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女はそのときから神を賛美し,主の御名を信じた。

2022-09-17 04:44:08 | 日記

キリストは壊れたものを癒される
エイミー・A・ライト
中央初等協会会長会
第二顧問

救い主は,神との壊れた関係や人との壊れた関係,わたしたちの壊れた箇所を癒すことがおできになるのです。
数年前,家族の集まりで,当時8歳だったおいのウィリアムがわたしの長男のブリトンを,ボール遊びに誘いました。ブリトンは乗り気になってこう答えました。「ああ!もちろんさ!」しばらく遊んでいると,ブリトンの投げたボールがあらぬ方向に飛んでいき,祖父母の年代物のつぼの一つを誤って壊してしまったのです。

ブリトンは最悪の気分でした。割れた破片を拾い始めると,ウィリアムが,このいとこのもとに歩み寄り,愛情を込めて背中を軽くたたき,こう慰めました。「心配ないよ,ブリトン。ぼく,おばあちゃんとおじいちゃんの家で物を壊しちゃったことがあるんだけど,おばあちゃんはぼくの肩を抱いて『ウィリアム,大丈夫よ。まだ5歳なんだもの』って言ってくれたよ。」

ブリトンはこう答えました。「でもね,ウィリアム,ぼくは23歳なんだ!」

年齢を問わず,救い主イエス・キリストが人生での壊れものにわたしたちが対処できるよう助けてくださる方法を,聖文から学ぶことができます。救い主は,神との壊れた関係や人との壊れた関係,わたしたちの壊れた箇所を癒すことがおできになるのです。
神との壊れた関係
救い主が神殿で教えておられたとき,律法学者やパリサイ人が一人の女性を連れて来ました。この女性が「姦淫の場でつかまえられ〔た〕」ということ以外,詳しい事情は分かっていません。聖文には,その人の人生の一部しか記されていないことが多く,時にわたしたちはそれに基づいて,人を高く評価したり非難したりする傾向にあります。人の人生は,たった1度の栄光や,たった1度の公の場での悔やまれる出来事により理解できるものではありません。これらの聖文が記された目的は,当時も今も,イエス・キリストが答えであられることをわたしたちが理解できるよう助けることです。主は,わたしたちの事情をすべて御存じで,苦しみも,能力や弱さも正確に知っておられます。

キリストはこの貴い神の娘にこう告げられました。「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように。」この言葉は,「出て行って変わるように」と言い換えることもできます。救い主はこの女性に,悔い改め,自らの行動や交わり,自分に対する気持ち,自らの心を変えるよう招いておられたのです。

キリストのおかげで,「出て行って変わる」というわたしたちの決断は,「出て行って癒される」ことを可能にします。人生で壊れてしまったすべてのものを癒す源は,主であられるからです。キリストは,偉大な仲保者,そして御父に対する弁護者として,壊れた関係,特に重要である神との関係を聖め,回復してくださいます。

ジョセフ・スミス訳は,この女性が実際に救い主の勧告に従って生活を変えたことを明らかにしています。「女はそのときから神を賛美し,主の御名を信じた。」この女性が悔い改めて変わるには,多大な決意と謙遜さ,イエス・キリストを信じる信仰が必要だったはずですが,この女性の名前やその後についてほかに詳しく分からないのは残念なことです。ただわたしたちが確かに分かるのは,この女性が「主の御名を信じ」,主の無限で永遠の犠牲が自分にさえ及ぶことを理解していたということです。
人との壊れた関係
ルカ15章には,二人の息子を持つ男性のたとえが記されています。下の息子は父親に,自分が相続する分の財産を求め,遠い所へ行き,放蕩に身を持ちくずして財産を使い果してしまいます。
「何もかも浪費してしまったのち,その地方にひどいききんがあったので,彼は食べることにも窮しはじめた。
そこで,その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが,その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。
彼は,豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが,何もくれる人はなかった。
そこで彼は本心に立ちかえって言った,『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに,わたしはここで飢えて死のうとしている。
立って,父のところへ帰って,こう言おう,父よ,わたしは天に対しても,あなたにむかっても,罪を犯しました。
もう,あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ,雇人のひとり同様にしてください。』
そこで立って,父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに,父は彼をみとめ,哀れに思って走り寄り,その首をだいて接吻した。」
わたしは,父親が息子のもとへ走り寄ったことに,大きな意味があると思います。息子が父親に与えた個人的な傷は,間違いなく深く,大きいものだったことでしょう。また,父親は息子の行動により,ばつの悪い思いをしてきたかもしれません。
では,なぜ父親は,息子が謝るのを待たなかったのでしょうか。なぜ父親は,赦しと愛を与える前に,償いと和解の申し出を求めて待つことをしなかったのでしょう。このことについて,これまでよく考えてきました。
主は,赦すことは普遍的な戒めであると教えておられます。「主なるわたしは,わたしが赦そうと思う者を赦す。しかし,あなたがたには,すべての人を赦すことが求められる。」赦しを与えるには,途方もない勇気と謙遜さが必要です。時間がかかることもあるでしょう。自分の心の状態について責任を負いながら,主に信仰と信頼を寄せる必要があります。選択の自由の重要性と力が,ここにあります。
救い主は,放蕩息子のたとえでこの父親の姿を描くことで,赦しとは,わたしたちがお互いに,とりわけ自分自身に与えることのできる最も気高い贈り物の一つであると強調されました。赦しによって心の重荷を下ろすことは必ずしも容易ではありませんが,人に能力を授けるイエス・キリストの力を通して,それが可能となります。
わたしたちの壊れた箇所
使徒行伝3章には,生まれつき足の不自由な,「宮もうでに来る人々に施しをこうため,毎日,『美しの門』と呼ばれる宮の門のところに,置かれていた」ある男性について記されています。
この足の不自由な物乞いは40歳あまりで,人の寛大さに頼ってきており,生まれてこの方,物乞いし,待つという状態が一見果てしなく続くかのように過ごしてきました。
ある日,この物乞いは,「ペテロとヨハネとが,宮にはいって行こうとしているのを見て,施しをこうた。
ペテロとヨハネとは彼をじっと見て,『わたしたちを見なさい』と言った。
彼は何かもらえるのだろうと期待して,ふたりに注目していると,
ペテロが言った,『金銀はわたしには無い。しかし,わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい』。
こう言って彼の右手を取って起してやると,足と,くるぶしとが,立ちどころに強くなって,
踊りあがって立ち,歩き出した。そして,歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら,彼らと共に宮にはいって行った。」
わたしたちはよく,宮の門にいた足の不自由な物乞いのように,忍耐強く,時にはやきもきしながら「主を待ち望〔んでいる〕」自分に気づくことがあるのではないでしょうか。身体的あるいは精神的に癒されるのを待ち望み,心の奥底を貫くような答えや,奇跡を待ち望んでいるのです。
主を待ち望むということは,神聖な時間となり得ます。救い主を個人的に深く知ることができるようになる,磨かれ,精錬される時間です。主を待ち望むということは,「おお,神よ,あなたはどこにおられるのですか」と問いかける自分に気づく時間ともなり得ます。それは,主を何度も何度も意図して選ぶことで,キリストへの信仰を働かせる霊的な忍耐力が求められる時間です。わたしもこうした時間の流れに身を置き,待ち望んだ経験があります。
わたしは,がん専門の治療施設でとても長い時を費やし,癒されるよう切望する多くの人々とともに苦しみを共にしました。生き延びた人も,亡くなった人もいました。深遠な方法によりわたしが学んだのは,試練からの解放は一人一人異なるため,どのように救い出されるかということよりは,救い出してくださる御方自身に目を向けるべきだということです。わたしたちが常に強調すべきは,イエス・キリストなのです。
キリストを信じる信仰を働かせるとは,神の御心だけでなく,神の時をも信頼するということです。わたしたちがいつ何を必要としているかを神は正確に御存じだからです。わたしたちが神の御心に従うなら,最終的に自分が望む以上のものを受けられるのです。
愛する友人の皆さん,わたしたちは皆,人生において,直され,解決され,癒される必要のある,壊れた何かを抱えています。救い主に頼り,心と思いを主に沿わせ,悔い改めるなら,主は,「御自分の翼にある癒しによって」わたしたちのもとに来られ,愛を込めてわたしたちを抱き寄せ,こう言ってくださいます。「大丈夫です。まだ5歳,あるいは16歳,23歳,48歳,64歳,91歳なのですから。一緒に解決できます!」
皆さんの人生における壊れたもので,イエス・キリストの癒し,贖い,能力を授ける力が及ばないものは何一つないと証します。癒す力を備えておられるイエス・キリストの神聖かつ聖なる御名により,アーメン。
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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2022年4月の総大会から、ご紹介しました。

