「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『一粒の柿の種』

2009年01月08日 | Science
『一粒の柿の種』(渡辺政隆・著、岩波書店)

  科学のプラスの面ばかりではなく、むしろマイナスの面をきちんと伝えたい。3年前の夏休み、国立科学博物館サイエンスコミュニケータ養成実践講座初日の自己紹介で、この言葉どおりではないがそういったニュアンスのことを話した。自分以外の23名の同期生は多かれ少なかれ科学の楽しさや夢について話していたように思う。科学に対するポジティブな雰囲気が盛り上がるなかで、冷や水を浴びせるようなネガティブな発言はたしかに勇気がいった。しかし、一人毛色がちがっていたことで発言にある程度のインパクトを与え、自分のスタンスを同期生に認識してもらえたように思う。サイエンスコミュニケーションをどのように捉えるかは人それぞれなのだが、自分の立場は基本的にいまも変わりはない。
  本書のタイトル「一粒の柿の種」は日本のサイエンスコミュニケーションの先達と目される寺田寅彦の随筆集『柿の種』に由来している。その寺田寅彦に始まりサイエンスコミュニケーションに関わるさまざまな話題にふれながら、渡辺政隆さんはサイエンスコミュニケーションのあり方を問いなおし、答えの一端を提示する。サイエンスコミュニケーションのいわば究極の極意として、本書は最後に「愛」へと至る。「愛」の反対語は「憎しみ」ではなく「無関心」であるというマザー・テレサの言葉を引用して、科学と社会のあり方を考える上でいちばん恐ろしいのは科学に対する無関心であるという。サイエンスコミュニケーションという営みの基本は科学に関心をもってもらうことなのである。だから科学者やサイエンスコミュニケータは科学を学ぶ楽しさや夢、科学を知ったことで得をすることを語ろうとする。そのためには科学という営為を正しく認識する必要がある。たとえばエセ科学(渡辺さんの表現では「ニセ科学」)から身を守るという利益は科学を正しく知ることで得られるはずだ。これもまた科学に関心をもってもらう方途の一つである。科博で科学のマイナス面を強調したのは、科学という営為の正確な認識を意図していた。科学は万能ではないし、科学は世界を知る一つの方法にすぎないともいえる。しかし、その認識に立つことで得られる利益もあるはずだ。自分の場合は一見否定的に思える表現で「科学への愛の言葉」を語ったつもりだが、いまにして思えば言葉たらずだったといえるだろう。
  渡辺さんはサイエンティスト(科学者)という呼称の誕生にまで遡った上で、サイエンティストとはそもそも人々に科学を語る使命を担っていたと興味深い指摘をしている。それにもかかわらず、やがて科学は社会と遊離・専横化し、科学者もまた自閉化して人々に科学を語ろうとしなくなった。少なくともそういったイメージが現代社会に根付いている。現代社会の中で生きる自分もまた貧しい経験をもとにして科学と社会との関係を問題意識として捉え、その延長線上に一見毛色のちがうサイエンスコミュニケータへの道が連なっていったのだと思う。しかしここへきて、科学の楽しさや夢を強調する“正統な”サイエンスコミュニケーションへの興味・欲求が少し高まっている。けっして科学を否定するわけではないが批判的なスタンスをとる研究環境に、しばらく身を置いていたことの反動かもしれない。批判のための批判は問題外だが、科学を批判的に捉える視角に今後も変わりはない。しかし、斜に構えた愛の言葉は心に余韻を残しカッコイイものだが、ときには直球で愛の言葉を投げたくなることもある。たまには恥ずかしがらずに素直に愛の言葉を語ってもいいのだよと、この本は諭してくれているような気がした。こころの奥底で眠っていた“正統な”―アバタもエクボや自己中ではない―科学への愛に久しぶりに気付いた心持ちだ。
  科博のサイエンスコミュニケータ養成実践講座では渡辺政隆さん―この場合は渡辺政隆先生というべきだろうが―から「サイエンスライティング」の講義を受けた。進化論関係の翻訳書や著書を次々に出される渡辺さんは憧れの存在だった。実際にお会いしてみると、身のこなしや語り口は実にスマートで好印象を受けた。渡辺さん以外にも本の中でしか知らないような多くの方々に、講座や関連したイベントを通じてお会いした。そして何よりも、講座の同期生たちとサイエンスコミュニケーションのみならずさまざまなことを語り合う中で、多くの刺激を受けコミュニケーションの輪が大きく広がった。これは得がたい財産である。先生方や同期生との輪をもとにして、今後はサイエンスコミュニケーションを実践へと移していかなければならない。すでに実績を積んでいる同期生も少なくない。だからといって焦ってもしかたがない。丑年だからというわけではないが着実な牛歩の歩みでいこう。ちなみに今年2009年は、ガリレオ・ガリレイが宇宙に望遠鏡を向けてから400年を記念した世界天文年である。自分の科学への愛の原点は天文学や科学史だった。これも何かの巡り合わせだろうか。論文執筆のために読むべき本は山積みされているし、他にも読みたい本は数多くあるが、その合間を縫って、あるいは隙間を作って、今年は天文・宇宙や科学史関係の本を意識的に読んでみたいと思う。サイエンスコミュニケーションの実践は科学への愛の原点に戻ることから始めよう、たとえ遠回りであっても。
  これはまったくの余談だが、渡辺さんは福岡伸一さんの『生物と無生物のあいだ』の一節を紹介して「これだけを読んで科学書の一節と思う人がはたしてどれだけいるだろうか」と書いている。自分と同じような感想を持たれたことに驚くと同時に、何だか嬉しくなってしまった。

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