野球小僧

野球を始めた理由

野球を始めた理由は野球が好きだったから。
テレビ見たプロの選手に憧れたり、甲子園でプレーする高校球児に憧れたり。
試合を観ていた感動を自分でも感じてみたくて。

ひとそれぞれの理由があります。そんな一つの物語です。
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今でもハッキリ覚えてる。
幼稚園の年長のとき、幼稚園のバスで帰り、「ただいまー!」と入っていったけど、いつもの「おかえりー!」の声がなかった。
なんだかヒンヤリした空気のなか、「お母さん!」「お母さん!」と母を探してみたのに…お母さんはいなかった。
同居していたおばあちゃんに「お母さんがいないんだ」と伝えると、おばあちゃんも、そこにいたお父さんも「どっか行ったんでしょう」「帰ってくるだろう」と。

でも、お母さんはかえってはこなかった。
お母さんに何があったかのかは、ぼくにはまったくわからない。
二つ年下の弟が「お母さんは?」と聞いたきたけれど、「わからない」とぼくがいうと、当時三歳だった弟も何かを察したのか、それから何も聞かなくなった。
ぼくもお父さんやおばあちゃんに何も聞かない。
いや、聞けない。
お父さんやおばあちゃんも、お母さんのこと話は一切してこない。家の中で「お母さん」という言葉はまったく出てこなくなった。

それから、家のことはおばあちゃんがすべてやってくれるようになった。朝ごはんも、お弁当も、夕ごはんも、掃除も洗濯も、いろんな準備も。生活面での不自由はなかったような気がするけど、さびしかった。
お母さんはどこに行ったんだろう…。

小学校では、授業参観や運動会が嫌いだった。
みんなお母さんが来ているなか、うちはお父さんかおばあちゃんが来る。
「来ないで!」といったけれど、それでも来て、みんなに「お母さんは?」と聞かれてしまう。ぼくは、平然とした顔をして「いなくなっちゃったんだ」と答えていた。

授業で“お母さんに手紙を書く”というやつがあって困ってしまったので、手をあげて担任の先生に「先生! お母さん、幼稚園のときにいなくなっちゃったんです。だから先生にお手紙書いてもいいですか?」といった。
母がいなくなってからだいぶ経っていたから、ぼくはもう全然大丈夫だったのに、それを聞いた先生が泣いてしまって大変だった、なんてこともあった。

そのころ、父から野球のグローブを手渡された。「お前、野球やるか!」「はい!」。父はすごく怖い人だったからとっさに返事をしてしまったけれど、野球なんて本当はやりたくなかった。
でも、父はかつて名門高校で甲子園の土を踏んでいる。ぼくも甲子園にいかせようと、またプロ野球選手にさせようと、毎日練習をさせるようになった。

それはハンパな練習ではなかった。自営業の父は、ぼくが学校から帰ってくるのを待ち構えていて、午後二時ごろから七時くらいまで永遠にバットをふらせるんだ。うまくできないと、ボールが飛んでくる…超スパルタ。友だちと遊んだ記憶がないほど毎日野球漬けでの日々。弟も小学生になっていっしょにやらされた。

そんなある朝、突然、父に「甲子園に行くぞ!」と連れていかれた。父の母校が春のセンバツ甲子園の決勝に進んだからだった。
スタンドにはたくさんの人がいて、みんなが大声援を送るなか、父の母校は甲子園で優勝した。

そこで思ったこと…。

甲子園に出たい。そうしたら、これだけ多くの人がスタンドでみているんだ、テレビを通じて大勢の人が見ているんだ。
いなくなってしまったお母さんが、ぼくを見つけてくれるかもしれない!
ぼくに気づいてくれるかもしれない!

甲子園から戻ると、今まで無理やりやらされていた野球を、自ら進んでやるようになった。中学では全国屈指の強豪シニアに入り、体はおおきくなかったけれど、レギュラーになって活躍した。三年春の全国大会では三位、夏の全国大会で日本一にもなった。父の母校からも声はかけてもらったが、中一のときから声をかけてくれていた県外の高校に進学することを決めた。
シニアの監督からは「せっかくお前のオヤジさんの高校から誘ってもらっているんだからそっちに行けよ」ともいわれたが、父は「後悔しないように自分で決めろ」と。
それに地元は激戦区すぎて甲子園に出られるかわからない。それならば、ライバル校の少ない地区にある強豪校に進んだほうが甲子園に出られる確率が高い。
甲子園に絶対行きたかったから、県外の強豪校にしたんだ。
その高校の野球部は厳しくて有名で、それなりに大変だったとはいえ、小さいころから父のスパルタで練習してきたから、そんなに苦しいものではなかった。

