ふふふ、今日は珍しく書く気満々。
ということで、残しておいたVilla Mediciの最終回。
実は2で終わりでも良かった気がするのですが、最後に書きたいことが2つほど。
まず、ここには私が探し続行けていたものが有った、という話。
ここに私が探し求めていた金唐革が有った、ということが証明できました。
場所はstanza delle Muse(ミューズの部屋)、一番保存状態が良い部屋です。
ここに入った瞬間に「これだ~」と思ったのですが、同時に「偽物だぁ…」と
一年以上こればかり見て来たので、大抵は見れば分かるようになりました。
最近私壁ばかり見てるので、首がおかしくなったみたい。
最初は単なる肩こりだと思っていたんですけど、どうもそうではないようです。
旅行で動ている時は比較的良いのですが、家にいて座っていると調子が悪い、と思っていた矢先、「座りすぎ症候群」なる病気が有るという話を聞きました。
げっ、まずい私これかも…
丁度今日放映されていた「ためしてガッテン」を流しながらこれを書いているんですけどね。
実際自律神経やられてる感が有ったんですけどねぇ。
やばいなぁ、私もう何年も座りっぱなしだから、どれだけ寿命縮んだんだ…
やばいやばい、30分に一度くらいは立って動かないと…と言いながらこれを書き始めて既に1時間だ。
よし、とりあえず立ち上がったので、話を元に戻しましょう。
この壁紙(?)、どう見ても革じゃないんだよなぁ。
説明はフランス語で、辛うじて理解できたのは1588年Ferdinando Iが滞在していたころの金唐革を再現したもの。(それは今分かったんだけどね)
モチーフはチューリップ。ということはチューリップがヨーロッパに入って来たのは、1550年以降ということで、当然この絵柄はそれ以降のものとなる。
もしこの柄なら、今まで見て来た金唐革の柄にはない独特なタイプだなぁ…ああ、実物はどこに行ってしまったのだろう。
ちなみにチューリップは元々中国の西部に位置するチベット、中東から地中海沿岸の地域で咲いていたと考えられています。
その後それらの地域に移住してきたトルコ民族によって、更に西へと広がって行きました。
そしてオーストリアの大使としてトルコにいたA・G・ブズベックによって、初めてチューリップがヨーロッパに持ち込まれます。
彼は1554年にコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)周辺でチューリップを見かけて、通訳に花の名前を聞いたところ、
通訳がチューリパム(ターバンの意)と聞き違えてしまいました。
以来、その花は“チューリップ”と呼ばれるようになったというわけです。
ヨーロッパにチューリップが持ち込まれると、あっという間に注目の的となります。
当時オランダやドイツの人々はチューリップを“高貴の花”と考え、上流階級に普及したチューリップは、上流階級の人々が使う陶器やタイル壁画に好んで用いられました。
その頃に描かれた肖像画を見ると、チューリップ柄のドレスを着た女性などが多く見られます。
どうしてこれが壁にくっついてるのかわからないなぁ、と思っていたらガイドさんが説明してくれました。
と言っても普通の人は興味薄でしょうから、ガイドさんも大した説明をしてくれません。
やはりFerdinando Iの時代、この壁は金唐革で覆われていました。(この部屋だけでなく両隣の部屋も、と多分言っていたと思います。)
しかし、その後その革ははがされて、壁はむき出し状態になっていました。
その後18世紀、屋敷自体をできるだけFerdinando Iの時代に戻すために行われたのが、この壁に金唐革を貼ることではなく(残念!)
その上に描かれているJacopo Zucchiのフレスコ画に近い色に壁を塗ることだったんです。
だから今この部屋の壁は薄緑に塗られています。
隣の部屋にはつづれ織りが掛かっていましたけどね。
イタリアのお屋敷の壁の装飾はまずフレスコ画。
これは一番安上がり。
ただ湿度を嫌うフレスコ画はヴェネツィアなどのお屋敷には不都合。
だから特に金唐革の需要が高かったのも頷けるし、ヴェネツィアの場合はオリエントとの交易によって、そちらから革が入っていました。
それより高価だったのがつづれ織り(Arazzo)
メディチ家はお抱えのつづれ織り職人を抱えていたくらい、このつづれ織りを愛好していました。
でもメディチ家のお屋敷にも金唐革が使われていたことは記録に残っているんです。
でも実物はないんですよね。
金唐革だって高価だったはずですが、つづれ織りに取って変わられます。
流行の変化、ということなんですけどね。
父Cosimo IがPalazzo Vecchio内の部屋の壁に金唐革を使っていた記録が有ります。
だからFerdinando Iが自分の屋敷に金唐革を使っていたのも分かるし(記録も有るし)、Romaやその近郊のお屋敷には実際に唯一金唐革が現存しているPalazzo Chigiなどが有ります。
だから金唐革、流行してたはずなんですよ、イタリアでも。
どこへ行ってしまったの???