赤字青字は、追加しています。

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最近、知り合いのおばあちゃんが、亡くなられました。

80歳代後半で、イエス・キリストを信じ、バプテスマをお受けになりました。

穏やかな平安な表情を、されていました。多くの困難と悪しき風習、貧しさに耐えて、耐え抜いて来た方だと、葬儀で知りました。

イエス・キリストを知ることは、人生で最大の平安と喜びを得ることです。

このおばあちゃんを通して、このことを学びました。

姉妹の皆さんがささげる一つまみの塩,スプーン一杯のパン種,一筋の光が,心を変え,人生を祝福することができます。

2022-09-14 05:25:35 | 日記
井戸端の教訓
スーザン・H・ポーター
中央初等協会会長会
第一顧問

わたしたちも今日救い主に頼り,この世で行うべきことをすべて達成できるように,強さと癒しを求めることができます。
総大会の女性部会に皆さんとともに集えることをとてもうれしく思います。

わたしはニューヨーク西部で育ち,自宅から32キロほど離れた,教会の小さな支部に通っていました。賃貸の古い教会堂の地下で,友人のパティ・ジョーとわたしだけで日曜学校のクラスに参加していたとき,世界中の何百万もの女性の組織の一員になるとは,思いもしませんでした。

5年前,夫のブルースは,ヨーロッパ東地域で献身的な聖徒たちと一緒に奉仕していたとき,深刻な病気になりました。自宅に帰還してわずか数週間後に亡くなりました。一夜にしてわたしの人生は変わり,深く悲しみ,無力感に襲われました。わたしは導きを求めて主にこう祈りました。「何をするようわたしに望んでおられるのですか。」

数週間後にメールを確認していたとき,カタログの中の小さな写真が目に留まりました。よく見ると,それは画家の作品で,井戸端のイエスとサマリヤ人の女性を描いたものでした。その瞬間,御霊からはっきりこう告げられました。「それがあなたのなすべきことです。」愛に満ちた天の御父は,わたしに救い主のもとに来て学ぶよう招いておられたのです。

主の井戸から「生ける水」を飲み続けながら,わたしが学んでいる3つの教訓を分かち合いたいと思います。
第1に,わたしたちの過去と現在の状況が将来を決めるわけではないということです。
姉妹の皆さん,多くの人はわたしと同じように,困難な試練や喪失感―自分が望み,祈り,計画したような人生を送れないために感じる喪失感にどう対処すればよいか分からずにいます。

状況がどうであれ,わたしたちの存在は神聖で,意味と目的があります。一人一人が神の愛する娘であり,神聖な属性を受け継いでいます。

わたしたちの救い主,イエス・キリストは贖いの犠牲を通して,わたしたちが清められ,癒されるように,そして家族のだれかの決断や婚姻状況,身体や精神の健康状態,またそのほかの状況にかかわらず,地上での目的を果たせるようにしてくださいました。

井戸端の女性について考えてみてください。彼女の人生はどのようなものでしたか。イエスは,彼女に5人の夫があったことと,現在一緒に生活している男と結婚していないことを御存じでした。そのような人生の苦難にもかかわらず,救い主が自らがメシヤであると最初に公に宣言した内の一人は彼女でした。「あなたと話をしているこのわたしが,それである」と言われました。

彼女は力強い証人となり,町の人々にイエスがキリストであられると宣言しました。「さて,この町からきた多くのサマリヤ人は……女の言葉によって,イエスを信じ〔ました〕。」

彼女の過去と現在の状況は,将来を決めるものではありませんでした。彼女のように,わたしたちも今日救い主に頼り,この世で行うべきことをすべて達成できるように,強さと癒しを求めることを選べます。
第2に,わたしたちの内に力があるということです
教義と聖約のなじみのある聖句で,主は女性と男性に「熱心に善いことに携わり,多くのことをその自由意志によって行い,義にかなう多くのことを成し遂げなければならない。人は自らの内に力があ〔る〕……からである」と勧めておられます。

姉妹の皆さん,多くの義を成し遂げる力がわたしたちの内にあるのです。

ラッセル・M・ネルソン大管長は次のように証しています。「神と聖約を交わしてそれを守るすべての男女と,ふさわしい状態で神権の儀式に参加する男女は皆,神の力に直接あずかることができます。」

わたしは,バプテスマや聖なる神殿で交わした神聖な聖約を尊ぶように努めるとき,主から「癒し強める主の力」と「一度も経験したことのないような霊的な洞察や目覚め」が与えられることを知りました。
第3に,「小さなことから大いなることが生じる」ということです。
山上の垂訓で,イエスは弟子たちに「あなたがたは,地の塩である」,また「世の光である」と教えられました。後に主は,天国の発展をパン種にたとえ,「女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると,全体がふくらんでくる」と言われました。
・塩
・パン種
・光
ごくわずかな量でも,それぞれが周りのすべてのものに影響を及ぼします。救い主は,わたしたちが主の力を使って塩,パン種,光となるように招いておられます。
一振りの塩が食べ物の味にもたらす変化には驚かされます。それなのに,塩は最も安価でシンプルな調味料です。