ただ、試合のときなど、みんなのお母さんが応援に来たり差し入れを持ってきてくれたりするけど、ぼくはいないから…。それがイヤなのではなくて、そこに同情されたり、気を遣われるのがすごくイヤだった。母がいないことは全然平気だったけど、変に気を遣われると、逆にとても傷つくんだ。
その点、高校の監督さんは、ぼくを何の特別扱いもせず、普通に厳しく接してくれた。それがすごくやりやすかったし、その厳しさに応えてやろうって思えた。

二年になったとき、かわいがっていた後輩のオヤジさんが急逝した。ちいさいころから二人三脚で練習していたというオヤジさんを亡くし、彼はすぎくショックを受けていたけれど、それでも練習を超がんばっている。それを見て、衝撃を受けた。ぼくはお母さんと離ればなれになっているとはいえ、どこかで生きているはずだ。

きっと会える。

だから、もっとがんばらなくては。

そうして迎えた二年夏、ぼくらの高校は県大会決勝まで進んだ。ぼくはバッティングが絶好調で、そこまで六割近い打率を残し、ノリにノっていた。そんななかでの決勝戦。相手はプロ注目のピッチャーだったが、初回、ランナーをおいてまわってきた打席で、ライトに先制二ランを打ったんだ。あのときは体がふるえた。

試合は四対〇で勝ち、甲子園出場を決めた。

試合後、記者たちにこういった。「ぼくにはお母さんがいないんですけれど、甲子園で活躍することで見つかればいいなって思っています」。県内の新聞で取り上げてくれたものの、お母さんはきっとこの件にはいない…甲子園に出て活躍しなければ!

でも、甲子園ではあっさ負けた。初戦敗退。

それから一年後の三年夏、今度は予選で気負いすぎてしまったのか、一本もヒットを打てず…仲間の力で甲子園へ。甲子園ではまた初戦で敗退してしまった。

ぼくの高校野球の終わり…。

甲子園に出たにもかかわらず、お母さんは現れなかった。甲子園の宿舎で、甲子園の出口で、お母さんがぼくを待っていてくれるんじゃないかなんて思っていたけれど、そんな夢のような話があるわけないよな。

甲子園に行ってもダメならば…プロ野球選手になろう。
そうしたらきっと、お母さんと会えるはずだ!

そんな強い志のもと、ぼくは大学でもレギュラーとして活躍することができた。
一時期、試合に出られないこともあったけど、「プロになってお母さんに会う」という目標があったからこそ、はい上がることができた。仲間に恵まれたこともあり、四年間で春秋通算五度のリーグ優勝、五度の日本一。

何度も何度も神宮で試合をするうちに、気になっていることがあった。それは、ぼくらのベンチの上のあたりで、毎試合見ている女性がいることだ。

試合が終わればスッと帰っていくけど、いつも同じ場所で観ていたから、みんななんとなく気になっていた。トレーナーさんは、「だれかの親じゃないの? 親みたいな視線で見ているよね」と笑っていたが、みんな「知らない」とクビを横にふる。

もちろんぼくも「知らない」。

ある試合後、その女性から「いっしょに写真を撮ってください」と頼まれ、ツーショットで撮ったことがあった。「これどうぞ」と差し入れをいただいたことも、また、野球の本をいただいたこともあった。
ぼくにもファンができたのかな…。

そして、大学四年秋のリーグ戦の最後の試合が終わった日、その女性からぼくは手紙を渡された。「バスに乗ってから読んでください」と。みんなに冷やかされるなか、「あざーす!」と軽く会釈をしてバスに乗り、出発してからその手紙を開けてみた。

すると、そこには、まさかの内容がつづられていたんだ。

「わたしはあなたの母です。離婚して、あの日まだ小さかったあなたと○○(弟)の二人を置いて家を出てから、二人を忘れたことは一日たりともありませんでした。○○(弟)は記憶にないと思うけど、あなたなら覚えていると思って手紙を書きましたが、渡すかどうか本当に迷いました。今さらなんだと思っているでしょう。私のことをうらんでいると思うけど、もし、許してくれるのならば、一度連絡をください。お願いします」

