イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

天空の楽園Ravello(ラベッロ)その1-両親とぐるぐる南イタリア 4日目

2016年05月23日 12時36分31秒 | イタリアの小さな街・大きな街(Fi以外)

今日は午後から出かけるので、その前にちょっとやる気を出しましょう。
昨日は晴天、夏来た~という感じでしたが、今日は一転、また暗くなってきました。
午後は雨かなぁ…

Amalfiはおいておいて、まずRavello(ラベッロ)に取りかかろうと写真を選んでいた時に気が付いた、
やはりカメラの調子が悪いかも…
実は4月の半ば、オランダにチューリップを見に行って、お昼にビールを飲みながらちょっといい気持になっていた…のかな?
膝にカメラを乗せていたことを忘れ、思わず立ち上がってしまったんですよ。
30センチくらいの高さからですが、カメラをコンクリートの上に落としてしまいました。
見た目、操作などに問題はなかったのですが、なんとなくピントがいまいち会っていないような合っていないような…
う~ん、次回の帰国時にこれは一応修理かな???
新しいの買うのも何だしなぁ(無職のくせに何言ってんだ!)
いくら携帯やタブレットの写真機能が上がっても、やはり美術品を撮る時は一眼レフを使っているんですけどね。

さて、ミノーリで最高の夕食を頂いた翌日、さっさとホテルを出払って、8時過ぎのバスでアマルフィへ戻ります。
もうタクシーは使いませんよ!
幸いホテルからバス停が歩いて2分、時間通りにバスは来ないだろうと外に出たら、なぜかバスが停車しています。
急いでバス停の前に有ったTabacchiでチケットを購入。
一人1.8€でしたよ。
自分でバスの下の格納庫を開け(両親はびっくりしていましたが、自分で開けるの普通です、この国では)バスに乗り込みます。
このバスのお陰で、9時過ぎにはアマルフィに到着。

ここでまずスーツケースを預けます。
幸い父が図書館で借りて来た”地球の歩き方”に情報が出ていた。
あ・・・雨降って来た。
え~と海を背にして左の旅行代理店…あっ、書いて有った「Deposito bagaglio」
中に入ると…こんなに広いのに1人お姉さんがいるだけ。
荷物を預けたい旨を伝えると、「この紙に名前書いて」って
なんだ?とよくわからないまま名前を書く。それも2カ所(私は気が付かず1個しかかかなかった)
するとお姉さん紙を(何でもない普通のA5くらいの白い紙)を半分に切って、半券を私にくれた。
「これが引換券だから」…笑う
スーツケースには彼女がシールで名前を書き、これで終わり。
料金は時間制限有ったのかな?
15時くらいに戻ると言ったら1個5ユーロだった。
お金は引き取り時に払えばOK。
でも珍しく領収書をちゃんと切ってくれて、それで船乗り遅れそうになったけど。

身軽になったところで今度はRavello行きのチケットを買い、バス停へ。
結構大勢の人がバスを待っています。
道が狭いので、バスは小型。
行きも帰りも立っている人がいました。
バス停は海を背にしてバスターミナルの右側、チケットはその前、道路渡ったTabacchiで買えます。
お兄さんが「往復?」とわざわざ聞いてくれたくらいですから、往復買っておいた方が良いでしょう。

バスで1時間はかからないかなぁ…3,40分だったかな?
でもこのバスはまず隣町(というより隣山?)のScalaに先に行ったのと、途中で交通事故が有ったので、それくらいかかりましたね。
天空の楽園に到着です。

標高350メートルからの絶景です。
まだこのBarやってなかったのですが、2013年に来た時

飲んでいました。
今回は素通り…
げっ、ものすごい雨が降ってる。

しかし、誰が何のためにこんなところに街を作ったのでしょうか?
たぶん6世紀ローマの植民地として街が作られたようです。
ローマ人ってホントすごいね。
こんな山の上に街を作ったのは蛮族の侵入に備えるためだったそうです。
ローマ人が山頂に街を作ったのは有名な話ですからね。
それが1000年頃になると、海洋都市アマルフィの貴族たちがここに移り住むようになりました。
その頃がRavelloの全盛期、1086年司教座が置かれることになる。
11世紀にはアマルフィの支配下から抜け独立都市になるも、ノルマン人に征服され弱体化、更に1137年Pisaに攻められてしまいました。