そうなんですよね。
このお屋敷の壁がFerdinando Iの時代、金唐革で覆われていた記録まではたどり着いていたし、現存しないことも知っていました。
あ~あ、どこに行ってしまったんだろう…捨てられちゃったんだろうなぁ。
いくら流行り廃りが有るとはいえ、結構高価だったはずなのになぁ。
小さく切り刻んで再利用されたかなぁ。たぶんこっちが有力だろうなぁ。
まぁ実際「有った」ということ、柄はこんな感じだったのでは、ということが分かっただけでも行って良かったですけどね。
そしてもう1つ。
これこそもっとどうでもいいことなのですが、このガイド付きツアーの最後に、ガイドさんが「お屋敷内のBarでコーヒーも飲めますよ」と言っていたので、
時間も時間だったので、ちょっと寄ってみました。
わぉ~イタリアの中のフランス。
やっぱりセンスいいなぁ。
レストランの方は
ローマの景色が見えたり
これもレプリカなのかな?彫刻が飾って有ったり、居心地良さそうな雰囲気です。
そして花より団子の私は…
う~んおいしそう。
フランス菓子かな?
これを見て、食べずに立ち去ることなどできるわけがない…いひひ。
というこで右から2番目、多分チーズケーキだろうとは思ったのですが「これ何ですか?」と聞いてみました。
すると「日本のチーズケーキ」という答えが返って来ました。
日本のチーズケーキ???
私は日本人だけど、日本のチーズケーキなんて聞いたことないぞ???
ということでこれを選んだのは言うまでもありません。
ふむ、普通のチーズケーキ
固くもなく、またスフレでもない、甘さ控えめで美味しいけど、何でこれが「日本のチーズケーキ」なのかわからん???
お金を払う時に「どうだった?」とお姉ちゃんに聞かれたので、「美味しかったけど、何で”日本”なのか、私日本人だけど分からない」
と言ったら「私たちも分からないけど、何か材料に日本のものが入っているのかな?」とか言っていました。
何故か寿司が体に良いと思われていたり、
このチーズケーキはいいけど、何でもかんでも”日本”を付けると、なんとなく健康に良さそうな感じ、というイメージが付くという、なんか日本人にはちょっとこそばゆい現象が起きているなぁ、と感じているのは私だけかな?
ちなみにコーヒーはこの”にこちゃん”(勝手に私が呼んでるだけ)
昔このにこちゃんの付いたコーヒーカップが欲しくて、友人の馴染みのBarで無理を言ってもらってもらった思い出があります。
この頃から私、エスプレッソカップの柄にも興味を持つようになりました。
実は先日ウィーンでどうしても欲しかった
これ~
ちょっと高かったのですが、昔から欲しかったので買っちゃいました。
時々入ったBarで気になるコーヒーカップが有ると、思わず盗んできちゃおうかと思ってしまいます。
やってないですよ。
但し、売ってくれ、と言ってもらったことは有ります。コーヒーカップじゃなくて、コップですけどね。(ビールジョッキももらったこと有る)
ということで、これでVilla Mediciの話は終わりです。
今は特別展もやっていて、すごい有名な作品が見られるわけではないですが、このアカデミアに通っていたアングルなどのデッサンが有りました。
ということでやっと終わった。
やばやば、30分経ったから立たなきゃ。
イタリアからとは限りません。
昔、日本東洋美術の雑誌でいきなり金唐革の記事がでてなんのことかわからなかったのを思い出しました。
そうなんですよ、日本にどのようなものが、どこから入って来たのか、日本人がその後金唐革を金唐革紙として改良したことなどを始めは論文のテーマとして考えたのですが、全く資料がなくて断念し、ヨーロッパだけに絞ったのですが、イタリアでは美術的価値が低かったのか、資料もかなり少なかったし、現物に至ってはほとんど残っていません。オランダにはかなりの量残っているんですけどね。
日本では日蘭修好380周年記念(何なんですかね、この中途半端な年数は?)1989年に「たばこと塩の博物館」で企画展が行われています。夏目漱石の「吾輩は猫である」にも当時金唐革でできた煙草入れを持つのが流行っていたという件があります。
これって中古品輸入だったのか新品輸入だったのか、なんかよくわからないものです。
金唐革は、日本では、分野でいうと染織品なんかに入っているんですよね。陶磁器とか絵画とか書道とかという分野わけの狭間に入ってしまうので、あまりアピールしにくい、発表の場がないということも一因かと思います。欧米なら、decorative ARtsの領分でしょうね。