなり強い抵抗を感じた。いま障害者手帳を提示するのは、JRや長距離バスで帰省するときなどの運賃の割引を受けるときだけである。背に腹はかえられないから割引を受けているが、いまだに手帳を提示することに罪悪感のようなものを感じる。それは自分が、他者から見て障害の程度がはっきりとわかるような「内部ではない」あるいは“重度”の障害者ではないからだろうと思う。自分は障害者であると断言もできず、かといって健常者でもない。常にジレンマに悩まされ、それに伴うストレスにさらされているといえる。今尾さんが書いているように、進学、就職、結婚、転居、転職などといったライフイベントごとに、ジレンマとストレスに対峙することにもなる。つまりライフイベントがあるごとに、モーニングワーク(mourning work、喪の仕事:何らかの対象喪失と心の整理作業とでもいうべきこと)が繰り返されることを余儀なくされるのである。障害の「可視性」や“軽度”障害のカミングアウトの問題はむずかしい。実際、自分にとって難問であり続けてきたし、いまも明確な解答を得ているわけではない。
不遜な言い方かもしれないが、軽度障害者には重度障害者にはない軽度障害者なりの問題がある。重度障害者にはない生きづらさがあるのである。しかし、これまで障害者問題や障害者福祉は重度障害者にばかり焦点を当ててきたように思われる。それは言いすぎだとしても、軽度障害者の問題が俎上にのせられて語られることはほとんどなかったように思う。障害者に対する視点・視座の変革を含めた社会の改革や福祉の整備、援助などは今後も必要不可欠である。けれども、その「障害者」とはやはり重度障害者であったように思えてならない。軽度障害者にとっても具体的な福祉の整備は必要だが、それ以上に非・軽度障害者(いわゆる健常者と重度障害者、さらには当該障害者以外の障害者を含む)の軽度障害者を見る目(認識)こそあらためてほしいと思う。繰り返しになるが、軽度障害者がもっとも望んでいることは、誤解を恐れずにいえば、一般的に社会が障害者に対して必要であろうと考えているような援助(だけ)ではない。軽度障害者は「どっちつかずのジレンマ」についてこそ理解してほしいと切に願っているのである。少なくとも自分にはそう思える。
本書は、自分の問題とはいえ、なかなか言語化できなかった複雑な想いを代弁してくれた。いままでこのような本にはお目にかかれなかった。自分にとって有意義かつ稀有な本だったいえるだろう。ちなみに編著者の田垣さんは自身が右上肢分娩麻痺をもつ軽度障害者(3級)であり、今尾さんも慢性疾患の経験者である。他の章の執筆者も障害の当事者かそれに近い立場にある人たちである。そのことが、本書を理屈倒れではない説得力のあるものにしている所以だろうと思われる。
(※)数年前、某大学病院に検査入院をしたとき、手術の危険率は10%くらいだといわれた。客観的には90%は成功するのだから手術は受けたほうが良いと思われるだろう。尊敬すべき面を多く持つ、田舎のある友人にも「手術を受けてすっきりしたほうがよい」といわれたことがある。この点に関してだけは落胆の思いをしたと同時に、当事者と非・当事者との間の深い溝を感じた。命をかけた手術を受ける当事者にとってはゼロか100%しかない! さらに付け加えれば、このような思いは、緊急に手術しなければ命にかかわるという状態ではない(自分という)軽度障害者ならではのものといえるだろう。
主として序章「脱援助と、絶えざる言い換えの努力」(田垣正晋・著)、第1章「社会における障害とは何か」(田垣正晋・著)、第2章「軽度障害というどっちつかずのつらさ」(田垣正晋・著)、第8章「慢性の病気にかかるということ」(今尾真弓・著)を読んだ。
たとえば、階段や坂道を上るのが自分は苦手である。息切れや動悸がするからだ。老化のせいではない。生まれつき心臓の機能に障害があるからだ。だからといって、階段や坂道をまったく上れないわけではない。ふつうの状態ならば、駅の階段や3階くらいまでだったら一休みせずに上りきることができると思う。「ふつうの状態ならば」とか「思う」といったあいまいな表現をしたのは、ここまでならば大丈夫というような明確な線引きを自分でもできないからだ。その日の体調次第で大きな差がでることもある。しかし、2階までの階段であっても心臓への負担は自覚できるので、基本的にはエレベーターやエスカレーターを使うことが多い。とはいえ、エレベーターやエスカレーターが必ず設置されているわけではないから、その場合や坂道などは覚悟をきめて比較的ゆっくりと上りきるしかない。
こんなとき、自分ひとりならば自分のペースで上ればいいので問題はない。問題は友人・知人などの同伴者がいるときだ。自分の障害を明かしてあっても(明かしてなければなおさら)カッコをつけて、みんなのペースに合わせて上ろうとしてしまうことがよくある。結果的にそれ以上の激しい息切れや動悸におそわれてしまうが、それも何とか噛み殺して平静を装うこともよくある。そのような行動をとってしまうのは、やはり自分の障害の「可視性」にあるのだろうと思う。自分の障害は分類上「内部障害」にあたるが、この障害は他者から見てひじょうにわかりにくい。さらに問題なのは、その障害が“軽度”であるからだ。内部障害以上に軽度障害は「可視性」の問題をはらんでいるといえる。
