「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『デザート・クァルテット』

2007年12月02日 | Ecology
『デザート・クァルテット』(テリー・テンペスト・ウィリアムス・著、メアリー・フランク・画、木下卓、結城正美・訳、松柏社)
  本書のサブタイトルは「風景のエロティシズム」。この「エロティシズム」とは、ふつうに考える男と女との間のエロティシズムではなく、それを超えたものといえるだろう。人間は社会的存在である前に自然的存在であると捉えるならば、人間は本来的に性的存在であるといえる。そして、「エロス」とは本来「生」と深くかかわっている。人間は、自然の相の一つの現われである風景と交わることで、自らが自然的存在であることを体感し、「生」を実感できる。著者のウィリアムスは―散文ではないが―詩的な文章をとおして人間と自然(風景)とのエロス的なかかわりを語っているように思う。ここで重要なことは、風景とのかかわりは視覚に限られていないということだ。五感のすべてで風景と交わることの至福が語られている。
  自然との“交感”を文学的に表現する形式を「ネイチャーライティング」という。古くはソローの『森の生活』や、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』もその一つといえるだろうが、本書も現代における「ネイチャーライティング」の傑作―帯には「新たなる試み」と記されているが―と思われているようだ。それは風景というものを根源的なエロスとのかかわりで描いたからだろう。そして、そのかかわりの回路は、視覚の束縛から解放されたすべての感覚(五感)の統合(身体感覚)として表現されているところに現代的な意義があるといえる。たしかに人間という生物は、その生活の多くを視覚にたよっている。しかし、視覚に特権的な立場を与えたことが、いわゆる「近代」の病巣に深くかかわっているともいわれる。言い換えれば、視覚にばかりたよって、他の感覚をないがしろにしたことで、人間は自らが自然のなかで生まれ育った存在であることを忘れ、自然を対象物として扱うようになり、破壊するようになったということだ。
  もう一つ、著者が女性であることも心に留めておくべきことかもしれない。女性は男性に比べて、視覚以外の感覚に鋭いといわれることがある。ばらばらな五感ではなく、すべてを合わせた身体感覚も女性のほうが優っているように思う。これは生物としての男女差によるものなのか、あるいはいままでの時代や社会によって作られてきた差によるものなのかはわからない。しかし、一般論として、視覚にたよる(あるいは、視覚以外の感覚をないがしろにする)傾向は男性のほうが強いような気がする。そう考えれば、本書で語られている風景と身体感覚との交感は、女性ならではの視点(ああ、これも視覚にたよった表現だ!)といえるようにも思われる。自然に対する暴力と女性に対する暴力(この暴力は物理的な力の行使だけを意味しない)の原因は同じ根から出ているという考え方がある。このような思想は「エコ・フェミニズム」と呼ばれている。本書の奥には、このエコ・フェミニズムに通じるものが流れているようにも思われる。
  本書はそのような思想的な興味にも応えてくれるが、舞台であるキャニオンランズ国立公園をウィリアムスといっしょに歩く(追体験する)だけでも十分に楽しめる。峡谷を登る彼女の息づかいまでもが聞こえてくるようだ。華やかな作りではないが、装丁や挿画もちょっとオシャレな感じがする。挿画については、ふつうの意味でエロティックな感じがするものがやや多い。だからというわけではないが、大人にとっては感じるところが多い本だと思う。
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