イタリアの泉

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キリシタン信仰画の新たな知見ー神奈川の記憶、最終回より

2018年12月29日 16時41分26秒 | 日本・美術

今年も残すところあと2日。
そんな中、昨日の朝日新聞の朝刊にここ数か月気になっていた澤田美喜記念館所蔵のキリシタンの信仰画についての最新の知見が掲載された。

新しい情報は2つ
1つは東京大学史料編纂所の岡美穂子准教授は花押の上に書かれた名前の注目、それを<パウロ>と読み解いた。
キリシタンの歴史を専門とする彼女は大友宗麟らキリシタン大名の花押やサインに精通している。
「(花押は)アルファベットの<R>に見えます。洗礼名がパウロで、(名前の)頭文字がRの人物を考えると、すぐに思い浮かびました」と。
それは「良印パウロ」だという。

この名前で検索しても何もヒットしないので、やはり知る人は知るの人なのだろう。
彼はイエズス会の日本人修道士の中でも3本の指に入るくらいの有力者で、秀吉だけでなく、家康にも秀忠にも謁見しているという。1552年熊本の八代生まれとされる良印は、20代半ばでイエズス会に入信、外国人宣教師と共に京都や大阪で布教活動を行った。

1587年、秀吉が伴天連追放令を出すと、イエズス会は九州へ移ったものの、1592年、都での布教を再開する。
1592年は今回展示されていた信仰画に書かれた年号だ。
岡氏は「(布教するといっても)教会は有りませんから信者宅を巡回するような活動だったようです。そうなると必要なのは携帯用のミサ道具。この信仰画はそのような環境で作られたのではないか」と。

当時日本語の聖書は有ったのか?
識字率、という点を考えても西洋同様、目で見て分かりやすいもの、教義を分かりやすく示した絵画は必須アイテムだったことは想像に難くない。しかし、当時の日本には洋画の絵画技法は伝わったばかりでそれを使える画家は皆無だっただろう。
「京都辺りの(日本画の)絵師がキリストとマリアの生涯を示す15の場面を描き、良印が祈りの言葉を記したのだろう」と岡氏は考える。
良印はラテン語を解さなかったが、説教が巧みで宣教師と行動を共にしていた。仮名で記された祈りの言葉がラテン語の原音に忠実なのもこれなら納得がいく。

1614年徳川幕府はキリシタンを国外追放。
良印は高山右近らとフィリピンへ、その時信仰画を携えていた。
良印は翌年現地で客死。
彼の死後も何らかの形でこの信仰画が保管されていたのではないか…

そしてもう1つは来歴の新発見。
1980年澤田美喜の評伝がアメリカで出版されている。
「The LEAST of THESE 澤田美喜と彼女の子供たち」だ。
この評伝に1957年から何度も長崎の隠れキリシタンの島を訪れていた美喜の様子が紹介されている。
ある時、一人息子が行方不明になった夫婦から1本の巻物を託される。その巻物には「絵とラテン語の語句が表音文字で書かれており、1592年という年号とパウロの名が記されていた」とある。
この評伝は日本に駐留していた米軍の妻の書いたもので、美喜とは親しかったようなので、信憑性は高い、とのこと。

この信仰画が大々的に世間に現れて1か月、謎を解く手がかりが続々と集まっている。
多くの人を惹きつける謎を多く含んでいることは素人目にも明らかだ。
これからも様々な方向で研究が進むことを私も望んでいる。

ただ、この記事「神奈川の記憶」がこの記事を持って連載終了になったのは残念だ。
先日横浜歴史博物館に行って、そこに展示されている色々な顔を持った”神奈川”を見たが、市民が知らない、忘れてしまった神奈川をこれからも「発見」させて欲しかった。
140記事の中から抜粋された42件は11月に発売になったこちらの本でも読む事が出来る。

参考:2018年12月28日 朝日新聞 神奈川の記憶



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