軽度障害の度合いを他者に伝えるのはむずかしい。自分に障害があることを告白すれば、他者はそれなりの配慮をしてくれるだろう。しかし、それは自分が「障害者」であることを認めることでもある。自分を障害者の範疇に入れると、重度障害者の方に申し訳ない気持ちにもなる。逆に自分の障害を隠せば、身体的にムリを強いられる可能性が高くなる。障害が―内部障害であり軽度であるがゆえに―見えない(顕在化しにくい)ため、怠惰であるとか努力がたりないといった批判を受けることもある。実際、ハローワークが職安といわれていたころ、そんな言葉を浴びせられたことが何度かあった。当時は障害者手帳も持っていなかったので、その場で証明することがむずかしかった。しかし、逆に手帳を示したとしても、はたしてどんな職業の斡旋を受けることができただろうか。手帳上の等級は4級だが、「社会活動制限」との印字と「要介護」の判が押してある。実際には「社会活動制限」もほとんど必要なく、ましてや「要介護」の状態ではまったくないにもかかわらず、こういった区分がいわば機械的になされているということである。しかし、区分と実態が合っていなくとも、これを見たとき、多くの雇い主(あるいは職安職員)は二の足を踏むのではないだろうか。
いまの仕事でも基本的に障害のことは―故意に隠しているというよりも―明かしていない。いまの職場で実際に障害が差し障りになっていることはほとんどないと思うからだ。いまならば障害者手帳を提示して障害の認知を求めることはできるが、そうすることで、変に配慮をされたり、何らかのミスをおかしたときに、それと障害とを結びつけられる可能性もないとはいえない。それを口実にして配置転換や退職勧告にまで発展するのではないかという疑念までもってしまう。そうはいっても、まれに急な用事で走らなければならないときがある。そんなとき、やはり自分の障害のことを言っておくべきだろうかと、一瞬迷うことがある。結局は「障害者」として見られることへの抵抗(ジレンマ)を思うと、少々身体にムリをさせることですましてしまうことが常なのだが。階段で同伴者のペースに合わそうとする心理も同様である。高齢者も「障害者」として捉えることが可能だと思うが、高齢者の心理や高齢者に対する配慮にも通じるものがあるように思う。
そもそも自分は「障害者」であるという自覚があまりない。むしろ「慢性疾患患者」と言ったほうがふさわしいような気がする。しかも、手術を受ければ治癒する“可能性”があるため(※)、いっそう障害とは言いにくい。一昔前に父の強い勧めで障害者の認定を受けたのだが、心理的にはかなり強い抵抗を感じた。いま障害者手帳を提示するのは、JRや長距離バスで帰省するときなどの運賃の割引を受けるときだけである。背に腹はかえられないから割引を受けているが、いまだに手帳を提示することに罪悪感のようなものを感じる。それは自分が、他者から見て障害の程度がはっきりとわかるような「内部ではない」あるいは“重度”の障害者ではないからだろうと思う。自分は障害者であると断言もできず、かといって健常者でもない。常にジレンマに悩まされ、それに伴うストレスにさらされているといえる。今尾さんが書いているように、進学、就職、結婚、転居、転職などといったライフイベントごとに、ジレンマとストレスに対峙することにもなる。つまりライフイベントがあるごとに、モーニングワーク(mourning work、喪の仕事:何らかの対象喪失と心の整理作業とでもいうべきこと)が繰り返されることを余儀なくされるのである。障害の「可視性」や“軽度”障害のカミングアウトの問題はむずかしい。実際、自分にとって難問であり続けてきたし、いまも明確な解答を得ているわけではない。
不遜な言い方かもしれないが、軽度障害者には重度障害者にはない軽度障害者なりの問題がある。重度障害者にはない生きづらさがあるのである。しかし、これまで障害者問題や障害者福祉は重度障害者にばかり焦点を当ててきたように思われる。それは言いすぎだとしても、軽度障害者の問題が俎上にのせられて語られることはほとんどなかったように思う。障害者に対する視点・視座の変革を含めた社会の改革や福祉の整備、援助などは今後も必要不可欠である。けれども、その「障害者」とはやはり重度障害者であったように思えてならない。軽度障害者にとっても具体的な福祉の整備は必要だが、それ以上に非・軽度障害者(いわゆる健常者と重度障害者、さらには当該障害者以外の障害者を含む)の軽度障害者を見る目(認識)こそあらためてほしいと思う。繰り返しになるが、軽度障害者がもっとも望んでいることは、誤解を恐れずにいえば、一般的に社会が障害者に対して必要であろうと考えているような援助(だけ)ではない。軽度障害者は「どっちつかずのジレンマ」についてこそ理解してほしいと切に願っているのである。少なくとも自分にはそう思える。
本書は、自分の問題とはいえ、なかなか言語化できなかった複雑な想いを代弁してくれた。いままでこのような本にはお目にかかれなかった。自分にとって有意義かつ稀有な本だったいえるだろう。ちなみに編著者の田垣さんは自身が右上肢分娩麻痺をもつ軽度障害者(3級)であり、今尾さんも慢性疾患の経験者である。他の章の執筆者も障害の当事者かそれに近い立場にある人たちである。そのことが、本書を理屈倒れではない説得力のあるものにしている所以だろうと思われる。
(※)数年前、某大学病院に検査入院をしたとき、手術の危険率は10%くらいだといわれた。客観的には90%は成功するのだから手術は受けたほうが良いと思われるだろう。尊敬すべき面を多く持つ、田舎のある友人にも「手術を受けてすっきりしたほうがよい」といわれたことがある。この点に関してだけは落胆の思いをしたと同時に、当事者と非・当事者との間の深い溝を感じた。命をかけた手術を受ける当事者にとってはゼロか100%しかない! さらに付け加えれば、このような思いは、緊急に手術しなければ命にかかわるという状態ではない(自分という)軽度障害者ならではのものといえるだろう。
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