列王紀下に登場する「少女」は,スリヤ人に捕らえられ,スリヤ軍の司令官ナアマンの妻に仕えました。彼女は塩のようでした。まだ若くて世の中で重要な存在でもなく,外国で奴隷として生活することは,明らかに彼女の望みではありませんでした。

しかし,彼女は神の力をもって二つの文を語り,ナアマンの妻に証しました。「ああ,御主人がサマリヤにいる預言者と共におられたらよかったでしょうに。彼はその重い皮膚病をいやしたことでしょう。」

彼女の信仰の言葉を伝え聞いたナアマンは,その言葉に従って行動し,肉体と霊を癒されました。

わたしたちはよく,預言者エリシャの指示に従ってヨルダン川で身を洗うようにナアマンを説得した僕たちに焦点を当てますが,あの「少女」がいなければ,ナアマンはエリシャの家の戸口に立つことさえなかったでしょう。

皆さんは若く,自分が重要な存在ではないと感じるかもしれませんが,家族や学校,地域社会で塩となれるのです。
パン種
パン種抜きのパンを食べたことがありますか。どのように説明しますか。ずっしりと,重く,固いでしょうか。ほんの少しのパン種で,パンはふくらみ,大きくてさらに軽く,柔らかくなります。

わたしたちは自分の生活に神の力を招くとき,「憂いの心」を霊感された視点に置き換えて,人々を高め,心に癒しを受ける余地を生むことができます。

最近のクリスマスの朝,ある友人が悲しみに打ちひしがれてベッドに横になっていました。子供たちから起きるようにせがまれましたが,彼女は離婚を控えて,悩み苦しんでいました。ベッドで泣きながら,心を注ぎ出して天の御父に祈り,絶望した思いを告げました。

祈り終えると,神は痛みを御存じである,と御霊が彼女にささやきました。彼女は,自分に対する主の哀れみに満たされました。この神聖な経験により,彼女は自分の気持ちを受け入れ,独りで悲しんでいるのではないことに希望を得ました。彼女は起きて,外へ行き,子供たちと一緒に雪だるまを作り,朝の憂いを笑いと喜びに代えたのです。
部屋の暗闇を突き破るには,どれだけ光が必要でしょうか。一筋の光です。皆さんの内にある神の力を通して,暗闇に一筋の光を放つことができます。

荒れ狂う人生の嵐に孤独を感じることがあっても,皆さんは誤解や混乱,不信仰という闇に光を輝かすことができるのです。キリストを信じる皆さんの信仰の光は,安定して確かなものとなり,周りの人々に安全と平安をもたらすことができます。
姉妹の皆さんがささげる一つまみの塩,スプーン一杯のパン種,一筋の光が,心を変え,人生を祝福することができます。

救い主が人生の塩であられ,主の喜びと愛を味わうようにわたしたちを招いておられることを証します。主が,わたしたちの人生が困難なときのパン種であり,わたしたちに希望をもたらし,重荷を軽くしてくださいます。主の類ない力と贖いの愛を通してです。主はわたしたちの光であり,家路に就くわたしたちの道を照らしてくださいます。

わたしたちが井戸端の女のように,救い主のもとに来て,主の生ける水を飲むことができますように。わたしたちもサマリヤの人々とともに,こう宣言できるのです。「わたしたちが信じるのは……自分自身で親しく聞いて,この人こそまことに世の救主であることが,わかったからである。」イエス・キリストの御名により,アーメン。
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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2022年4月の総大会から、ご紹介しました。

誠実で義にかなった行いがどれほど力強く周囲の人々の心と家庭に影響を与えるかを忘れてはなりません。

2022-09-12 05:22:52 | 日記
波紋のように
バージ二ア・U・ジェンセン
中央扶助協会会長会第1顧問
義にかなった女牲たちの行いは、時と空間とさらには世代を超えて、波紋のように広がって行きます。
我が家の子どもたちがまだ小さかったころ、わたしたちは家族で山へ行くのが好きでした。ガラスのような水面に壮大な山々の頂を映す美しいジャクソン湖の岸辺に立ち、さざなみ一つない湖面に石を投げては水切りを競ったものでした。石が沈むと、その波紋はどこまでもどこまでも見えなくなるまで水面に広がって行きます。いちばん小さな子どもが投げる小石の作る波紋でさえ、ずっと遠くまで広がって行きます。

小石が作る波紋がジャクソン湖の水面を広がって行ったように、義にかなった女性たちの行いは、時と空間とさらには世代さえも超えて、波紋のように広がっていきます。これらの義にかなった行いは、イエス・キリストの神聖な使命を理解すること、福音の計画を知ること、永遠の戒めに従順であること、地上の神の王国において働くことから生まれます。

どのようにしてこの波紋が起き、そして広がって行くかについて、一つの例からお話ししたいと思います。それは、一人の義にかなった末日聖徒の女性が、イエスがキリストであられることと福音が回復されたことを知り、その知識に基づいて行動したことがきっかけとなりました。

ウェールズ出身の移民ダン・ジョーンズは、1841年に、ミシシッピ川の上流で渡し船の船長をしていました。乗客と荷物を運ぶために認可を受けた船の中でも最も小さな船でした。わたしにとって.単なる偶然とは思えないのは、その船の名前が「リプル号」(訳注rippleは「波紋」の意)だったことです。乗客の中に、あまり名を聞かない「新しい」教会、末日聖徒イエス・キリスト教会の会員たちが交じっていることがありました。

船を行き来させている間に、ダン・ジョーンズはこれらの「モルモン」に対して非難する声を耳にするようになりました。彼は多くのモルモンを運んでいたので、彼らと話し、また彼らの行動を観察していました。親切で、正直で、熱心に働く善良な人々であることを知っていました。ダン・ジョーンズが実際に接している人々と、非難めいた言葉や文書の間には大きな隔たりがありました。

「それらの批判を入念に調査した結果、それらが真実でないということをはっきりと理解した。なぜならそれらの批判は、事実をゆがめたものであり、幾つかの点で明らかな矛盾があったからである」と後に記しています(ロナルド・D・デニス「母国に福音を伝えたウェールズ人ダン・ジョーンズ」『聖徒の道』1987年12月号、26で引用)。

