水戸南高校は茨城県水戸市白梅にある県立高等学校で、茨城県内で唯一となる、全日制の課程と併設でない定時制の課程と通信制の課程を置いています。公立の広域通信制高校は全国でここだけになります。
以前は定時制高校では全国唯一の硬式野球部が甲子園を目指して予選に出場していました。
今は、硬式野球部はなく、軟式野球部が全国を目指しています。
現在、同じ県内の私立水城高校の校長先生である山野隆夫さんは、高校時代は水戸第一高校で野球をやっていました。大学では野球はやりませんでした。その後、高校教師となり、若いころに水戸南高校に赴任しました。
山野さんが水戸南高に赴任した時には野球部監督は他の先生でしたが、この先生が転勤となり、山野さんは土下座までされて、仕方なく野球部監督を引き受けることになりました。
水戸南高野球部は県内でも弱小チームであり、部員は体がひょろひょろで、キャッチボールも上手く出来ず、野球をやるようなレベルではなかったそうです。でも、練習には来ます。部員たちのグローブも軟式用だったり、ボールもボロボロのものが20個あるだけという状況で、硬式は危ないから軟式にしようと説得したら、部員たちが硬式にこだわって受け入れなかったそうです。
そのような環境の中でも部員たちは必死に練習をしていたそうです。部員は朝5時か6時に起きて仕事をし、昼間働いて、夜学校へ来ます。職場は印刷所だったり工場だったり、立ち仕事で身体を酷使する場所でした。疲れた体でやって来て、夕方から授業を受けます。その後、また夜の9時から11時まで野球の練習をして帰ります。家にたどり着くとご飯も食べられないほど疲れて倒れ込んでしまうという。そんな毎日を、辛いとも苦しいとも言わず、送っています。
ある日、山野さんはこう思ったそうです。
「何でコイツらはこんな辛い思いをして、毎日野球を続けるんだろうか? 勝ちたいからなのか? それとも、単純に野球が好きだからなのか?」
前任監督の義理だけという状態で、毎日グランドに立つ自分自身が正直辛かったそうです。そして、山野さんはある時、部員たちに問いかけたそうです。
「お前ら何で硬式なんだ? 今まで野球やったことあんのか? 金もかかるから軟式で良いんじゃねえのか?」
その返事に山野さんはショックを受けたそうです。
「野球は夏の大会の前に出場各校の部員全員の名前が新聞に載ります。また、球場に行けば、写真入りの冊子に自分が載ります。軟式は分からないけど、硬式は確実に載るんです。だから、僕たちは野球で頑張っているんです」
山野さんは意味が判りませんでした。そして、それは誰に聴いても同じような返事でした。
「どうして新聞や冊子に名前が載るのが良いんだ? そんなに載りたいのか?」
すると、部員たちはこう言いました。
「父ちゃんか、母ちゃんが、新聞や冊子を見て、俺の名前を見つけてくれるかもしれないと思って」
実は野球部員のほとんどが、近くの孤児施設出身の子どもたちだったそうです。顔も知らない、記憶にも無いけど、本当の親に会えるかも知れないと思い、大きなチャンスだと思っていたそうです。
山野さんは野球のレベルのことを考えたり、義理で監督を引き受けたりしていた自分が情けなくなり、自分を恥じたそうです。
それからは、山野さんは母校関係者からボールを集め、朝練も始め、夜の練習にもより一層熱が入りました。また、ユニフォームも無かったので寄付をお願いしたそうです。
しかし、その夏、水戸南高は0-38で一回戦で敗れてしまいました。
でも、山野さんは恥じる気持ちなどなく、部員たちを誇らしく思ったそうです。この時の体験が山野さんの原点となり、「野球はすべてを結集させる」という信念が生まれたそうです。
その後、山野さんは荒廃し、野球部も休部状態だったような高校を、野球の力を使って立て直したり、その信念を貫きとおしてきたそうです。
なお、この年の「毎日グラフ」の高校野球特集として、日本全国の数千校の高校から三校が特集されました。
「原辰徳を擁して人気と実力を誇った東海大相模(神奈川)」、「日本一東大に進学する灘高校(兵庫)」、そして三校目は水戸南高校だったそうです。
好きだから、上手くなりたいから、大学やプロで野球をやりたいから・・・一人ひとりいろいろな理由があるとと思います。
でも、自分が生きている証を見つけたいという理由もあるのです。
私たちがその内面までを知る由もありませんが、野球であろうが、何であろうが、必死にやっている姿は、時として他人の考えを変えることが出来る力を持っているのですよね。