イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

夏休み5日目ーAosta その2

2014年08月24日 18時42分44秒 | イタリアの小さな街・大きな街(Fi以外)

ご無沙汰してしまいました。
先週勉強を再開したところ、次回の試験のために読んでいた本に出ていたものをどうしてもこの目で見たくなって、急遽2泊3日でLazio(ラツィオ)まで行っていました。
ものすごい贅沢、とやはり思わずにはいられません。
他の教科はいざ知らず、私が勉強している美術史に関しては、実物見てなんぼ、というところがあるので、大学で教授たちは「実物を出来るだけ見ろ」というのです。
私もできるだけそうしようと思っていたのですが、まぁ色々な事情でなかなか外に出られなくて。
でも行ってよかった、見てよかった。
久しぶりにイタリアの偉大さを再確認。
私はいつかこの国を去ることが出来るのだろうか・・・とちょっとセンチメンタルな気分にまでなりました。

ただ、一人旅行は気楽でいいんだけど、とにかく歩いてしまうので、今日は体のあちこちが痛い。
朝6時40分の電車で出かけ、23時半に着く電車で帰ってくるなど、一人じゃないとできないですね。
こちらの話は時間がかかるので(なにせ写真だけでも3000枚以上撮ったもので・・・)、既に夏休みの宿題化してしまった、こちらの残りを片付けることにしましょう。

え~とどこまで行ったんだっけかなぁ・・・とこうなってしまうので、続けて片付けないといけないですよね。
そうそう、まだDuomoの周りでうろうろしていましたっけ。
そこからメインの広場へ・・・

夏はイタリアの都市は大抵大きな広場に何か出ていますよね。
不景気でもイベントはなんんとかやっています。
いや、アオスタではその不景気感、感じませんでした。
何でもこの州はイタリアで一番小さく、一番税金が高いとか。
でも不景気感が感じられないということは・・・潤っているんですね。
さすが”北”

Piazza Chanoux,フランス語が入って来ているので、なんて読むのか分からんこの広場。
ん?この広場なんて読むのか調べようとWikipediaを見たらちょっと気になるくだりが・・・

アオスタには先史時代からケルト人やリグリア人 (Liguresが定住し、のちにサラッシ人 (Salassiの中心地となった。紀元前25年、ローマ帝国軍はこの地を征服し、サラッシ人の多くが殺され、また奴隷として売り飛ばされた。
ローマ人は2つの川の合流点にアウグスタ・プラエトリア・サラッソルムAugusta Praetoria Salassorum、単に「アウグスタ・プラエトリア」とも。名はアウグストゥス帝に因む)という都市を建設し、3000人の退役兵士を移住させた。
この都市が現在のアオスタの起源である。アウグスタ・プラエトリアは、アルプス越えの2つの交通路(グラン・サン・ベルナール峠とプチ・サン・ベルナール峠)の起点にあたる重要な戦略的位置にあり、都市の構造もローマの兵営と同じ構造であった。この町は紀元前11年以降アルペス・ポエニナエ属州(アルペス・グライアエとも)の州都となり、その後数世紀にわたってローマ帝国が支配した。

西ローマ帝国の崩壊後、この都市はさまざまな民族による支配を受けた。ブルグント族(ブルグント王国)、東ゴート族(東ゴート王国)、東ローマ帝国、ランゴバルド人(ランゴバルド王国)である。フランク王国(カロリング朝)の小ピピンはランゴバルド王国を駆逐し、この都市をフランク王国に組み込んだ。小ピピンの子であるカール大帝(シャルルマーニュ)のもとでフランク王国が拡大すると、アオスタはアーヘンとローマを結ぶフランク街道 (Via Francigenaの中継地として重要な位置を占めることとなった。(Wikipediaより引用)

と気になったのはこの部分。
実は昨日まで回っていたのがLazio(ラッツィオ州)のフランク街道(Via Francigena)沿いで、思い出してこの本を引っ張りだしたところだった。

えへっ、すっかり本棚の肥やしになっておりましたが、以前ここでも紹介しています。(その時の話はここ)
この本にアオスタの起源について別の伝説が出ていました。
この本、買ってから5年もして気が付いたかという感じですが、via Francigenaの要所要所に残されている伝説や言い伝えを集めているようです。
これはこれで面白いのですが、街道についてももう少し知りたいな、と実は昨日バスの中でイタリア人が語っているのを盗み聞きしながら思ったんですよね。あの人本当に詳しかったなぁ・・・もっと色々知りたかったのに。
本を読むのは大変。誰かに語ってもらえると楽なんですよねぇ・・・

ローマ人がこの地に入り込む前、ここでは4階建ての大きな城塞を立てていました。
その一番下の太陽が差し込まない階は、囚人が仕事をさせられていました。
ローマ人はこの街に入ることを決め、街を包囲しました。
7年に渡る長い戦いの末、ローマは最終的にこの城塞の一番下の階にButhierから水を引きこみ、流し込むことにしました。
サラッシ人は囚人にバケツを使って水を外にかき出させましたが、みんな溺れて死んでしまいます。
最終的にローマはアオスタを攻略するわけですが、その城塞からは今でも「Oste l'eau(敵は水ってことかな?)」という叫び声が聞こえるとか。そしてこの城塞が有った場所の名前から「アオスタ」という街の名前になった・・・らしいですよ。

ローマ人は色々なものを残しています。



Porta praetoria(プレトリア門 これラテン語?なんで発音しないaが入ってるの?)

