北海道・砂川北高(現;砂川高)、鵡川高の硬式野球部で監督を務め、両校を春夏6回の甲子園出場に導いた佐藤茂富さんが静かに人生の幕を閉じました。
「元気」・「本気」・「一気」を信条とする「三気野球」を指導理念とし、北海道の高校野球界を50年以上にわたって盛り上げてきました。
岩見沢東高、道学芸大札幌校(現;道教育大札幌校)ではピッチャーで活躍。卒業後は栗山高を振り出しに指導者の道を歩ん出来ました。1971年に砂川北高の監督となり、選抜大会1回、選手権大会2回の甲子園出場。1997年に鵡川高へ赴任し、選抜大会3回の甲子園出場を果たしました。その後、2012年夏からは総監督として指導にあたり、2014年に勇退していました。
(この画面キャプチャは佐藤さんが監督時代、最後の甲子園出場となった2009年第81回選抜高校野球大会に出場する鵡川高硬式野球部が、北海道庁に知事訪問した際のものです)
ひたむきな熱血漢な方です。「三気野球」をモットーにして、砂川北高、鵡川高を春夏6回の甲子園に導き、通算3勝を挙げています。追い求め続けたのは、「究極の全力疾走」と「打ち勝つ野球」でした。当時としては珍しく、バントはめったにさせませんでした。
鵡川高を率いて21世紀枠で選抜出場した2002年の第74回選抜高等学校野球大会。一回戦は兵庫・三木高に12-8で勝利。二回戦で広島・広島商業戦で0-1とリードされた9回にノーアウト二塁のチャンス。しかし、当時の高校野球でのセオリーのバントではなく強攻策に出て失敗に終わり、そのまま惜敗してしまいましたが、選手も納得の上で、最後まで「武士道野球」の信念を貫いていました。
また、野球だけでなく生活面でも礼節を重んじています。「大きな声でのあいさつ」、「身だしなみ」はもちろんのこと、日頃から「徳を積め」と説き、選手には街のゴミ拾いなど定期的にボランティアをさせてきました。
佐藤さんの人間性にほれ込んだ人も多く、徳島・池田高など北海道以外の強豪校や大学、社会人の練習にも出向き、全国に交流の輪を広げました。砂川北高時代の1984年第56回選抜高等学校野球大会では一回戦で大阪・PL学園高と対戦し、7-18で敗けましたが、これをきっかけに両校で交流が始まり、桑田真澄さん(元;ピッツバーグ・パイレーツなど)とも懇意になりました。
石狩南高硬式野球部の高草木穣監督は佐藤さんの教え子になり、「佐藤先生の精神は今でも色あせないし、無くしてはいけない」と話しています。
鵡川高から2002年プロ野球ドラフト7位で日本ハムファイターズに入団した池田剛基さん(現;足寄高硬式野球部コーチ)は「受け止められない」と言い、引退後にファイターズアカデミーで指導に就く際に、佐藤さんから、「お前程度が教えても、お前程度の選手しか育たない」と厳しい激励をもらったそうです。「今の自分があるのは先生のおかげ」と言えるそうです。
1992年選手権大会に砂川北高で出場したときの横山泰之さん(現;道高野連専務理事)は「豪快な方だった。あまりにも急すぎる」。2009年までの8年間、鵡川高硬式野球部で部長などを歴任した、滝川西高硬式野球部の小野寺大樹監督は「お風呂の入り方から『人間教育とは』を教わった。別れるのはつらい。もっと見て欲しかった」と、早過ぎる別れに悲しんでいます。
現在、鵡川高硬式野球部で指揮を執る鬼海将一監督は、鵡川高で2002年の選抜大会初出場時のエースでした。「頭の処理が追いつかない。僕にとっては父を亡くしたような思い」と、高校3年間、佐藤さんと野球部寮で息子のように育ててくれた恩師の訃報に悲しみました。
2018年9月の胆振東部地震で寮が半壊したものの、監督就任した際に佐藤さんから書いてもらった壁に飾った3枚の色紙だけは微動だにしていなかったそうです。「あの時、先生の目に見えない力を感じた」そうです。今夏は10年ぶりに南大会出場し、その出場報告が佐藤さんとの最期になりました。
佐藤さんの熱い思いは、後世に引き継がれ、きっと天国からいつまでも高校球児を見守り続けていくことでしょう。
ご冥福をお祈りいたします。