プロローグ
人間(ひと)は必然的に、出逢いと別れを繰り返していく。本人にとっては無意味だと思う出逢いでも、たとえ、一度しか逢わないという出逢いでも、この世に生を与えられた瞬間(とき)から命果てるまで、人間は様々な出逢いと別れを経験していく…。
この事は、男女間の愛や、友達同士、仲間、夢を追い続ける者にとっても、決して無関係とは言えない。様々な出逢いの中、人間は愛する者を見つけ、又、葛藤を繰り返しながら人間は夢を追う…。
しかし、一旦その出逢いと別れの歯車が狂ってしまうと、人間は愛する心を失ったり、夢をあきらめたりして傷付いたり、他人を傷付けてしまう。傷が深ければ深い程、人間は絶望的になってしまう…。
もし、深い傷を負った者同士が出逢ったら、どんな事になるのだろうか? 心に負った傷は? そして…、再び人間は生きる希望を見つけられるのであろうか…? そんな、とりとめのない事を、普段、私達は考えないまま、毎日を生きている…。
この少年達の物語も、そんな何気ない毎日の、ほんの一部でしかないのかもしれないけれど、どこにでもある毎日が、ある日、とんでもない方向に急変してしまったら、あなたはどうしますか…?
○
1971年の6月半ば過ぎ、札幌の街が初夏らしい季節を迎えたある日の朝、市内にある産婦人科医院で、2200キロという小さな男の子が誕生した。その男の子は、津川家の次男として生まれ、両親の名前からそれぞれ一文字ずつ取って、『文人』と命名された…。
数週間後、文人は母親と一緒に退院した。母親は育児休暇を取っていたが、母親の勤めている製薬会社の研究所は忙しく、人手が足りない事から、数ヶ月後、母親は職場復帰し、文人のお守りは通いの家政婦が引き受けるようになっていた。幸い、文人は、家政婦が掃除機をかけてもグズらず、絵本を読み聞かせるとぐっすり眠り、お風呂に入れてもおとなしく、殆ど手がかからない子だった…。
3歳になると、同じ年頃の子供は、近所にある幼稚園に通い始めていた。両親は最初、文人を幼稚園に通わせようと考えていた。だが、文人はその頃から、大学病院に勤めている父親の書斎に入っては、大人でさえ理解するのが難しい海外の書籍を、片っ端から『読破』したり、父親以上にパソコンを使いこなしたり、上級者向けの楽譜を見てピアノを弾いたりと、人並みはずれた才能がある事を知り、両親はそれを伸ばす事を選び、幼稚園には通わせなかった。その為、文人は生まれてから6年間、家族と一緒に外出する以外は、殆ど家から出ずに過ごした…。
○
4月に入っても、道路わきにはまだ雪が残っていた。そんな中、札幌市内の殆どの小・中学校で、『入学式』があった。6歳になっていた文人も、小学校へ入学する一人だった。この日、文人の両親は、入学式に出席する為に休みを取っていたのであるが、父親の勤務する大学病院の第一外科は忙しく、この日も早朝に連絡が入り、父親は朝食を食べずに行ってしまった。
文人は、朝起きて朝食を済ませてから眼鏡をかけるなど身支度をし(パソコンで目を酷使した為、『近眼』になった)、玄関で靴を履いて待っていた。
その時、ちょうど母親の勤務先から、緊急の連絡が入ってしまった。
「文人、悪いけど、仕事が終わり次第、すぐ学校に駆けつけるからっ…! 一人でも大丈夫ねっ?」
そう言うと、文人の返事を聞くのを待たず、母親も慌てて仕事先へ行ってしまった。
通いの家政婦は、この日、両親が非番だからと、休みを取っていた。2つ上の兄は、迎えに来ていた友達と一緒に、先に行ってしまった。
〈どうしようっ…〉
文人は、今まで一人で外へ出た事がなかったので、玄関先で考えていた。だが、時間がどんどん過ぎていき、渋々、一人で外へ出て、歩き始めた。
文人は、しばらく歩いていると、新一年生と付き添いの父兄達の集団を見つけ、その後について行き、学校へ向かって歩いた。
学校に着くと、文人は玄関で上履きに履き替え、受付係らしい上級生を見つけると、事情を話した。そして、自分の名前を言うと、上級生に教室まで案内してもらった。
しばらくして、担任らしい教師が入ってきて、簡単な自己紹介や説明をした後、廊下に出て、背の順に並んだ。文人は、男子で一番前だった…。
人間(ひと)は必然的に、出逢いと別れを繰り返していく。本人にとっては無意味だと思う出逢いでも、たとえ、一度しか逢わないという出逢いでも、この世に生を与えられた瞬間(とき)から命果てるまで、人間は様々な出逢いと別れを経験していく…。
この事は、男女間の愛や、友達同士、仲間、夢を追い続ける者にとっても、決して無関係とは言えない。様々な出逢いの中、人間は愛する者を見つけ、又、葛藤を繰り返しながら人間は夢を追う…。
しかし、一旦その出逢いと別れの歯車が狂ってしまうと、人間は愛する心を失ったり、夢をあきらめたりして傷付いたり、他人を傷付けてしまう。傷が深ければ深い程、人間は絶望的になってしまう…。
もし、深い傷を負った者同士が出逢ったら、どんな事になるのだろうか? 心に負った傷は? そして…、再び人間は生きる希望を見つけられるのであろうか…? そんな、とりとめのない事を、普段、私達は考えないまま、毎日を生きている…。
この少年達の物語も、そんな何気ない毎日の、ほんの一部でしかないのかもしれないけれど、どこにでもある毎日が、ある日、とんでもない方向に急変してしまったら、あなたはどうしますか…?
