イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

想い出の中

2016年02月20日 21時20分11秒 | 近況報告

卒業してしばらくアップしていなかったので、もうどっか行った?と思われていたかもしれませんが、ちゃんと(?)フィレンツェにいます。
卒業後、肩の荷は下りたものの、頭の中に浮かぶあれこれ…
今日は本当はこんなこと書くつもりはなかったんです。
でも2006年以前の事はこのブログには載せてなかったし、
昔のHPは既に見られなくなっているので、自分でも何を考えていたのか正確には思い出せないのですが、ちょっと思い出話にお付き合いください。

月曜日、私の卒業をたぶん誰よりも喜んでくれたのは私をフィレンツェに送り込んだ張本人だったと思います。
このブログでも何度も話してきた、ペルージャ外国人大学時代の恩師です。
ここ数年音信不通だったのですが、卒業を機に連絡を取りました。
その恩師の久しぶりの講演が昨日Assisiで行われて、迷った末に往復4時間かけてAssisiへ。

17時からの講演だったので下手すると、途中で抜けることになる。
4時間かけて行って、1時間も講演聞けないのは馬鹿らしいかなぁとか色々考えたんですけど、
この先何度先生の講演を聞く機会が残されている?と思ったら、いてもたってもいられなくなったんです。

案の定イタリアらしく、17時に会場に行ったら、プロジェクターがつながらないとあたふた。
結局30分たって、プロジェクターではなく大型テレビにつないで講演会スタート。
日本だったら始まる前にチェツクして…とやはり考えてしまいます。
もう慣れましたけど。
先生は私を見つけると、嬉しそうに手を振ってくれたのに
第一声が「こんなところで何してるの?」でした。
ふふふ、そう来ると思ったよ。
だから私も「(Asssi)観光です」と。
こういう風に鍛えられるから、目次がないと卒論の審査の時に言われた時に普通に「次回は付けます」なんて答えが出てくるんだよなぁ…とちょっとおかしくなりましたが。
ちゃんと後で「(来てくれて)うれしかった」とは言ってくれるんですけど、どうも素直じゃない!

この30分のロスで、結局講演途中で抜け出すことになっただけでなく、Assisiの山(?)の上からバス停まで久々の猛ダッシュ。
自分がまだ走れることに感動…いやいや、即筋肉痛が来て、今は久々に腿がやられた。
何とかギリギリセーフで無事フィレンツェに戻って来られたから良いですけどね。

わざわざ行った甲斐が有りました。
先生は外見こそ歳はとっても、相変わらず。
久々の講演を聞いて、やっぱり良かった。
そう、しばらく忘れていたけど、これ(この人)が私の原点だったんだと。
なぜ大学に行ったのか、どうしたかったのか思い出して、駅で電車を待ちながらちょっと感傷的に。
卒業した時ですら、こんな感覚を覚えることはなかったのに…

先生のようになりたい。
そう思ったのはいつの事だろう?
もっと先生の話を聞きたい。
初めて「まだイタリアに居たい」って思った。
そう、2005年の9月のあの日。

L先生の授業を初めて聞いたのは、2005年の1月だった。
あの頃先生はある本を出版したばかりで、授業は専らその話。
ペルージャ郊外の幹線道路沿いに有るtabernacoloという小さな祭壇に描かれたフレスコ画がラファエロの作品ではないか、というなんだかそれだけ聞いたら夢物語みたいなお話なんだけど、
この仮説がどうして成り立つのか?というのが本のテーマ。
勿論ラファエロの作品ではないだろう。(そんなものが幹線道路沿いに放置されているわけがないんだから)

実は私がその頃レベル、質ともに高く語学学校の先生はみんな勧めていたシエナ外国人大学ではなく、ペルージャを選んだのは、中世美術史の授業を受けるのが目的だったんです。
きっかけは当時今ほどネットが進んでいなかったのに、ある日本人の方(現在もヴェネツィア在住)がHPで授業をすごく褒めていたんです。
先生のこと、書いて有ったかな?
このHPを見て中世美術史に興味を持ったことを思い出したのは、彼女が後日ブログに先生の事を書いた時だったんです。
「私の他にも日本人でL先生を評価している人がいる」って思って、すごく親近感を覚えました。
日本人うけするのは、私たちが今まで受けて来た教育の中では出合うことがなかったタイプの教授だからではないでしょうか?