ダン・ジョーンズが用心深い観察者から積極的な求道者となったのは、一つの重人な出来事がきっかけとなりました。このように記しています。「……まったく偶然に、わたしは〔エマ・スミス〕が書いた手紙の一部を手にした。……わたしはその手紙を読んだときの気持ちを決して忘れることができない。その手紙の主ぬしは、わたしが使徒信条を告白していたとまったく同じように、新約聖書を信じていた。彼女は苦難のさなかにあっても、それがすべてイエスと福音に対する証あかしのためであると喜んでいた。そしてその手紙の中には、わたしがそれまでに読んだ何にも勝ってすばらしい勧告、知恵、福音の精神があふれていた。」(同上、26)

エマの言葉と模範に深い感銘を受けたダン・ジョーンズは、この教会について詳しく調べました。その後1843年にミシシッピ川でバプテスマを受けた彼は、後年、教会歴史の中で最も力ある宣教師の一人となりました。生まれ故郷であるウェールズで、数百人という人々に福音をもたらしたのです。エマ・スミスの影響力は、波紋となって文字どおり世代を超えて広がりました。ダン・ジョーンズが福音を伝えた人々の子孫のうち、何百人かが、あるいは何千人かが今この集会に出席しているかもしれないのです。

エマ・スミスの言葉がダン・ショーンズの心に力強い影響を及ぼしたように、わたしたちは人々の牛活に影響を与えることができます。わたしたちはそれぞれが一個人でしかありませんが、わたしは、あの小さな右が広大なジャクソン湖一面に波紋を投げかけたことを忘れることができません、聖文のこの励ましの言葉を真剣に考えてみましょう。「善を行うことに疲れ果ててはならない。あなたがたは一つの大いなる業の基を据えつつあるからである。そして、小さなことから大いなることが生じるのである。」(教義と聖糸勺64:33)

あらゆる場所の中で最も大切な場所、わたしたちの家庭で、どのようにして「小さなことから大いなることが生じる」のかを最もよく学ぶことができます。なぜなら、家庭での生活は、永遠の家族を作り出すためにつなぎ合わさなければならない小さなことの連続だからです、主との間や人と人との間で固いきずなを結ぶには、地道な努力が必要であり、また、教えたり、励ましたり、指導したりするための努力は、だれからも感謝されないことが多いものです。気持ちが乱れたり、落胆さえしがちなのは、きっとそのためでしょう。

サタンはわたしたちを混乱させ、最も人切なことから注意をそらさせようとしています。けれども、わたしたちは恵まれて、信仰と家族が何より大切であることを知っています。わたしの心の琴線に触れ、より良い生活を目指すよう影響を与えてくれた女性は皆、主と家族を第一に考えている人々でした。彼女たちの「神聖な霊」は、エマ・スミスがダン・ジョーンズにしたように、わたしの心に働きかけ、「かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう」(黙小21:6)と言われたキリストのみもとへ来るように招いてくれました。

毎日行っている普通の仕事の中に、家族の世話をする日常的な作業や定期的に行う奉仕の中に、徳と力を見いだすことができます。目立つ事柄は必ずしも優先すべき事柄ではありません。この世が与える報いは、天父が与えてくださる報いと異なります。御父は人の救いにとって女性の働きが大切であることを御存じだからです。

義にかなった影響を永遠に波及させている女性は、「尊い、選ばれた器」であるマリヤを抜きにしては考えられません(アルマ7:10)。かつて例のない、神聖な宣言を天使から聞かされたマリヤは、主の御心に自分をゆだねました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように。」(ルカ1:38)マリヤが示した信仰と従順と謙遜さは、あらゆる女性にとっての模範となっています。

マリヤの召しは特別なものでしたが、すべての女性が「同様に彼女のような美しさを持つことができます。そのような女性は神を喜ばせたいと望んでいます。

……謙遜であり、純潔と徳に彩られた人生を歩む女性です。……信じる心を持ち、主を賛美する女性です。……彼女たちは救い主に喜びを覚え、……主の賜物たまものと憐れみを知っている女性です。」(S・マイケル・ウィルコックス、Daughters of God: Scriptural Portraits〔1998年〕179)

これらの描写は、末日聖徒イエス・キリスト教会の忠実な扶助協会の姉妹である皆さんにぴったりの言葉です。皆さんは、イザヤが力強く述べている渇きを癒いやす知識が日常生活ににじみ出ている女性です。

「『……神はわたしの救いである。……主なるエホバはわたしの力であり、わたしの歌である。……』

それゆえ、〔わたしは〕喜んで、救いの井戸から水をくむ。」(2ニーファイ22:2-3)

すべての人を贖あがなうことを目指すキリストの大義は、家庭や地域社会で力と時間と才能を発揮しているあなたを必要としています。あなたの信仰篤あつい行いと言葉は、地上に神の王国を建設するために大いに必要とされているのです。ブルース・R・マッコンキー長老はわたしたちがどれほど大切な役割を担っているかを説明しています。「わたしたちは次のことを知っています。すなわち、キリストは御父のもとで創造主であり、キリストの同僚であるミカエルとともに創造の業の多くを管理しました。アブラハムが見たように、彼らとともに、高潔で偉大な者たちが多くいました。彼らのうちに、マリヤ、エバ、サラ、そして無数の忠実な姉妹たちも数えられていたということに反論できるでしょうか。確かにこれらの姉妹は兄弟たちと同じように、そこで勤勉に働き、天上の戦いにおいて雄々しく戦いました。今日地上で行っていると同じように、真理と正義を守ったのです。」(Women〔1979年〕、59)

わたしたちより先に地上に来た「高潔で偉大な」人々がそうであったように、わたしたちはありきたりの女性であってはなりません。世の女性と何ら変わらない女性であることはできません。弁解することなく堂々と正義を主張しなければなりません。わたしたちはマリヤやエバ、サラ、エマのように特異な存在です。

わたしたちは波紋を作り、水を分け与えなければなりません。永遠の受け継ぎを持つわたしたちは、誠実で義にかなった行いがどれほど力強く周囲の人々の心と家庭に影響を与えるかを忘れてはなりません。わたしたちには多くの善を行うすばらしい機会があります。そして何より大切なことは「救いの井戸から水をくむ」場所と方法を知っていることです。

わたしの友人であるタミーが教会に行かなくなったのは、彼女がまだ15歳のときでした。タミーの家の近所に、やはり10代半ばで教会に行かないと決意した青年が住んでいました。二人とも教会からますます遠ざかるような生活をしていました。やがて二人は結婚して、家族を築き始めました。

タミーは夫と二人の娘を心から愛していました。けれども心の奥底で、子どものころに知っていた生活に戻りたいという願いがわき上がってきました。彼女は天父の御霊みたまやその影響力をかすかに覚えていました。天父を身近に感じられる生活に戻りたいと思っていました。夫がこの気持ちを好意的に取ってくれないのではないかと考えると、思い切って言うことができません。タミーは自分の気持ちを隠していました。教会に戻りたいのですが、どうすればよいのか分かりませんでした。「救いの井戸から水をく」んでタミーに分かち合った二人のすばらしい訪問教師が与えた波紋の効果について、タミー自身の言葉を聞いてみましょう。

