イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

Raffaello(ラファエロ)のGalatea(ガラテイア)から「エジプシャンブルー」発見ーRoma

2020年10月11日 15時18分06秒 | イタリア・美術

Raffaello(ラファエロ)は今年没後500年記念で、あちこちで色々なイベントが行われている。
この時にイタリアに行かれなかったのは、正直非常に残念だったなぁ…
さて、ここ数日「なかった」話が続いていたが、これは「有った」話。
Roma(ローマ)のVilla Farnesina(ヴィッラ・ファルネジーナ)のラファエロのフレスコ画から、ルネサンス期には作ることができないと考えられていた古代の顔料が見つかった。

Villa Farnesinaは“ルネサンスの宝石”とも呼ばれたりする素晴らしい宮殿だ。
バチカンの南トラステヴェレ地区内、ジャニコロの丘の東端とテヴェレ川に挟まれた落ち着いたエリアに位置する。

これは2008年2月21日に訪れた時。
なぜかこの辺りに行く時はいつも天気が悪いんだよなぁ…なんで?
Ponte Sisto(シスト橋)を渡るとすぐ。

Villa Farnesinaの入り口。団体さんかな?
ちなみにCampo di Fiori(カンポ・ディ・フィオーリ)のそばにあるPalazzo Farnese(ファルネーゼ宮)↓とは別物。

こちらは現在、在伊フランス大使館が入っているので、フランスの国旗が。
Carracci(カラッチ)兄弟のフレスコ画とオペラ「Tosca(トスカ)」で有名。
元々Villa FarnesinaはVilla Chigi(ヴィッラ・キージ)と呼ばれていたのだが、1580年Alessandro Farnese(アレッサンドロ・ファルネーゼ)の手に渡りFarnesinaと呼ばれることになった。
なんでもAlessandro FarneseはFarnesinaとFarneseを屋根の有る通路でつなごうと考えていたらしいが、実現しなかった。

Villa Farnesinaに話を戻すと、このヴィラはSiena(シエナ)の富裕な銀行家で、教皇Giulio II(ユリウス2世)の会計係でもあったAgostino Chigi(アゴスティーノ・キージ)の意向で、1506年から1510年同郷のなじみも有ったのか、シエナの芸術家(この人も結構多彩なので)Baldassare Peruzzi(バルダッサーレ・ペルッツィ)に建築を依頼した。
私、詳しく人となりを知らなかったのだけど、Baldassare Peruzziは当時ラファエロに匹敵するくらいの才能の持ち主だったらしい。
シエナ時代はPinturicchio(ピントゥリッキオ) や Francesco di Giorgio Martini(フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ)に絵画を学び、キージ家とも親交を深めた。
Agostino Chigiの勧めで1503年ローマに出て来たものの、故郷との関係は続き、1504年にはピントゥリッキオのシエナの Biblioteca Piccolomini(ピッコロ―ミニ図書館)のフレスコ画やCattedrale di Santa Maria Assunta(サンタ・マリア・アッスンタ大聖堂)の手伝いしたようだ。
ローマではBramante(ブラマンテ)やラフアエロと親交を結び、ラファエロの死後はヴァチカンの改築工事を任されている。

Agostino Chigiに話を戻すと、この人、1487年にRomaにやって来てあっという間に頭角を現す。
1502年にはpapa Alessandro VI (アレクサンデル6世 )のもとで大使を任命されている。
この教皇は”史上最悪の教皇”とも呼ばれるスペイン出身の教皇で、息子の方がおそらく馴染み深いと思う。Cesare Borgia(チェーザレ・ボルジア)である。
このCesareの戦争費用、Urbino(ウルビーノ)の大公Guidobaldo da Montefeltro、昔はライバルだったメディチ家のPiero de' Mediciにまでお金を貸し、 1502年にはRomaにBanca Chigi(キージ銀行)を建てた。
金に任せて(これは私の個人的な感想)ヴァチカンの数代の教皇の為にパーティーを主催し、それが様々な芸術家と知り合うきっかけとなった。
そしてこのヴィラが建ったあとは、そこには様々な芸術家や力の有る人々が集まった。

実はこの頃Alessandro ChigiにはMargherita Saraciniという妻がいたにもかかわらず(子供はいなかった)、Venezia(ヴェネツィア)で知り合った高級娼婦のFrancesca Ordeaschi (o Ardeasca)がいた。

写真:Wikipedia
(Sebastiano del Piomboが描いたDoroteaが最近Francescaの肖像画ではないかと言われている。)
後に妻は死亡、数か月後彼女は正式にVilla Chigi(ヴィッラ・キージ)に迎えられる。