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1971年の6月半ば過ぎ、札幌の街が初夏らしい季節を迎えたある日の朝、市内にある産婦人科医院で、2200キロという小さな男の子が誕生した。その男の子は、津川家の次男として生まれ、両親の名前からそれぞれ一文字ずつ取って、『文人』と命名された…。
数週間後、文人は母親と一緒に退院した。母親は育児休暇を取っていたが、母親の勤めている製薬会社の研究所は忙しく、人手が足りない事から、数ヶ月後、母親は職場復帰し、文人のお守りは通いの家政婦が引き受けるようになっていた。幸い、文人は、家政婦が掃除機をかけてもグズらず、絵本を読み聞かせるとぐっすり眠り、お風呂に入れてもおとなしく、殆ど手がかからない子だった…。
3歳になると、同じ年頃の子供は、近所にある幼稚園に通い始めていた。両親は最初、文人を幼稚園に通わせようと考えていた。だが、文人はその頃から、大学病院に勤めている父親の書斎に入っては、大人でさえ理解するのが難しい海外の書籍を、片っ端から『読破』したり、父親以上にパソコンを使いこなしたり、上級者向けの楽譜を見てピアノを弾いたりと、人並みはずれた才能がある事を知り、両親はそれを伸ばす事を選び、幼稚園には通わせなかった。その為、文人は生まれてから6年間、家族と一緒に外出する以外は、殆ど家から出ずに過ごした…。
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4月に入っても、道路わきにはまだ雪が残っていた。そんな中、札幌市内の殆どの小・中学校で、『入学式』があった。6歳になっていた文人も、小学校へ入学する一人だった。この日、文人の両親は、入学式に出席する為に休みを取っていたのであるが、父親の勤務する大学病院の第一外科は忙しく、この日も早朝に連絡が入り、父親は朝食を食べずに行ってしまった。
文人は、朝起きて朝食を済ませてから眼鏡をかけるなど身支度をし(パソコンで目を酷使した為、『近眼』になった)、玄関で靴を履いて待っていた。
その時、ちょうど母親の勤務先から、緊急の連絡が入ってしまった。
「文人、悪いけど、仕事が終わり次第、すぐ学校に駆けつけるからっ…! 一人でも大丈夫ねっ?」
そう言うと、文人の返事を聞くのを待たず、母親も慌てて仕事先へ行ってしまった。
通いの家政婦は、この日、両親が非番だからと、休みを取っていた。2つ上の兄は、迎えに来ていた友達と一緒に、先に行ってしまった。
〈どうしようっ…〉
文人は、今まで一人で外へ出た事がなかったので、玄関先で考えていた。だが、時間がどんどん過ぎていき、渋々、一人で外へ出て、歩き始めた。
文人は、しばらく歩いていると、新一年生と付き添いの父兄達の集団を見つけ、その後について行き、学校へ向かって歩いた。
学校に着くと、文人は玄関で上履きに履き替え、受付係らしい上級生を見つけると、事情を話した。そして、自分の名前を言うと、上級生に教室まで案内してもらった。
しばらくして、担任らしい教師が入ってきて、簡単な自己紹介や説明をした後、廊下に出て、背の順に並んだ。文人は、男子で一番前だった…。
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