「株式会社大日本野球連盟名古屋協会」
チーム名「名古屋軍」
これが中日ドラゴンズの母体になりました。1936年1月15日に東京巨人(1934年12月26日・現; 読売ジャイアンツ) 、大阪タイガース(1935年12月10日・現; 阪神タイガース)に続いて、資本金15万円で設立されました。
きっかけは1934年米選抜チームが来日し、全日本チームが対戦し、 この全日本の選手を中心にした選手19名で東京巨人(株式会社大日本東京野球倶楽部)が結成されました。その推進者だった読売新聞社・正力松太郎さんが新愛知新聞社・田中斉さんに「名古屋で職業野球チームを作るよう、努力していただきたい」という話で決まりました。
方針は「名古屋の球団であり、市民のチームである。新聞社は市民に代わって、その世話をするだけだ」と初代球団副会長の大島一郎さんが語ったそうです。
チーム名は「名古屋軍」 とし、経営にあたったのは新愛知新聞社でした。
この当時、名古屋地区にはもう一社新聞社があり、それが名古屋新聞社でした。その名古屋新聞社が1936年2月28日に創設したのが「名古屋金鯱軍」です。
名古屋軍=新愛知新聞社
金鯱軍=名古屋新聞社
♪ ああ、ややこしや ♪ですよね。よりによって、ライバル新聞社の名前でプロ野球チームを作ってしまうのですから、まるで最近の某国の商標登録問題のような感じですが、これには大きな理由がありました。
1935年11月1日の名古屋新聞に「東洋一 金鯱軍の組織」という見出しでシャチホコの形のチームロゴとともに発表されていたそうです。それに対して、1935年11月17日の新愛知新聞でチーム創設の社告を出し、その後「金城軍」という仮称が出ました。
金鯱 vs. 金城
♪ ああ、ややこしや ♪ですよね。で、結局、紆余曲折の末に「名古屋軍」という名称に決まりました。
「名古屋らしいということの一つ。名古屋というのは二つあると潰れる。かと言って、一つはあった方が良い。街に育てられるのです。そういうものの一つがドラゴンズだと思う。愛される球団でなければいけない」
これは大島さんの名古屋論です。 その名古屋論のとおり、1941年に相次ぐ召集で選手が不足する中で金鯱軍は同様に選手数が不足していた翼軍と合併して、大洋軍(現在の横浜DeNAベイスターズとは無関係。1944年に解散)を結成しました。また、戦時下による新聞統制に伴って1942年に両社が合併し、中部日本新聞社(現; 株式会社中日新聞社)が設立されました。
それ以降、1943年にチーム名を産業軍(理研工業が親会社)となったものの、1946年2月1日のリーグ戦再開に伴って中部日本新聞社が経営に復帰し、株式会社中部日本野球倶楽部を設立し、チーム名を中部日本として再出発。1947年のニックネーム導入にあたり、3月10日当時のオーナーだった杉山虎之助さん(中部日本新聞社社長)の干支である辰の英訳「ドラゴン」から球団名を中部日本ドラゴンズに改称。1948年にチーム名を中日ドラゴンズに改称し、戦後日本の復興と名古屋の街に育てられ、成長してきました。
そして、今年、80年を迎えました。
余談ですが、正力さんが当初推し進めていたのは日本職業野球連盟です。田中さんが設立したのは別の大日本野球連盟です。つまり先に設立された東京巨人と大阪とは別に、名古屋、東京、北海道、新潟を本拠地にして、配下には3Aに相当する下部組織を作るなどの、別リーグを作ろうとしていました。結局は北海道と新潟にはチームが出来ず、日本職業野球連盟に加盟することとなりました。
また、新愛知新聞社の子会社の國民新聞社(現; 中日新聞社)によって、同じ1936年2月15日に東京都で大東京軍を結成しています。大東京軍はその後、ライオン軍、朝日軍、パシフィック、太陽ロビンス、大陽ロビンス、松竹ロビンス、大洋松竹ロビンス、大洋ホエールズとなりました。そして、横浜ベイスターズ、横浜DeNAベイスターズとなりましたが、松竹ロビンスと旧・大洋ホエールズの合併は実質的には大洋ホエールズに吸収合併された形となり、大東京軍~松竹ロビンスの系統は“消滅球団”として扱われることになってしまいました。
さて、プロ野球の発展とともに多くの人々にはかり知れない「夢と希望」、「勇気と感動」を与え続けてきた我らが中日ドラゴンズ。
激闘の80年は選手の魂の歴史です。
その想いは脈々と現代の選手に受け継がれています。熱き闘志を胸に秘め、共にここから戦おう。
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まっくろくろすけ
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