イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

文庫を作ったすごい人

2013年04月15日 21時33分52秒 | イタリア・文化

今日はなんと26度でしたよ~
体がついて行かないって・・・寒いよりはいいのかなぁ。あ~あ

さて、今日は自分が忘れないようにここに書き付けておくことにしたネタ。
というのも昨日コインランドリーで洗濯が出来るのを待つ間(うち、洗濯機がないんです。嫌がる人もいるけど、もう慣れちゃったし、それが欠点でも今の家からは出たくないので・・・)塩野七生さんの古い本ですが「イタリア異聞」を読んでいた。
すると非常に気になるお話が・・・

第13話の「ある出版人の話」というところです。
この話を読みながら、この名前すごく気になる・・・って思っていたんです。
その人はAldo Manuzio(アルド マヌッツィオ)
この人が世に”文庫”を送り出した人なんです・・・ってあれ?

なんでこの名前が気になったのかというと、2月Padovaで開催中のPietro Bembo(ピエトル ベンボ)展に行ったとき、聞いていた名前だったからなんです。
あ~こういう時に限ってカタログ買ってないじゃん。ホント使えない、私。
その時の何か書いたかなぁ・・・と思いきやなんと、食べたことしか書いてない!!
2月28日の記事参照)
重ね重ね役立たずな自分・・・

FBには一応展覧会の写真も載せておいたんだけどねぇ・・・
ということで今更ながら写真も載せます。
 
そうそうこの日も雨が降っていた。

こちらは↓親交が深かったTizianoが描いた枢機卿Pietro Bemboの肖像画
枢機卿にまでなっていたとは、この展覧会を見るまで知らなかった・・・

Pietro Bemboは、以前イタリア文学の授業で少し触れたので、かろうじて何者か知っていたんです。
えへへ、なんとか記憶力残っていたみたい。
私の記憶では「1500年初頭、現代イタリア語の基礎を築いた人。」という位置づけでした。
そう確か「ダンテ、ペトラルカ・ボッカチョの使っていた言葉(所謂トスカーナ語)を標準イタリア語に決めた人」だったはず・・・
日本ではなじみの薄いこともあり、頼みの綱のWikipedia日本語版には情報がない!
仕方がない、イタリア語か

ピエトロ・ベンボはルネサンスを代表する人文学者。
ヴェネツィア生まれだか、幼い頃、フィレンツェに滞在していたことがあり、トスカーナ語に精通していた。
この時代現在のイタリアは存在せず、各国が群雄割拠。
当然言葉もばっらばら。
今のように”イタリア語”として統一されたのは、テレビが普及したおかげなんですよ・・・って未だに地方に行くと「それイタリア語じゃないでしょう?」というくらい訛った方言を話す人たちはいっぱい居ます。
まぁ日本も似たようなところは有りますけどね。
1492年から2年間、シチリアのメッシーナでギリシャ語を学ぶ。
当時の南は今とは違ってギリシャ、アラブ地域などとの交易により文化の最先端を行っていましたからねぇ。
その後ヴェネツィアに戻り、出版業者アルド・マヌンツィオと共にギリシャ語の文法書を出版、1496年には彼のメッシーナ滞在をラテン語の対話形式で綴った”De Aetna”を出版する。

ってここよここ。
このあたりのことが塩野氏の本に詳しく書かれていた。
なぜかこちらのアルドの方が有名なのね、Wikipediaの日本語版がありました。

当時”本”は貴重であった上、とにかく大きく持ち運びが不便だった。
これは調度当時描かれたジョルジョーネ作”緑の本を持つ青年”("Giovane con il libro verde",サンフランシスコ)
まさにページをめくるために書見台が必要だった、大型書物をそれをここまで小さくできたのはアルドの発明のおかげ。
ちなみに本の文字も小さなページには不向きだったゴテゴテ装飾のゴシック体ではなく、すっきりとしたイタリック体を使いだしたのも彼。
文庫の為に発明された文字だったわけです。
まさに”文庫本の生みの親”だわ。
”ベストセラー”が出たのもここからなんだって。
今までは一部の金持ち知識層しか本を読むことが出来なかったのに、学生でも本を手にすることができるようになったというわけです。
ありがたや、ありがたや。

それにしてもこの国は本が高い。(これは現代の話ね)
大体紙の質だって、日本に比べたら悪いし重い。
本好きとしては許せないねぇ・・・ってそれでも買うんですけどね。
あっ、ちなみにちょっと脱線ですが、紙つながりで岐阜県の美濃市とイタリアのAmalfi(アマルフィ)市が友好歳関係を結ぶことになったんですね。(マイナー過ぎる)
で、この話を聞いて美濃市は分かります。美濃和紙、くらいは私でも聞いたことあります。
でもなぜアマルフィ???
と思って調べた(いや、調べさせられたんですけどね)んですよ。
そうしたら、アマルフィはヨーロッパの紙発祥の地の一つなんですって。