{タミー・クレートンのビデオ}

わたしを愛し、決して裁かなかった訪問教師に今でも感謝しています。二人はわたしがほんとうに大切な存在であることを感じさせてくれました。また、教会に行けば歓迎されることを確信させてくれました。

二人が我が家を訪周してくださる度に、いろいろうなことを話し合いました。しばらくして、彼女たちは、レッスンを受ける気持ちがあるかどうかを尋ねました。そして、毎月メッセージを残して行きました。

毎月訪ねて来る度に、わたしは自分がほんとうに価値ある人間であり、二人がわたしのことを心からの配しており、わたしを愛し、認めてくれているのを感じました。

わたしたちを毎月訪周してくださるこの二人によって、今こそ教会へ戻るべきだと決意しました。どのようにして教会に戻ったらよいかが分からなかったわたしに、二人は訪問して、手を差し伸べることによって、その方法を与えてくれました。

主はわたしたぢを愛しておられます。たとえわたしたちがどのような者であってもです。わたしたちはそのことをはっきり理解する必要があります。わたしの訪問教師はそれがほんとうのことであると教えてくれました。

今では夫とわたしは神殿で結び固めを受けています。

忠実な訪問教師の姉妹たち、ほんとうにありがとうございます。そうです。姉妹の皆さん、義にかなった女性たちの行いは、時と空聞とさらには世代をも超えて、波紋のように広がって行きます。神殿で家族が永遠の結び固めを受けること以上に、無限の広がりを持つ波紋はありません。わたしたちの先を歩んだ忠実な姉妹たちのようになろうではありませんか。「救いの井戸から」水をたっぷり飲もうではありませんか。

神は生きておられます。神の御子イエス・キリストは、わたしたちが神のみもとへ帰って、神とともに住むための方法を用意してくださいました。真の福音が再び地上に回復されました。わたしたちには現在、生ける預言者ゴードン・B・ヒンクレー大管長がいます。天父は大管長を通して民を導いておられます。わたしたちの義にかなった行いが波紋のように広がることにより、すべての人がこれらの真理を知るお手伝いができますように、イエス・キリストの御名によってお話しします。アーメン。
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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2000年10月の総大会から、ご紹介しました。



人生には面白いこともあれば胸が痛むような経験もあり,暗いことも輝かしいこともあります。

2022-09-10 05:10:28 | 日記
神との聖約は永遠の栄光への力,守り,備えとなる
ジーン・ B・ビンガム
中央扶助協会会長
聖約を交わしてそれを守ることを選ぶならば,さらなる幸せをこの世で味わい,後の世では輝かしい永遠の命を得ます。

姉妹の皆さん,全世界の姉妹が一堂に会せるとは,何という喜びでしょうか。神と聖約を交わして守っている女性であるわたしたちは,霊的なきずなで結ばれています。そのきずなのおかげで,わたしたちは現代の問題に立ち向かい,イエス・キリストの再臨に備えることができます。そして,それらの聖約を守ると,ほかの人々を救い主のもとに導く影響力のある女性になれるのです。

バプテスマを受けた人は,その忘れることのできない日に,イエス・キリストの御名を受け,イエスを常に覚え,その戒めを守って最後までイエスに仕えると聖約しました。これらのことを行えば,罪が赦され,聖霊を伴侶とすることができるようになると,天の御父は約束しておられます。この祝福を受けて,わたしたちは道を歩み始めます。その道を歩み,最後まで耐え忍ぶならば,天の御父と御子とともに日の栄えの王国に住むことができるようになります。バプテスマを受けたすべての人は,その特別な日に交わした聖約を守るならば,これらの特権を受けられると約束されています。

神殿でさらなる聖約を交わすと,個人の忠実さに応じてすばらしい約束を受けます。わたしたちは,神の戒めを守り,イエス・キリストの福音を実践し,道徳的に清くあり,自分の時間と才能を主にささげることを,厳粛に約束します。その報いとして,この世での祝福と,神のみもとに戻る機会を神は約束してくださいます。その過程でわたしたちは,紛らわしくて否定的な意見があらゆるところから聞こえてくる中にあっても,真理と誤り,正しいことと間違っていることとを見分ける力を授かります。何と力強い贈り物でしょうか。

初めての神殿への備えをしていたとき,母と,経験を積んだ扶助協会の姉妹たちの助けを受けながら,儀式用の美しい衣装も含めて必要なものを選びました。しかし,いちばん大切な準備をしたのは,どんな衣装を着るのかすら知らなかったころのことです。ふさわしさを確認する面接が済むと,ビショップはわたしが交わすことになる聖約について説明してくれました。丁寧な説明のおかげで,それらの聖約を交わすことについて考え,準備する機会を得ることができました。

その日が来ると,わたしは感謝と平安な気持ちで参入することができました。わたしは交わした聖約の重要性をすべて理解できたわけでもなく,約束された祝福についてもほとんど分かりませんでしたが,その聖約によって自分が神に結ばれて,それを守ることでその祝福が自分に約束されたことは分かりました。その初めての経験以来,神と交わす聖約を守ると救い主の力に頼ることができ,それは避けることのできない試練のときに力となり,サタンの影響から守り,永遠の栄光に備えることができると,常に確信しています。
人生には面白いこともあれば胸が痛むような経験もあり,暗いことも輝かしいこともあります。どの経験も,御父の包み込むような愛を知り,救い主の恵みの賜物によって自分が変わることができることを理解するための糧になります。交わした聖約を守ることで,それが小さな判断の間違いであれ,大きな失敗であれ,わたしたちは経験から学びながら救い主の清めの力を受けることができます。贖い主は,もしわたしたちが頼るならば,失敗してもそこにおられ,受け止めてくださいます。


皆さんは,断崖絶壁を背にして,高い崖の淵につま先で立ったことがありますか。ラペリング〔訳注:ロープを使った懸垂下降のこと〕では,強靭なロープのついた装備を着けているので何事もなく下りられるにもかかわらず,崖っぷちに立つと心臓がドキドキします。崖を蹴って後ろ向きに降下し,何もない空中に繰り出すには,支点が不動のものにしっかりと固定されているという信頼がなければなりません。また,下降する人のロープを少しずつ送り出していく人を信頼する必要もあります。下降はある程度装備でコントロールできますが,自分が落下しないように守ってくれるという信頼を,このパートナーに対して持たなければなりません。


わたしは,若い女性のグループと一緒にラペリングをしたときのことを鮮明に覚えています。順番はわたしが最初でした。後ろ向きに崖を蹴って下降すると,制御無しに落下し始めたのです。ありがたいことに,ロープがストッパーになってくれたので落下は止まりました。ゴツゴツした岩肌を半分ほど下ったところで宙づりになりながら,わたしが岩まで落ちないようにしてくれている人か何かのために熱烈に祈りました。