二人の愛を祝うため、AgostinoはRaffaello(ラファエロ)にApuleio(アプレイウス)のLe metamorfori(変容)からAmore e Psiche (アモーレとプシケ)を描くよう依頼する。この作品が後にヴィッラの1階Loggia di Psiche(ロッジャ・ディ・プシケ)の名になる。
AgostinoとFrancescaは1519年8月28日、教皇LeoneX(レオ10世)により、正式に結婚が認められる。
高級娼婦だった女が、影響力が強い男と”正式に”結婚することは、当時非常に珍しいことだった。
現にAgostinoにはMantova(マンドヴァ)公爵のFrancesco II Gonzagaの庶子Margherita Gonzagaとの婚礼の話が有ったにもかかわらず、そんな美味しい話を蹴ってである。
2人の間には5人の子どもがいたが、Agostinoは5番目の顔を見ることは出来なかった。
享年55歳、葬式には名だたる人たちがわんさか押し寄せたという。

莫大な財産をもらった若き未亡人は、なんと7か月後に死亡。
どうやらこの遺産のせいで毒を盛られたらしいのだが、愛する夫の後追い自殺をしたという話がまことしやかに信じられていたそうだ。くわばらくわばら。
Agostino Chigiはラファエロが設計したBasilica di Santa Maria del Popolo(サンタ・マリア・デル・ポポロ大聖堂)のキージ家の礼拝堂に葬られた。

写真:Wikipedia

前説長すぎ。で、ここからが本題。
外から見たLoggia(回廊)

正面1階、今はガラスの窓が入っているけど、最初は確か窓がなかった。
そのラファエロが1512年「Loggia di Psiche(ロッジャ・ディ・プシケ)」(地図ではLa loggia)

ここには

 Storie di Amore e Psiche(アモーレとプシュケの物語)が描かれている。
ラファエロとRaffaellino del Colle, Giovan Francesco Penni, Giulio Romanoなどの弟子たちで描かれた。
植物の花綱装飾はGiovanni da Udine (1517)後にCarlo Maratta(1693-1694)が引き継いだ。
フレスコ画のデザインは確実にラファエロと断言できるが、制作は工房だろう。
およそ200種類の植物が描かれていて、そのうち数年前にアメリカからもたらされたばかりの珍しい植物も描かれているそうだ。
今回新たな発見が有ったのはここではない。

Sala di Galatea(ガラテイアの部屋)

写真:Wikipedia
そこにに描かれたTrionfo di Galatea(ガラテイアの勝利)

このフレスコ画から既に無くなったと思われていたblu egizioが見つかったという。
blu egizio、エジプシャンブルーは世界最古の人工顔料だが、ルネサンス期には既に作り方が分からなくなっていた。
フレスコ画の青にはもっぱら大変高価なラピスラズリを使っていた。(砕いて粉にすることで、ウルトラマリンと呼ばれる青色の顔料になる。)…と実は数時間前まで思い込んでいたのだが、「これは違う」とご指摘をいただいた。
そうですよねぇ、ラピスラズリは宝石で、非常に高価だったため、その代わりに用いられていたのがアズライトだったそう。
チェンニーニが「ドイツ青」と言っていたのは、アズライトで、これは銀山でついでに出るもので岩群青と日本では呼ばれる顔料なのだそう。
ドイツの銅鉱山から出たのでこう呼ばれていたらしく、炭酸銅の一種だそう。
(山科様、ご指摘ありがとうございます。)
ここでこの話を始めると、終わらないのでまた機会があれば、ということでここではちょっと面白いサイトが引っかかったので、それを紹介しておくにとどめる。
http://www.ekakinoki.com/m_tema/blue.html

今回の調査で、この空の青、海の青そしてガラテアの目にそのエジプシャンブル―が使われていることが分かったのだ。

このエジプシャンブルーは紀元前2600年頃に登場し、メソポタミア文明やローマ帝国の影響のもと瞬く間に世界中へ広がった。
しかし、ローマ時代Vitruvio(ウィトルウィウス)がその著書「De Architetura(建築について)」でその作り方に言及していて、「 石英の砂、銅、ナトロンを古代エジプトが使っていた砂の中のカルシウムを含んだ石灰と共に焼き上げる」とのことだが、「この魔法のような変化を起こすためには、混合物を900度から1000度で2時間ほど焼かなくてはいけない。」らしい。
ウィトルウィウスですら「この人工顔料を作るのは難しく、材料の割合の配分が非常に重要だ」と記していた。
そんなこんなで、中世になると、この顔料は殆ど作られなくなり、ルネサンス期には全く作れる人がいなかった…と思われていた。
それなのに、ラファエロはこの顔料を作り出したのだ。
結果、ラファエロがうわべだけ古典回帰に躍起になっていたわけではなく、材料などにもこだわっていたことが伺われる現存する資料となったわけだ。
ラファエロはこのVilla FarnesinaのことをBaldassarre Castiglioneに次のように書き送っている。
「マントヴァの人文学者(Baldassare Castiglioneのこと)はガラテアを称賛した。画家は答えて曰く『美しい形の古代建設にすればウィトルウィウスの大きな光が私のもとに現れる。』」と。
ウィトルウィウスの一致がなんとも運命的だ、と記事は言う。

エジプシャンブルーが再発見されるのは、1814年ポンペイの遺跡を調査している時。
調査団はサンプルをロンドンへ送り解析した。
数多くの実験が行われた結果、今ではエジプシャンブルーの化学的な名称がケイ酸銅カルシウムであるとわかっている。
エジプシャンブルーに関しては、こちらから引用。更に現代でも重要な役割を果たしていることを知ることが出来る。

