今夏限りでの休部が決まっている、大阪・PL学園高が初戦で強豪の東大阪大柏原高に敗れ、その輝かしい歴史にいったん幕を閉じることになりました。
PL学園高野球部は1956年に創部。1962年の選抜大会に甲子園初出場を果たしました。1970年の選手権大会は神奈川・東海大相模高、1972年の選手権大会も東京・桜美林高に敗れて準優勝でしたが、12度目の甲子園出場となった1978年の選手権大会で愛知・中京高との準決勝を延長12回サヨナラ、高知・高知商高との決勝を9回サヨナラと土壇場での大逆転劇で制して初優勝し「逆転のPL」と呼ばれるようになりました。
1980年代に入ると、黄金時代を迎え、桑田真澄さん(元; 読売ジャイアンツ)、清原和博さん(元; オリックスバファローズ、ほか)の「KKコンビ」を軸に人気、実力共に高校野球の頂点を極めました。
1985年 第67回選手権大会決勝
宇部商 010 002 000 |3
PL学園 000 111 001×|4
(宇)古谷
(P)桑田 (本)清原2
朝日放送で実況を担当していた植草貞夫アナの有名な実況「甲子園は清原のためにあるのか」と叫んだ試合です。清原さんが4回、6回に二打席連続で同点ソロホームランを放ち、大会新記録のホームラン5本を記録しました。試合は九回、松山さん(元; オリックスバファローズ)のヒットでサヨナラ勝ち。
その後も甲子園で好成績を収め、1998年の選手権夏には松坂大輔選手(現;福岡ソフトバンクホークス)擁する神奈川・横浜高との延長17回など、甲子園名勝負にも数えられる試合でファンを魅了し、プロ野球選手も数多く輩出してきました。最近は2009年の選手権大会を最後に甲子園出場はなく、不祥事が相次いだことや学園の方針もあり2015年度から新入部員の募集を停止し、この大会で休部となります。
甲子園には選抜大会に20度出場し3度優勝(通算48勝17敗)、選手権大会は17度出場し4度優勝(通算48勝13敗)。
選手権大会に3回出場した東北地方の古豪野球部の福島県立双葉高野球部が9日に90年余の野球部史にいったん幕を下ろしました。2011年の東京電力福島第1原発事故で、2017年4月から無期限の休校となるためです。原発事故後避難先で授業を続けてきましたが、生徒が減り、部員数も減り、他校と連合チームを組み大会出場を続けてきましたが、休校が決まってしまいました。
1973年。この年のチームは小柄な選手が多かったそうです。しかし、パンチ力はあり、一度打線に火がつくととまらなくなり、「アトム打線」とか「メガトン打線」などと言われていたそうですが、甲子園では初戦敗退。
第55回全国高校球選手権福島県大会
学法石川 010 000 000 |1
双葉 010 000 10x |2
第55回大会は記念大会の為、一県一校が甲子園に出場出来ました。双葉高のエースは渡辺さん(州)、対する学法石川高は速球派のエース遠藤さん(元; 横浜ベイスターズ)の投手戦でした。緊迫の中、双葉高が7回裏に上げた1点を守りきり甲子園初出場を決めた。
1980年。新チームを結成以来、県内の公式戦では負けなし。そして2回目の甲子園では初勝利をあげ、校歌を歌うことが出来ました。
1994年。一人一人の能力は高くありませんでしたが、守りとバントを駆使した機動力野球で、"甲子園で勝つ野球"を目指し、3度目の甲子園出場と甲子園2勝目を挙げました。
最後の試合は三年生2人が他校との連合チームで出場。降りしきる雨の下、スタンドで大勢のOBが声援を送ったそうです。
甲子園には選手権大会に3度出場(通算2勝3敗)。
各々、休部になる理由は違いますが、最後のユニフォームを着ていた選手は、自分たちの所為でこうなった訳ではないのが悔しいことだと思います。
また、そのユニフォームを次世代に繋げていくことが出来ないのも辛いことだと思います。
でも、最後の野球部員として、誇りに思ったらいいです。
そして、伝統をまだ見ぬ未来へ繋いでいって欲しいと思います。
≪ その他球場の二回戦の結果 ≫
上田県営球場
東海大諏訪 10-3 屋代
塩尻志学館 19-1 長野高専 (5回コールド)
大町岳陽 14-2 長野南 (5回コールド)
伊那北 3-4 松代
長野県営球場
明科 8-9 岡谷東
丸子修学館 5-1 辰野
松川 0-10 創造学園 (5回コールド)
諏訪湖スタジアム
松本美須々ケ丘 9-7 須商・園芸・創成
須坂 6-1 岩村田
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