後で分かったことですが,アンカーボルトがしっかりと固定されておらず,わたしが崖を蹴ったときわたしに装備したロープを持っていた人は突然引っ張られて仰向けに倒れ,崖の淵の方に引きずられたそうです。その人はどうにか足を岩に固定して踏ん張りました。彼はそのまま自分の体を固定してロープを操作し,大変な労力でわたしをゆっくりと下ろしてくれました。彼の様子はわたしからは見えなかったのですが,わたしを助けるために全力で働いてくれていることが分かりました。もう一人の友達が崖の下にいて,ロープが切れた場合にわたしを受け止める準備をしていました。そして,わたしが手の届く所まで来ると,ハーネスをつかんで地面まで下ろしてくれたのです。

イエス・キリストを自分の錨とし,完全なパートナーにしていれば,試練にあって必ずイエスの愛から力を受け,最終的には救っていただけます。M・ラッセル・バラード会長が教えているように,「神と御子,主イエス・キリストに対する信仰こそ,……錨です。社会的な混乱や邪悪が蔓延していると思われる今日の世界で,この錨はわたしたちをしっかりとつなぎ止めてくれるのです。わたしたちの信仰は,イエス・キリストとその生涯,贖い,そして……主の福音の回復に基を置〔かなければなりません〕。」

逆境の岩に打ち砕かれないようにする霊的な装備とは,イエス・キリストについての証と,わたしたちが交わす聖約です。この支えに頼り,これを指針にして安全に進むことができます。協力的なパートナーである救い主は,わたしたちが御手の届かない所まで落ちることを許されません。わたしたちが苦しいときや悲しいときでさえ,そばにいて元気づけ,励ましてくださいます。主の力は,ほかの人の選択の結果による,しばしば深く傷つく衝撃から立ち直る助けとなります。しかし,わたしたちは皆,ハーネスを着けてロープがしっかりと結ばれているか確認しなければなりません。救い主に錨を下ろすことを選ばなければならず,聖約を交わして救い主と結びついていなければならないのです。

その錨を強めるには,どうすればよいでしょうか。謙遜な心で祈り,聖文を研究し深く考え,悔い改めて敬虔な気持ちで聖餐を受け,戒めを守るよう努め,預言者の勧告に従います。そして,わたしたちが「より高く,より聖い」方法で日々の仕事を果たすならば,救い主とさらにつながれると同時に,救い主のもとへ来るよう人を助けるようになります。

その「より高く,より聖い」方法とはどんな方法なのでしょうか。あらゆる交流の中で福音を実践する努力をします。心を込めてミニスタリングを行い,ささやかな奉仕で愛を示すことによって,困っている人に思いやりを示します。平安と力を必要としていながらも「見いだす場所を知らない」人たちに福音の良きおとずれを知らせます。幕の両側で家族を結ぶために働きます。そして,主の宮で聖約を交わした人に対しては,ラッセル・М・ネルソン大管長が説明したように,「成人の神殿参入者は各々,……聖なる神権のガーメントを着用するものとされています。これは,……より高くより神聖な方法で毎日聖約の道を歩むこと〔を〕思い起こさせます。」以上の行いはたまに気まぐれでやることではなく,日々の幸せと,永遠の喜びになくてはならないものです。

永遠に進歩するためには,神と交わした聖約を守ることほど大切なことはありません。神殿で交わした聖約が有効であれば,幕のかなたにいる愛する人たちと喜びの再会を果たすことができると信じてよいのです。現世を去った子供や親や伴侶は,皆さんが交わした聖約を守ることを心の底から望んでいます。それは皆さんと彼らを結ぶからです。神と交わした聖約をないがしろにしたり,軽視したりすると,この永遠のきずなが危うくなります。今こそ悔い改めて修復し,やり直す時です。

永遠の喜びという祝福と引き換えにその場限りの安楽を得たとしても,その幸せは空虚です。年齢に関係なく,絶対的な真理はこれです。「永遠に続く幸せを得る鍵は,イエス・キリストの福音を実践し,交わした聖約を守ることです。」わたしたちの預言者であるネルソン大管長はこう断言しています。「究極的な安全と唯一の永遠に続く幸せは,聖約と儀式により完成される回復されたイエス・キリストの福音という鉄の棒にしっかりとつかまることにあるのです。これを行うならば,神の力を受けるので,荒波を無事乗り越えることができます。」

多くの人が荒波を経験しています。逆境の波にもてあそばれ,時にはその困難の中で滝のような涙を流して先が見えなくなり,人生の船をどの方向に進めたらよいか分からないことがあるかもしれません。岸にたどり着く力がないと思うかもしれません。自分が何者であるか,つまり自分は愛されている神の子であること,自分がなぜこの世にいるのか,そして神と愛する人たちと一緒に生きるという目標を覚えているならば,視界が開けて,正しい目標に照準を定めることができるようになります。嵐の真っただ中にいても,明るい光があって,道を照らしてくれます。「わたし​は​暗闇​の​中​に​輝いて​いる​光​で​ある」と主は宣言されました。主の光に目を向け,聖約の高潔さを維持するならば安全が保証されています。

非常に様々な環境の中で交わした聖約を守る,あらゆる年齢の女性たちにお会いできるのは特権です。日々,人気のメディアではなく,主と主の預言者に指針を求めています。個人的な問題があっても,聖約を守らないように仕向けようとする世の中の有害な考え方にさらされても,聖約の道を断固として歩んでいます。「父が持っておられるすべて」が約束されていると信じているのです。そして,年齢に関係なく,神と聖約を交わした女性はだれでも,主の光を掲げてほかの人々を導く能力があります。皆さんが交わした聖約を守ることで,神は皆さんを神権の力で祝福し,交流するすべての人に深い影響を与えることができるようにしてくださいます。ネルソン大管長が宣言したとおり,皆さんは,かつての預言を成就する女性たちです。

愛する姉妹の皆さん,ほかの何をさておいても,イエス・キリストに至る聖約の道を歩み続けてください。わたしたちは祝福されて,世界中に神殿のある地上に生まれてきました。すべてのふさわしい教会員は神殿の聖約を交わして,それを守ることができます。ヤングアダルトの皆さん,結婚や伝道までこの神聖な聖約を交わすのを待つ必要はありません。若い女性のころから準備して,神殿の聖約が与えてくれる守りと力を18歳になったらすぐに受けられるようにしましょう。そのときまでには備えができていて,神殿の聖約を尊びたいと感じるようになっているようにするのです。すでに神殿の祝福を受けている人は,中傷されたり,気をそらされそうになったりしても,この永遠の真理から離れないでください。自分の交わした聖約の神聖な意味がさらによく理解できるように,信頼できる情報源から学び,尋ねてください。可能な限りよく神殿に足を運んで,御霊の声に耳を傾けてください。主の道を歩んでいるという心地よい安心感を覚え,ほかの人にも同じ道を歩んでもらえるようこれからも努めようという勇気が湧いてくるようになります。