前年の9月、Terzoというレベルのクラスから外国人大学スタート。
その時既に週1回だったかな?イタリア文化の授業があり、実はその先生もすごく良かった。
その先生はウンブリア州の小さな街を毎週紹介して色々な美術の話をしてくれていたけど、
始める前にいつも「この町に行ったことが有る人?」と聞いていたのだが、
そのほとんどに行ったことが有った私の事をとても感心していた。
ただ私は語学学校滞在時に、語学学校の餌食(失礼?)になって毎週遠足に行っていたからだったのですが。

当時のペルージャ外国人大学は、Quartoから専門に分かれ、
言語、文化のクラス(もう1クラス有ったかな)に分かれていた。
ほとんどは言語を選ぶのだが、私は美術史を学ぶのが目的だったので、迷いもなくそのコースへ。
それがあれほど大変だとは思いもせずに…

L先生は訛りもきついし、とにかく早口。
現代美術の先生は授業はとても分かりやすいけど、私はこの先生ダメだった。(自分の授業に全然情熱が感じられないの)
そして一番面白いルネサンス期の先生は…ねずみ男。
あっ、失礼。でも思い出したんだよね、みんなでそう呼んでたの。
悪い人ではないし、美術に対する情熱も分かったけど、こちらはL先生とは正反対で、マイク使っていても聞こえないし…
とまぁ何とも個性豊かない教授陣。
まぁフィレンツェ大学も美術史の先生はどの人も個性的ですけどね。

それまでは外国人相手の授業だったので、先生たちもそれなりにスピードを調整したけど、容赦なく捲し上げていた。
当然当時の私は先生の言っていたこと半分も理解できてたかな???
三分の1理解できてたかな???
でもなぜか言いたいことが伝わってきたんだよね。
当時のノートには分からない単語がものすごい数羅列してあった。
こんなだから美術に興味が有る生徒もあっという間に1人消え、2人消え、最終的に私だけに。
数回個人授業を受けたことが有るんですよ私、100人くらい入るでっかい教室で。
なんて贅沢な。
その時は普段の授業ではなくて、先生はその時研究している作品の話をしてくれてたっけ。
だから内心1人になることを期待していました。
先生も私が興味が有ること分かっていたから、本当に色々な話をしてくれました。(残念ながらほとんど思い出せない)
私ね、外国人大学を終了するまで先生の授業は一度たりと欠かしたことがなかったんです。
当時は先生、授業がない土曜日に生徒たちを集めてペルージャ市内を案内してくれていました。
それも欠かしたのは1度だけでした。
もうこんな感じで追っかけみたいな感じでしたね、当時は。

でもこんな私でも当時は先生と話をしたことはなかったんです。
なぜ今のようなことになったか、というと、はてなんで?(笑)
「美術史を勉強したい」と相談した時からでしたね。
あの当時は先生の授業を聞き続けたい、友人もペルージャにしかいない、などの理由でペルージャに残りたいと言った私に先生は
「イタリアから出ろ」と「ロンドンに行け」と言っていました。
当時からこの分野をイタリアで勉強しても、仕事がないことは分かっていましたからね。
「英語できない」と言ったら今度は即
「フィレンツェに行け」と理由は
「日本からわざわざイタリアに勉強しに来て、Provincia(地方)の大学出てどうする。Firenze大学で美術史を勉強したと言えば、世界中どこでも通用する」という理由でした。
先生にとってこの一言はここ数年の外国人大学生活での気がかりだったことの1つだったそうです。
未だに私の事を他の人に紹介する時はこの話してるので…昨日も隣の席の人にしてた。
そしてこれは卒業した時に聞いたけど、「もし君をペルージャに引き留めていたら、卒業にこれほど長い時間かからなかっただろう」って。
まさかそれほど気にしていたとは…申し訳ない。
でもね、先生、それは確かだけど、ここまで引き延ばしてきたのは全て私のせいだから気にしないで欲しいんだけどな。

そして、あれから10年。
フィレンツェまでの電車の中、何度も往復した同じ道のり、そこで私はまた新たな道を探していました。

そして1つだけ思い出したことがあったんだ。
あの時も思ったんだ、いつか先生の著書を私が翻訳したいと。
先生の研究は本当にマニアックで、イタリア人でも決して万人受けするものではないのですが、(キャラも)
最近ツーリスト向けに出したAssisiにおけるGiottoとGiotto派の本を少しずつ日本語にしていこうと思っています。
これが唯一先生の作品で一般の人も興味が有りそう…
文章はそれほど多くないけど470ページです。
とここで宣言しないとまたやらなくなりそうなので。
勿論何らかの形で世に出ればうれしいですが、そうでなくてもいいか、と。
今は時間も有るので、今のうちに。

とそんなことを考えながら無理しても講演に行って良かったと思いながら、昨日は何もせず寝てしまったんです。
本当は卒業後初めての回は、ここまでのちょっと恥ずかしい思い出話で終わるはずだったんです。
まさか今朝こんな残念なニュースが飛び込んでこようとは… 