この発見を含めて10月6日から2021年1月6日まで特別展が行われている。
Raffaello in Villa Farnesina Galatea e Psiche
http://www.villafarnesina.it/

この特別展では1970年代に壁の下部分に描かれたカーテンの下に隠されたSebastiano del Piomboの”Trionfo di Galatea(ガラテアの勝利)””Polifemo(ポリュペモス)”のデッサンが展示されている。

また2017年の調査で1518年ラファエロとその工房で描かれたLoggia di Amore e Psicheのフレスコ画はgiornata(ジョルナータ)が305有った、つまり305日かけて描かれたのだが、その中でたった2か所しか修正がみつからなかったという。
ジョルナータとは、フレスコとは”漆喰を塗ってからまもなく硬化する前の表面に耐アルカリ性の顔料を水または石灰水で溶いたもので描く。漆喰が硬化する過程で生じる消石灰(水酸化カルシウム)の化学変化により、顔料は壁に定着する。媒材(バインダー)を用いないため顔料の発色が最高度に活かされ、顔料は壁と一体化するため高い耐久性を持つ。
漆喰が生乾きの状態で描かなければならないため、一日に描くことの出来る仕事量を計算して壁を区分し塗りついでいく。”(Wikipediaより)これがジョルナータ。
大きな壁面をブオン・フレスコで仕上げるためにはジョルナータ法は不可欠である。
この2か所しか修正がなかったということは、フレスコ画を描く前からきちんと計画が立てられていて、この工房が非常に高いレベルだったことが伺われる。Giovanni da Udineなども参加していたのだから当然だ。

いつになるかわからないけど、次回はここも訪れたい。
長々お付き合いいただきありがとうございます。
ここのところ5000文字越えの記事が続いていますが、読み疲れしてないかなぁ…

参考:https://www.ilgiornaledellarte.com/articoli/la-galatea-di-raffaello-a-villa-farnesina/134227.html



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7 コメント

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青色 (山科)
2020-10-11 16:43:54
エジプシャン・ブルーというのは古代のファイアンスの青釉URL

の青い部分から派生した青い顔料だと思っています。ラファエロの場合、ひょっとしたら近東から輸入したものではないでしょうか?

ただ、
>フレスコ画の青にはもっぱら大変高価なラピスラズリを使っていた。
というのは、違うと思います。ラピスラズリはアフガニスタンのバグダシャンが最大の産地なんですが、それこそもの凄く高価ですから無闇に使えない。チェンニーニがいうドイツ青はアズライトでしょう。これは銀山でついでに出るもので岩群青と日本では呼ばれる顔料です。ドイツの銀山から出たようですね。炭酸銅の一種。またヨーロッパ・インディゴ(たいせい  WOAD)も併用したようです。これは有機染料ですから、耐久性?なんですが意外にもつらしい。
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思い込んでいました (fontana)
2020-10-11 17:55:12
山科様
ご指摘ありがとうございます。
完全に思い込んでいました。ちょっと検索したらこちらに面白いことが書いて有りました。http://www.ekakinoki.com/m_tema/blue.html
ご指摘にもあったように、もし輸入ものだとすればそれはそれで面白そうですが。
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サファイヤ (山科)
2020-10-11 18:30:51
新約聖書の黙示録の中の、
サファイヤの床?大地?という、このサファイヤというのは、現在でいうサファイヤじゃなく、ラピスラズリのことではないか?という説があるようですね。
確かにラピスはオリエントではシュメール文明以前から珍重されてきたものですしね。




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Unknown (fontana)
2020-10-11 19:47:01
山科様
そうなんですね、全然知りませんでした。
いつも有益な情報をありがとうございます!
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サファイヤ  続 (山科)
2020-10-11 20:48:21
 ヨハネ黙示録 第21 門の基壇の二番目がサファイヤになってます。実は、ACE1世紀ごろのエリュトラ海航海記にサイファイヤがインド西部からのもうかる輸入品として記載されていて、そのギリシャ語名詞  がどうもラピスラズリのことではないか? とされてるようなんですね。
アフガンからインド西部へ運ばれさらにローマへ交易されたと思われます。黙示録の1,2世紀前の記述ではありますが、示唆的だと思います。

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ごめんなさい訂正 (山科)
2020-10-12 06:36:59
×>ドイツの銀鉱山
○>ドイツの銅鉱山

どうも、銅鉱山が正しそうです。銅の鉱脈に普通の鉱石以外に派生的に算出するもの「藍銅鉱」 と呼ばれています。それ以外に「緑」の顔料になる「マラカイト」(岩緑青)というのも銅鉱山から出ます。
 ref ゲッテンス 絵画材料事典、美術出版社、1973
 なお、現在 絵の具屋で 天然アズライトは天然ウルトラマリンの1/10以下の価格のようですね。
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感謝!! (fontana)
2020-10-12 16:34:18
山科様
いつもご丁寧に解説頂き勉強になります。
ありがとうございます。
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