天の御父と聖約を交わしてそれを守る力を救い主から頂くことを選ぶならば,今は想像もできないようなさらなる幸せをこの世で味わい,後の世では輝かしい永遠の命を得ることを証します。イエス・キリストの御名により,アーメン。

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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2022年4月の総大会から、ご紹介しました。
赤字は、追加しています。

お読みいただいて、ありがとうございます。
良い1日をお祈りします。

男女が力を合わせるとき,別々に取り組むよりもはるかに多くを成し遂げられる

2022-09-09 05:27:02 | 日記
一致して神の業を成し遂げる
ジーン・ B・ビンガム
中央扶助協会会長

神聖な可能性を全うする最も効果的な方法は,神権の力と権能による祝福を受け,力を合わせて働くことです。

すばらしい兄弟姉妹の皆さん,皆さんとともに集えることは大きな喜びです。どこで大会を聴いているかにかかわらず,姉妹たちにわたしからのハグと,兄弟たちにわたしからの握手を贈りたいと思います。わたしたちは主の業において一つです。

アダムとエバについて考えるとき,しばしば最初に思い浮かぶのはエデンの園での理想的な暮らしです。想像するに,天候は常に完璧で暑すぎず寒すぎず,近くにおいしい果物と野菜が豊富にあり,いつでも好きなときに取って食べることができたのではないかと思います。彼らにとっては新しい世界だったので発見もたくさんあり,動物と交わったり,美しい環境を探検したりと,毎日が興味深いものでした。また,従うべき戒めが与えられていましたが,その指示に対する取り組み方がそれぞれで異なったため,最初は多少の不安と混乱が生じました。

しかし,二人は人生を永遠に変える決断を下すに当たり,協力して取り組むことを学び,彼ら自身とすべての神の子供たちのために神が定められた目的を成就させるために一致しました。

さて,現世にいるこの夫婦を想像してみてください。食物を得るために働かなければならず,逆に彼らを食物とみなす動物もいる中で,ともに話し合い,祈ることでしか克服し得ない困難もありました。困難に対する取り組み方に関して意見が異なることがあったことと思います。

しかし彼らは,堕落を通して,一致と愛をもって行動することが不可欠であると学んだのです。神聖な源から受けた個人的な指導の中で,二人は救いの計画と,それを可能にするイエス・キリストの福音の原則を教えられました。自分たちの地上での目的と永遠における目標が一致していることを理解していたので,愛と義をもってともに働くことに満足と成功を見いだしました。


子供たちが生まれると,アダムとエバは天の使いから学んだことを家族に教えました。彼らが焦点を当てたのは,子供たちも原則を理解して受け入れるよう助けることでした。それらの原則とは,この世で幸福を得るとともに,能力を増して神への従順を示し,天の両親のもとへ戻る備えをするためのものでした。アダムとエバはその過程で,それぞれの持つ異なる強みに感謝し,永遠にわたる意義深い業において互いに助け合うようになりました。

何百年,何千年と時が過ぎ去る中で,霊感あふれ,助け合いをもたらしていた男女それぞれの貢献の明瞭さは,誤った情報と理解によって曖昧になりました。エデンの園におけるすばらしい始まりから現在までの間に,敵対する者はわたしたちの魂を勝ち取るため,男女を対立させるという目標において大きな成功を収めてきています。ルシフェルは,男女の一致を損なわせ,わたしたちの神聖な価値と聖約の義務について混乱させることができれば,永遠の中で不可欠な単位である家族の破壊に成功すると知っているのです。

サタンは,男女が生まれながらに持つ違いが神から与えられたもので,等しく価値があるという永遠の真理を隠し,比較によって優劣の感情を作り出すようあおり立てます。家族と社会への女性の貢献の価値をおとしめ,周囲を高める女性の影響力を永久に衰えさせようとしているのです。男女に互いを補完させ,一致をもたらす独自の貢献をたたえ合うことよりも,勢力争いを助長させることがサタンの目標です。

年月を経て世界では,神が定められた相互依存,そして男女の異なる貢献と責任への完全な理解はほとんど消えてしまいました。多くの社会において女性は,男性と同等のパートナーではなく従属的になり,活動は狭い範囲に限られるようになりました。暗黒の時代に霊的な成長は遅くなりました。実に,優越性という伝統に浸り切った思いと心には,霊的な光はほとんど差し込むことができなかったのです。

そして,1820年の春に父なる神とその御子イエス・キリストが,ニューヨーク州北部の神聖な森で若きジョセフ・スミスに現れられたとき,福音の回復という光が「太陽の輝きにも勝って」輝いたのです。この出来事は,現代に天から注がれる啓示の始まりとなりました。キリストの初期の教会の要素で回復されたものの一つは,神の神権の権能でした。回復が広がり続けるにつれ,男女はこの神聖な業において神から承認され指示されたパートナーとして協力することの重要性と可能性を改めて認識し始めました。


1842年,設立後間もない教会の女性たちが業を助けるために正式な団体を作りたいと望んだとき,預言者ジョセフ・スミスは,「神権の権能の下に,神権の規範に倣って」組織するよう霊感を受けました。

彼はこう述べています。「わたしは今,神の名によって皆さんのために鍵を回します。……明るい未来が今始まったのです。」
その鍵が回されて以来,世界中で,教育的,政治的,経済的な機会が徐々に女性に広がっていきました。

扶助協会と名付けられたこの女性のための新しい教会の組織は,当時存在したどのような女性の組織とも異なっていました。女性に権限と神聖な責任,そして正式な地位を与える神権の権能を通して,教会の構造の外ではなく構造内で,預言者により組織されたからです。

ジョセフ・スミスの時代から今日までなお続いている万物の回復は,男女両方が神から任された責任を果たすのを助けるうえで,神権の権能と力が必要であるという悟りをもたらしました。最近わたしたちは,神権の鍵を持つ者の指示の下に任命された女性は,神権の権能によって召しを行うということを学びました。

2019年10月,ラッセル・M・ネルソン大管長は,神殿でエンダウメントを受けた女性は,神と交わした聖約を神聖に守っているならば,自分の人生や家庭において神権の力が与えられていると教えました。

このように説明しています。「交わした神権の聖約から流れ込む神の力によってエンダウメントを受けている女性には,神権を持つ男性と同じように,天が開かれています。」そしてすべての姉妹にこう勧めました。「愛する家族やほかの人々を助ける際に,救い主の力に思う存分頼る権利が皆さんにはあります。」

