夏の甲子園の開会式では兵庫県西宮市立西宮高校の女子生徒がプラカードを手に行進するのが慣例になっています。
ゆかりさんはTVで開会式を観るたびに、あの夏のときめきが蘇って来るそうです。
プラカードを持ったのは1982年の西宮高三年生のときでした。その時は早稲田実業高校の荒木大輔さん(元・東京ヤクルトスワローズ)が甲子園のアイドルとして人気でした。プラカードの担当を決めるくじ引きで「早実を」と祈りましたが、岡山・関西高校で、ちょっとがっかりしたそうです。
開会式前日の予行演習。関西高の主将・土井睦さんに出会い、ひと目ぼれしてしまったそうです。
ゆかりさんは試合前、宿舎で選手たちに、それぞれの背番号を縫いつけた手づくりのお守りを手渡しました。そのときのゆかりさんの眼差しに気づいたチームメートが「たぶん、お前のだけ違うぞ」とはやし、土井さんからお守りを取り上げ、中をのぞくと、ゆかりさんの住所と電話番号を書いた小さなメモが入っていました。
土井さんは初戦で敗れたその晩(お守りの中をのぞくからでしょう)、「あした帰る」と電話しました。そして、誘いあって、この年の決勝をスタンドで見たのが初デートだったそうです。ポケットベルで連絡しあい、月3万円の電話代の長距離恋愛が始まりました。
土井さんは卒業後に旅行会社に入り、岡山代表チームの応援団の添乗員になって甲子園へ。ゆかりさんは大阪の会社に勤め、恋人と観戦するという甲子園デート。
そして、出会いから4年。土井さんはお父さんがガンで亡くなる直前、枕元にゆかりさんを連れていき、「僕たち結婚するよ」。お父さんは「こんなやつと一緒になると苦労するよ」と、ゆかりさんにほほ笑みました。
土井さんは現在、損保会社勤めの合間に少年野球の監督をしているそうです。ゆかりさんは高校生の息子と小学生の娘の母になっているそうです。
「運命の糸? 甲子園が縁結びしてくれたのかな」
市西宮高女子生徒がプラカードを持ったのは戦後の1949年になります。
初代プラガールの北村玲子さんは、初出場の神奈川・湘南高校を受け持ちました。チームにはのちに高野連会長になる脇村春夫さん、プロ野球解説者の佐々木信也さんらがいました。
「浜風が強くて帽子をゴムひもでとめた。歩くコース間違えちゃいけないって、もう必死」
野球のルールも知らなかった北村さんでしたが、ネット裏から試合で声援を送り続け、湘南高は逆転、逆転でついに優勝を果たします。北村さんは選手たちから女神のように慕われました。優勝祝いにと両親からアメを持たされ、湘南高の宿を訪れ、アメとサイン帳をわたすと、みんな名前と住所を書いてくれました。
1995年1月18日。北村さんは阪神大震災に遭いました。
「大丈夫ですか」と湘南高のマネージャーだった栗林稔さんが突然、作業服姿で訪ねて来ました。神奈川から水道復旧の応援にきて、安否を気遣い、年賀状の住所をたよりに立ち寄ったのでした。
「うれしかった。紅顔の美少年だった人の中には、すっかり変わった人もいるけど。おつき合いが続いているのは、甲子園という舞台で同じ時間を過ごしたから」
北村さんはTVで甲子園を観ていて、湘南高の主将・田中孝一さんからもらった短冊をふと思い出します。鎌倉にいた俳人・高浜虚子さんが湘南高の優勝を喜んで筆をとり、庭師をしていた田中さんの親類に託したものです。
「秋風や最美の力唯盡(ただつく)す」
そう読める達筆の短冊を押し入れから出し、座敷に飾ると、球音が聞こえるようで、心が躍ったそうです。
プラカードガールは例年、二年生が務めます。7月に校内オーディションがあり、二年生の応募率は毎年9割を超えるそうです。
オーディションで生徒は、プラカードに見立てた竹の棒を持って歩いて、選考は姿勢やリズム感が重視されるそうです。
「プラカードを持って甲子園を歩きたい」と、そんな憧れを持って入学する女子生徒は多いそうです。過去には祖母・母・本人の親子三代や4姉妹で、プラカードガールを務めた生徒もいたそうです。
今年の夏も、市西宮高の伝統が甲子園に刻まれるとともに恋バナも・・・