壁の厚みが4メートル以上ももあるそうですよ。それだけ頑丈に作っていたってことですね。
現在の高さより3メートルは下から門は作られていたようです。
確かにこれでは低すぎますからね。

これじゃ説明読めないわ。

門と門の間にレストランやツーリストインフォメーションがあった。

先ほどの読めない広場のインフォメーションは異常に混んでいたがここは空いていたのでこちらが穴場かも。
とりあえず地図をもらう。

こういうふうになっているらしい。
そして私はてっきり今まで通ってきた道がメイン通りだったのかと思いきや、この先の方が栄えていた。
実はこの先で両親はアウグストゥスの凱旋門を見に行き、私は別の場所へ行った。
門より気になるものがあったのだ・・・

ここここ
ロマネスク様式の鐘楼。1131年の建てられました。

途中よく見かけた地図。
見所が絵つきで開設されていて非常に良心的。
たどり着いた先は

Chiesa di Sant'Orso(サントルソ教会)
屋根の下にキリストの生涯を描いたフレスコ画があるようです。
こちらは入れなかった・・・残念。

しかしどうしても見たいものがあるんです。

collegiata(教会)は11から15世紀に改修されて中世の面影はあまりありません。

この先ですお宝は。

Chiostro(回廊)があるんですが、アオスタ唯一のロマネスク様式の柱頭を持っています。
12世紀のもので旧約聖書と新約聖書、サントルソの聖人伝、お決まりの動物や動植物の装飾などすばらしいラインナップ。
オリジナルは52有ったのですが、現在は40しか残っていません。
実はここ撮影禁止だったのですが・・・ごめんなさい。

すばらしいですよ。
ここはイタリアでも有数の保存状態のよい12世紀の回廊の1つなんですって。

大理石の彫刻です。プロバンスの職人の手で作られたようです。
大理石の上に黒いニスが塗られているため黒いのですが、中にはそれがはげているものもあるため色が違うようですね。
あ~もっと時間が欲しかった。

とりあえずぐる~と一周して来るだけの時間しか残されていませんでした。
資料も欲しかったけど、全然そんな時間はなかった。もう大失敗!!
いそいそと出てきたら丁度両親も門を見て戻ってくるところでした。

そして1つ見残していることに気が付いたんです。
ローマ遺跡、見てない・・・
そうさっきのプレトリア門を曲がらないといけなかったんですね。

わぉ、保存状態がこちらもいい。
高さは22メートル。これは劇場のファサード、窓の跡です。

なぜかこのイタリア語のガイドブックには、ここについての詳しい説明がないんですよねぇ・・・
確か先ほどcriptoporticoでおじさんが「anfiteatro(野外劇場)はない」って言っていたんですけど、じゃあこれは?
これはAnfiteatroの定義を見てみないことには駄目か・・・

「アンフィ」(amphi-)は「周りに」(もしくは「両側に」)、「テアトルム」(theatrum)は「劇場」であり、合わせて「周りに観客席のある劇場」を意味する。
ポンペイに現存する最古のアンフィテアトルムの石碑によれば「スペクタクラ(観覧用の建物)」という語が使われていたが、ウィトルウィウスにより初めてアンフィテアトロンという語が使用された。
舞台に対して一方のみに半円形の観客席を持つ形式の劇場(いわゆるローマ劇場)や、陸上競技・体育競技やとりわけ戦車競技が主として行われたトラック状の競技場(ギリシア語でスタディオン、ラテン語でチルコ)としばしば混同されているが、専ら演劇のために用いられるローマ劇場や戦車競技で著名な競技場に対して、アンフィテアトルムは様々な見世物のための場であり、これらは形状だけでなく役割の上からも明確な区別をする必要がある。古代ローマ領土の数多くの都市が、アンフィテアトルムとローマ劇場、それに競技場を古代ローマ領土の数多くの都市が、アンフィテアトルムとローマ劇場、それに競技場を備えていた(wikipedia)

そっかこれはTeatro romano(ローマ劇場)
どうやらAnfiteatroは女子修道院(Sant'Caterina)に組み込まれてしまったみたいですね。

アーチがとても綺麗。
このアーチってローマ人が考え出したんですよ。
それまではこの弓形のアーチってつくり出せなかったんです。

いいですねぇ。

山もこれで見納め。

石の文化はすごいですよね。2000年以上も昔の建物なのにねぇ・・・と感心します。
もう時間切れ・・・急いで荷物をホテルに取りに行き電車に乗らねば。

途中見かけた汽車。
最近どこの町でも観光客用にこういう乗り物走らせていますね。
結構これがバカにできないんですよね。

駅へ向かう道。

Trenitaliaの駅はどれも似たり寄ったり。
Aostaの駅。
そしてここからまたまたローマ劇場(今度はAnfiteatroです)の残るVeronaへと移動。
この旅もようやく最終章を迎えます。
いやいや、アオスタに関しては軽視しすぎていましたね。
もっと時間をかけるべきだったし、事前調査もしておくべきでした。
まぁ両親と一緒だったので、これくらいが限界でしょうね。
もう一度是非ゆっくり訪れたい都市の1つとなってしまいました。

ってここでまた引っ張るのか・・・ごめんなさい、時間切れです。



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