これは皆さんやわたしにとって,何を意味するのでしょうか。神権の権能と力を理解することは,わたしたちの生活をどのように変えるでしょうか。ここで鍵となる事柄の一つは,男女が力を合わせるとき,別々に取り組むよりもはるかに多くを成し遂げられると理解することです。

わたしたちが果たす役割は,競争し合うものではなく補完し合うものなのです。女性は神権の職に聖任されることはありませんが,前に述べたように,聖約を守るならば神権の力によって祝福され,召しを受けて任命されたときには神権の権能によってそれを行うのです。

天気の良い8月のある日,ペンシルベニア州ハーモニーにある再建されたジョセフとエマ・スミス夫妻の家で,ラッセル・M・ネルソン大管長と話をする機会がありました。そこは,末日にアロン神権が回復された場所の近くです。会話の中でネルソン大管長は,回復において女性が果たした重要な役割について話しました。


ネルソン大管長:「わたしが神権の回復された場所に来て再認識する最も重要な側面の一つは,回復において女性が果たした重要な役割です。

ジョセフが最初にモルモン書の翻訳を始めたとき,書き留めたのはだれだったでしょうか。ジョセフも書きましたが,少しだけでした。エマが書き留めたのです。

それからわたしは,ジョセフがニューヨーク州パルマイラにある家の近くの森に祈りに行ったことについて考えます。ジョセフはどこへ行きましたか。聖なる森です。なぜそこへ行ったのでしょうか。そこは彼の母親が祈りたいときに向かう場所だったからです。

彼女たちは,神権の回復と教会の回復において重要な役割を果たした女性たちのうちの二人に過ぎません。彼女たちが当時重要だったのと同じくらい,わたしたちの妻も重要だと言えるのは疑う余地もありません。当然ながらわたしたちの妻も重要なのです。」

エマやルーシー,ジョセフのように,喜んで互いから学ぼうとし,イエス・キリストの弟子になるという目的の下に一致し,助け合ってその道を歩むのが最も効果的です。

わたしたちは次のように教えられています。「神権の権能は数え切れない方法で神の子供たちに恩恵をもたらします。……教会の召し,神殿の儀式,家族関係,そして,目立たない個々の働きにおいて,末日聖徒の女性と男性は神権の力と権能を身にまとって前進するのです。神の力を通じて神の業を達成するうえで男女が互いを必要とすることは,預言者ジョセフ・スミスを通して回復されたイエス・キリストの福音の中心となるものです。」

一致は,わたしたちが特権にあずかり召されて携わる神の業には不可欠ですが,何もせずに起きるものではありません。よく話し合い,互いに耳を傾け,相手の視点を理解し,経験を分かち合うことには努力と時間が必要ですが,その過程が,さらに霊感を受けた決定へとつながるのです。家庭でも教会の責任においても,神聖な可能性を全うする最も効果的な方法は,異なっていながらも補完し合う役割を果たすために神権の力と権能による祝福を受け,力を合わせて働くことです。

今日,聖約の女性の生活においてパートナーシップとはどのようなものでしょうか。一つの例を挙げましょう。


アリソンとジョンのパートナーシップは独特なものでした。彼らは二人乗り自転車で,長距離および短距離競技に参加しました。その競技で成功するには,二人の選手が調和している必要があります。二人は正しいタイミングで同じ方向に体を傾けなければなりません。片方が優位に立つことは不可能であり,しっかりとコミュニケーションを取りそれぞれの役割を果たす必要があるのです。前方にいるパイロットと呼ばれる人は,ブレーキを掛けたり立ち上がったりするタイミングをコントロールします。後方にいるストーカーと呼ばれる人は,そのときの状況に注意を払い,ほかの自転車との距離が開けば力を込めてペダルを漕ぎ,近づき過ぎれば力を緩めます。前進し,ゴールに到達するために互いをサポートしなければならないのです。

アリソンはこう説明しています。「最初,パイロットの人が,立つ必要があるときは『立つよ』と言い,漕ぐのをやめる必要があるときは『ブレーキ』と言います。少したつとストーカーは,パイロットが立ったり座ったりするタイミングが分かるようになり,掛け声は必要なくなります。わたしたちは互いの行動に波長を合わせ,相手が苦労しているときには気が付いてその不振を補えるようになりました。それはすべて,信頼し,協力して行うということにほかなりません。」

二人は自転車を漕ぐときだけでなく,結婚生活においても一致していました。互いに,自分の幸せよりも相手の幸せを望みました。相手の良い面を見つけ,自分のあまり良くない部分を克服するよう努力しました。交互に導き,相手が苦しんでいるときはより多くを与える側に回りました。相手の貢献を尊重し,各自の能力や持っているものを合わせることで,試練に対するより良い解決策を見つけました。キリストのような愛によって,互いに真に結びついたのです。

「自分優先」というメッセージに囲まれている今日,一致して働くという神から与えられた規範とより調和することは非常に重要です。女性には神から独特な賜物が与えられており,
特有の責任がありますが,それらが男性に与えられた賜物や責任と比べ,より重要だったりあまり重要でないということはありません。すべては,天の御父の神聖な計画をもたらすために用意され,必要とされています。この計画は,神がその子供たちに,神聖な可能性を全うする最高の機会を与えるために立てられたものです。

今日,「母なるエバの勇気とビジョンを持った女性が必要」です。

それは,兄弟たちと一致して人々をキリストのもとに連れて来るためなのです。

男性は,自分だけに責任があると思ったり,やるべきことの多くを女性が行う中でパートナー「のように」振る舞ったりするのではなく,真のパートナーとなる必要があります。女性は,自分だけで行う必要があると思ったり,指示を待ったりするのではなく,
パートナーとして「前に踏み出し〔,〕……本来果たすべき役割を果た」す必要があります。

女性を極めて重要な参加者と考えることは,「同格」を作り出すということではなく,教義的な真理を理解するということです。その実現に向けたプログラムを確立するよりも,救いと昇栄の業に不可欠なパートナーとして,神がなさるように,積極的に女性を尊重するよう取り組むことができます。

準備はできていますか。文化的な偏見を克服し,代わりに神の規範と基本的な教義に基づいた実践を受け入れるよう努力しますか。ネルソン大管長は,「ともに手を携え……主の再臨に世を備える助けをする」よう招いています。そうするときに,各個人の貢献を尊重し,神から与えられた役割をより効果的に果たせるようになります。今までに経験したことがないほどの大きな喜びを感じることでしょう。

わたしたち一人一人が,主の業を前進させるために,主の霊感あふれる方法で一致することを選べるよう願っています。わたしたちの愛する救い主イエス・キリストの御名により,アーメン。

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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2020年4月の総大会から、ご紹介しました。
(再掲になります。)
赤字は、追加しています。