ここでちょっと脱線。
以前からちょっと気になっていて、何度も聞いてた気がするけど忘れてしまったので改めて触れておきたいのが
basilica(バジリカ), duomo(ドゥオモ), cattedrale(カテドラル)の違い。
Basilicaは言語学的言うと”王の家”キリスト教での王はキリストなので”キリストの家”というのが本来の意味。
ギリシャ語のbasileusから来ている。 
この意味で考えると全ての教会はbasilicaと言えることになるが、そういうわけではない。
basilicaと呼べる教会には重要な役割や芸術的な価値が必要になる。
ローマ教皇が発行した教会小書簡によって、他の教会より上位と認められて教会のみbasilicaと呼ぶことができるそうです。 
片やduomoはラテン語のdomus、こちらも”家”を表しています。
神の家、その中でも街で一番重要な”家”をduomoと呼んでいます。
このduomoがもし司教座つまり司教の座る椅子、cattedraを保有している場合は、その教会をcattedraleと呼ぶことが出来ます。
その教会はその司教区で最も重要な教会ということですね。
Firenzeの場合は言わずもがな、Santa Maria dei FioriがDuomoであり、Cattedraleです。
そしてBasilicaはSanta Croce, San Lorenzo, Santa Maria Novellaの3教会です。
日本語の大聖堂は一応Cattedraleに対応しているようですね。 

バス停を降り、トンネルを抜けると左側にVilla Rufoloが有るのですが、そこは後回し。
まずDuomoに向かいます。

S.Pantaleoneに捧げられた1086か1087年に建てられた教会です。
今の形になったのは12世紀、1786年に手直しされています。

初めの見どころは中央の入り口の扉

Barisano da Trani作のブロンズの扉です。
Traniの大聖堂、Monrealeの大聖堂(側面)の扉もこの人の作品です。
彼は人物を浮き彫りにし、好きな模様を押し型を使って繰り替えし使った最初の人なんだそうです。

これはゲルギオスですね。
竜が蛇に見えるのは私だけ?
54枚の羽目板の一枚に

1179年に作られた記述があります。

テーマは聖人とキリスト受難のシーンなどの他にこの中心のように
怪人の顔

が両側にあります。
中に入りましょう。

この時間は明るくていいですねぇ~
身廊の中心くらいに

素晴らしいAmbone、説教壇があります。
これは階段2個だからAmboneでしょうね。
1130年Costantino Rogadeo、Ravelloの2番目の司教によって作られました。
このAmboneはビザンチン様式を反映したものという意味でも、南イタリアに唯一完全な形で残る作品として非常に重要です。

装飾はモザイク、Giona inghiottito e rigettato dalla pistrice,pistriceという海の怪人に飲み込まれたヨナ

と吐き出されたヨナです。

pistriceはギリシャ、ローマの神話に現れる蛇の尻尾を持った海の怪人です。
Nettuno(ネプチューン)の行列とか他の海の神と一緒に現れたり、ギリシャの航海士の地図などには現れたり、ルネサンス時代まで装飾の中に現れています。
またpistrice未知に対する恐怖を象徴する怪人としての意味を持っていた。
カロリング朝時代では狼とウミヘビの混合のような描き方をされているものもあるそうです。

これ、キリストの死と再生を暗に意味しているそうです。
そんなことは、どうでもいいけど(失礼!)かわいい! 

そしてこのAmboneの向かいには
 
Pergamo、こちらも説教壇ですね。
素晴らしい装飾はNicolò di Bartolomeo作、1272年のものです。
ライオンの上にモザイクで装飾されたねじれた柱 

このモザイクを彩る陶器の破片の大部分は13世紀のシリアから持ち込まれたものなんですって。
って本を2冊ほど見たのですが、ここの説明はこれくらいでした。

実はRavelloにはもう1つ気になるpergamoがあります。

S.Giovanni del Toroという教会にあるのですが、現在見ることはできません。
前回もダメでした、はて?何で?と思ってちょっと調べてみたら、なんとこれ2004年からの修復が原因で損傷してしまったそうです。
2014年から繊細な修復の修復が行われることになったそうですが…残念。 

あらら、雨は止んだけど、もうお昼だ。
ということでこの後の話は、次回へ…Buon pranzo!! 



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