それは同じくペルージャで、それも私が先生の授業を聞くため(試験1個落としてたのもあるけど)ペルージャ滞在の延長を決めたあの日。
あの日は私イタリア人生において確かに運命の日でした。
そして今朝入ってきたのは、その同じ日に出会った人の訃報でした。

あの日のことは10年経った今でも鮮明に覚えています。
数日後帰国する予定だった私は、家に残っていた日本食などを紙袋に入れて、大学へ向かうところでした。
当時郊外に住んでいた私はいつものようにバス停でバスを待っていました。
すると一人の男性が「君日本人?」と声をかけてきました。
当然「うざ~」と思う私をよそに
「僕の奥さん日本人なんだよ。ここに住んでてね」と
これでピンと来たんです。
以前、同じバス停で降りる日本人の女性と小さな男の子を見かけたこと。
彼女が子供に「降りて、降りて」と言っていたので、こんなところに日本人住んでるんだなぁ、と思ってはいたんです。
でもそれっきり全然見かけなかったんですよね。

その間もこの男性は初対面の私に
「一度ご飯食べにおいでよ」と。
この時私は「もう数日で日本に帰るから」と言っていました。
だって…本当にその予定だったんです。
その数時間後、3か月の滞在延長を突然決め。
ひいてはこの日の決断が10年にも及ぶイタリア滞在につながるなんて夢にも思っていませんでした。

この男性に声をかけられた後、私は当時友人(日本人)が働いていた旅行会社に行くんです。
そこで日本行きのチケットを…変更したんだっけな?買い替えたんだっけな?とにかくここで12月まで滞在を延長することに決めました。
理由は1つだけ落とした音声学の試験を受けなおし、ペルージャ外国人大学の修了書をもらうというのが表向きの理由で、
実際は9月からL先生が始める新しい講義,この時はPanicaleのPeruginoの作品のattribuzione(原作者の推定)の仕方に関する授業を受けることでした。
そしてこの後、大学で待ち合せた友人のところに行く途中、いや、友人と一緒のところへなんとL先生が現れたんです。
まぁ大学内だから普通と言えば普通ですが、あのタイミングであの場所に居なければ…
この偶然も今から考えれば運命だったんでしょうね。
先生に「やはり日本に帰るのやめて授業を受けます」とあの大学の入り口正面の階段下で言ったのがまるで昨日のことのようです。
このあと、その先3か月授業をやる教室を見に行く(プロジェクターが使えるか確認に行った)という先生について行くんです。

この時先生は1度だけ、「何で美術史を勉強したいの?」と聞いてきました。
私は「興味」とだけ答えたんです。
するといつもは私の発言に10倍返ししてくる先生も「興味が有るなら勉強して行けるな」と納得していました。
だって先生自身、研究の源は自分の”興味”ですからね。
ちなみに一緒だった友人たちは私が全然帰って来ないので、どうなったのかと心配していましたっけ。

その後、その日の朝に会った男性の家にご飯に呼ばれ、そこで日本人の奥さんともお友達になったんです。
それから10年、ペルージャに遊びに行ったり、フィレンツェに遊びに来たりと年に数回は奥さんや大きくなった息子さんも交えて会っていましたが、
時々思い出したように旦那さんが
「彼氏はできたか?」
「いつペルージャに来るんだ」などいつも同じことの繰り返しでしたが電話をしてきました。
最後に話をした時も「卒業したら必ず行くから」と返事をしたところでした。

それが昨晩。
年末から体調を崩していたとは聞いていましたが…
あんなに元気だったのに。 
残念でなりません。 

そしてまた人生の儚さも同時に感じているわけです。
仕事を辞めてイタリアに行こうと決心したのは、毎日PCを眺めながら「このまま死んだら私後悔する」と思ったからでした。
ペルージャ滞在延長を決めたのも、先生の授業を聞けなかったことを後悔しないように、でした。
そして、今、次へ進むのは、一体何に後悔しないため?
決断にはまだ少し時間がかかりそうです。
とりとめもない昔話にお付き合いいただき、ありがとうございます。

最後に友人が安らかに眠りにつくことを。
ご冥福をお祈りいたします。 



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2 コメント

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470ページ (Leslie)
2016-02-21 14:57:36
Fontanaさま
とても素敵なお話読ませていただきました。それにしてもアッシジからあの長いみちを走ったって信じられません。470ページ楽しみにしています。これからのご活躍お祈りしています。2833
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ありがとうございます。 (fontana)
2016-02-21 19:28:00
Leslieさん
こういう個人的なことを書くのはどうかと思ったのですが、故人との思い出と共に、なぜ今こうしてここにいるか、どこかに書き留めておきたくて…
ははは、今日も引き続きものすごい筋肉痛です。(笑)
自分にプレッシャーをかけて(そうしないと毎日無駄に過ごしてしまうので)、改めて悔いのない人生を送りたいと思います。
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