叫んだ。
「あの人、オレの母ちゃんだった!」
まわりのみんなが「またまた!」「何いってんだお前!」と笑うなか、ぼくは「ほんとだよ、ほんと母ちゃんだったんだよ!」。大泣きした。
みんなはビックリしながらぼくを見ていたけれど、まわりなど関係なく、涙でボロボロになりながら手紙を何度も何度も読み返していた。

家に帰ると弟に連絡をして、二人そろったところで電話してみた。電話の向こうで、その人…お母さんは号泣していた。「ごめん…ほんとにごめんね」と。

どんな言葉づかいをしていいのかわからなくて、「大丈夫ですから。うらんでなんてないですから。逆に手紙ありがとうございます」と敬語で話していた。
本当に母をうらんだことなんて一度もない。さびしかったけれど、お母さんにはお母さんの理由があったんだ、それよりも、こうしてぼくのところにきてくれたことにお礼を伝えたい、そんな気持ちでいっぱいだった。

その数日後、お母さんと弟と三人で食事をした。小さいころの写真も初めて見た。どんどん当時の思い出がよみがえってくる。いろんな話をするなかで、「どうしていなくなったのか」なんて聞かなかったけれど、「どうしてぼくを見つけてくれたのか」ということだけは知りたかった。するとお母さんはこういった。

「たまたまテレビをつけたら甲子園をやっていて、あなたが出ていたのよ。野球をやっていることも、その高校に進学していることも知らなくて、ほんとに偶然テレビで見たの」

涙が出た。お母さんに会うためにやってきた野球、お母さんに会うためにめざしてきた甲子園。まさか本当にお母さんが見てくれていたなんて…。

二年夏のたった一試合の甲子園でぼくに気づいてくれたお母さんは、翌夏の甲子園もテレビの前で応援してくれたそうだ。お母さんは、ぼくが二塁打を打ったところも見ていてくれたんだ。そして、あのとき、試合後の記事で「大学野球を続ける」と書いてあったのを読み、それから四年間、ぼくの試合をずっと見続けていてくれたそうだ。

しかし、子どもをおいて家を出ていった以上、簡単には子どもたちのところに顔を出せなすことはできないと思っていたらしい。

また、野球でがんばっているところにじゃまをしたくないという気持ちもあって、最後の最後まで身を明かせなかったそうだ。

ぼくは…さらに上の社会人で野球をやることも考えていたけれど、そこで野球はやめた。「野球が好き」というよりは、「お母さんと会うため」にやってきたから。
目標がクリアされた今、やる意味がなくなちゃったんだな。普通に就職し、野球からは離れた。重い荷物を背中から降ろしたような感覚だった。

その後、母とは、たまに合っている。
小さいころに何度も行った母の実家にも行ってみた。ぼくと弟が行くと、おじいちゃんとおばあちゃんが泣きながら家から飛び出してきて歓迎してくれた。手料理をふるまってくれ、母の料理も食べた。その味がなつかしくて…美味しくて…ちょっとウルっときた。寮メシで炉0るキャベツが出てきたときに懐かしい感覚がしたんだけれど、それは、母がよくつくってくれたからだった。そんなことも思い出した。

野球がすごく好きだったわけではないけれど、野球があったからこそ母に会えた。
野球を授けてくれた父、小・中学生時代、毎週弁当をつくりつづけてくれたおばちゃんにも感謝しつつ、ぼくは今までとは違う、背負うもののない人生をスタートした。涙をぬぐって…。

岩崎夏海「甲子園だけが高校野球ではない ここで負けてしまってごめんな」 より

コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。
そうです。「もしも、ドラゴンズが十連覇したなら」です。あれ?

実在する話とのことです。高校野球から探すのは難しかったですが、この条件に当てはまる大学チームはありました。

100人いれば100の理由があるでしょう。でも、みんな野球が好きなのですよね。

又〇選手が何回救援失敗しようが、応援続けます!!
永遠の野球小僧で居続けます・・・
eco坊主
おはようございます(*Ü*)ノ"☀

この物語はノンフィクションなのでしょうか?
岩崎夏海さんって「もしドラ」の著者ですよね、確か!?

始めた理由は人それぞれだと思いますが、必然性があったのでしょう。
私は何だったんでしょうかね~
今となっては忘却の遥か彼方です(・・;)

でも、(最終回2連続暴投しようが)野球っていいもんです!!
永遠の野球小僧で居続けたい・・・
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