イタリアで紙と言えば第1に思い出すのはもちろんMarche(マルケ)州のFabriano(ファブリアーノ)
そしてマイナー所ではUmbria(ウンブリア)州のBevagna(ベヴァーニャ)などが有名(話をしていた日本人友人には「知らん」と言われましたが)
海洋都市アマルフィ=紙という発想が全く浮かばなかったんですけどねぇ・・・

で、脱線しっぱなしですが調べていくと納得。
紙って中国が発祥なんですよ。(何でも中国って感が有りますが、これは正しいんでしょうね)
日本には韓国経由で渡来しています。
歴史は古く、美濃和紙は700年代に既に作られていたことが記録として残っているそうです。

方やイタリアの方は少々遅れております。アマルフィで紙作りが始まったのは12世紀頃。
日本は鎌倉時代かな。
羊皮紙に替わる安価な(あくまでも羊皮紙と比べてという意味で、紙も大変貴重でした)記録媒体としてあっという間に広がるわけです。
なぜアマルフィかという謎は想像に難くない。
当時アマルフィは1,2を争う海洋都市として発達、国際貿易が盛んだったからです。
2都市の紙の製法の違いは
アマルフィ市の紙漉きは、原料となる細かく砕いた綿を混ぜた水に手漉き用の道具をつけて持ち上げる「溜(た)め漉き」と呼ばれる技法が特徴。確かFabrianoもBevagnaもこの方法だったと思います。
一方、美濃市では、アマルフィ市と異なり、クワ科の落葉低木のコウゾの皮が原料で、道具を縦横に動かして絡ませる「流し漉き」の技法で作られているそうです。
詳しく知りたい方は中日新聞の記事をどうぞ。(なぜか私は全文が一瞬しか開けなかった・・・)
まぁアマルフィを訪れてもあまり紙の博物館に行く人はいないかも、と思われますが、興味をもった人の為に
Museo della carta
友好都市提携は5月、それ以降はいろいろとイベントなども企画されているようです。(そこまでは載せる義理はありませんので、あしからず)

確か、紙を作るのって、きれいな流水が必要じゃなかったでしたっけ?
アマルフィは海水なのかしらん???
なんていろいろ考えていると終わらない。
ついつい頭に浮かんだことを次から次から書き綴ってしまうので、脱線ばかり。
だから話が長くなるのよねぇ・・・
ということで話を元に戻しますが。

更に面白かったのは、なぜ彼がここまで成功したか。
塩野氏は書いている
「面白いのは、アルドは、現在でも読書愛好家にははなはだ便利な、”出版案内(カタログ)”を印刷して郵送した店でも最初の人だということであった。それには、アルド社出版の書物が列記され、その1つ1つに簡単な解説がつき、これはアルド自らが書いたものだが、それ以上に楽しいのは、全出版物には値段が明記されていたことだった。宣伝も、重視していたわけである。」

インターネット時代の現在なら当たり前のことだけど、500年も前にもこうして本に情熱をかけている人たちがいたんだなぁ・・・とガタガタ回る洗濯物の片隅でほくそ笑む私でした。
なお、余談ですがいている。

DTP(出版物の原稿作成や編集、デザイン、レイアウトなどの作業をコンピュータで行い、データを印刷所に持ち込んで出版すること。)という概念を創出した20世紀における出版関連ソフトウェアの開発企業アルダスは、彼の名(英語読みでアルダス・マニューソロス)を取ったものである
と日本語Wikipediaに載っていました。

こちらの展覧会は5月19日までPadovaで開催中。
「ピエトロ・ベンボとルネッサンスの発明」というタイトルからもルネサンスとは何か?を再確認させられるような展覧会だった・・・と思います。(既に記憶が・・・)
小ぶりだけど内容充実のいい展覧会・・・だったことは記憶しています。

数々の宮廷からヴァチカンまでイタリアを点々としていたベンボがPadova滞在時、自宅に作っていた”美術館”の再現などもあり、当時の彼の権力や知識力が偲ばれます。
1547年ローマで死亡。
方やアルドは1515年66歳で死亡。「教会に運ばれる遺体の周囲を飾ったのは、花ではなく、彼がその生涯に出版した数々の書物であった」そうです。

食べて、飲んでるだけでは決してないんですよ・・・わかってもらえたかな?
何かきっかけがないと、こうして追求せず流してしまうのは良くないとわかっているんですけどねぇ・・・
いつもの3倍は時間掛かるんだよねぇ。



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