平安時代の前期、漢文学は相変わらず盛んに行われていましたので、日本文学歴史で「国風暗黒的な時代」と呼ばれました。平安時代の中ごろ
になると、それまで中国の文化を取り入れることに夢中であった日本にも、独自の文化がうまれるようになりました。男性貴族が政治で使う文
字は漢字であり、文章は漢文であり続けました。漢字に代わる、かな文字が発達したからです。「かな文字」と呼ばれましたが、難しい漢字よ
りも易しく、簡単に使えるので、女の人達に喜ばれ、たくさんの日記や物語が書かれました。物語りや日記や仮名に書き表されるようになった
ので、平安時期の女性文学の発生、発達を促していました。
そして、この時期の漢詩文の作者は男性が圧倒的で、女性の作者はまれでありました。漢詩文は男性中心の教養として行われていたから、女性
は漢詩文の制作にはかかわることができなかったのでありました。そのため、初めてたくさん女性作家の輝かしい姿があらえあれていました。
そんな華やかな女性作家たちの中で、際立った才能を持っていたのが、今まで世界で一番湯名的な「源氏物語」を書いた作家という紫式部と、
随筆文学の代表作という「枕草子」を書いた清少納言の二人です。それから、紫式部と清少納言ンの作品は後世に大きな影響を残すことになる
表現形態を発明したのです。二人はお互いにライバルとして競い合い、見事に女性文学の花を咲かせたのです。女性文学は当時の新しい時代と
社会の変化の波があったのです。その歴史の背景をさぐりながら、ふたりの天才出現の実相を考えてみます。
平安時代、女性文化は黄金期を迎えました。なぜ女性文化は大成功なのですか。その原因はいくつあると思います。一、上流貴族女性たちが漢
学の素養が高くて作品を作れる才能を持っていると思います。例えば、紫式部、清少納言二人とも漢学の高い官吏の家で生まれたのです。二、
上流貴族女性たちは人生経験は豊富です。この豊富な経験は作品の肝心な題材になります。例えば、清少納言は皇后に添えて、皇后に楽しくな
るために、毎日周囲の事情について「をかし」と誇られる随筆を書き、皇后に差し上げました。三、不安な社会は女性にも及ぼします。平安時
代の末期政争が激しくて現実が暗いです。女性たちは不安な世に敏感して作品の中にも書き入れました。例えば、«源氏物語»の中に、平安時代
末期の社会変化は書き入れました。
平安時代の有名な女性文学の代表作また王朝女性によって書く「蜉蝣日記」、「和泉式部日記」などがあります。その女性たちは日本古代文学
に大いに異彩を放たれさせました。もう一つ、平安王朝の女性と文学の流行のため、日本の「和風化」を促させました。それでは、日本は古代
民族文学の輝かしい時期を迎えて、日本文学史の一つ特有現象になってきました。