1877年(明治10年)7月に倉真村(現在の掛川市倉真)に私塾「冀北(きほく)学舎」を設立したのが起源とされ、1901年6月1日に静岡県立掛川中学校として開校しました。
「西高(にしこう)」、「掛西(かけにし)」と呼ばれ、文武両道を旨として、静岡県内では高校野球の名門校です。
夏5回、春3回の甲子園出場経験を持つ掛川西高野球部は、学校創立とほぼ同時期に文芸、会計、撃剣、柔道、フットボールなど11部とともに校友会として設立されました。
ただ、当時は部員も少なく、他校から“挑戦状”をもらうと、柔道部や庭球部などから野球好きの生徒を集めて、にわかづくりのチームで対戦していたようです。
大正時代の後半から、野球部は実力をつけ、静岡中には及ばなかったものの、浜松中とは肩を並べるまでに成長しました。それでも静岡中との選手層の差は大きく、掛川中は毎年一回戦敗退という低迷期が続きました。
1934年(昭和9年)のこと。県大会の尋常高等科部で二連覇の快挙を遂げ「藤枝に快速球児あり」とうたわれていた村松幸雄さん、甲子園を目指す掛川中に入学しました。
当時、監督の自宅離れで下宿生活を始めた村松さんの印象を四年先輩が語っています。
「ひょろひょろっとして、背だけは高い。県大会制覇といってもたかだか小学校。どんな球が投げられるか、と入部早々キャッチボールをしたんだ。ところが、右のオーバーハンドから繰り出す直球の速いったらない。今でもミット越しの手の激痛を覚えている」
野球好きだった父や兄の影響で、幼いころから野球に親しんでいた村松さんは、小学校五年で身長が170cm近くあり、大人顔負けの直球を投げていたそうです。「スナップ練習のため、父親のたばこの銀紙を丸めてボール代わりにし、自宅近くの蓮華寺池の周りをランニングしていたようです」と義姉は幼いことの村松さんを語っていました。
掛川中ですぐにレギュラーとなった村松さんでしたが、その年の県大会三回戦で強豪・島田商に0-17と大敗。試合後「悔しかったら練習量で負けるな」との監督のゲキに発奮し、その日から“打倒島商”を合言葉に猛練習に励み、村松さんが最終学年となった5年後の1938年第24回全国中等学校優勝野球大会に念願の甲子園初出場を果たし、この大会の選手宣誓も務めました。しかし、試合は一回戦で香川・坂出商業と対戦し、0-2で敗退してしまいました。
「点を与えなければ負けない」と村松さんが甲子園に出場した時の監督だった小宮一夫さんの教えは、戦後も受け継がれ、1964年第46回大会一回戦で熊本・八代東高と戦った掛西野球部は、守りに守り抜き、0-0のまま延長十八回引き分け、翌日再試合となりました。翌日の再試合では初回に2点を先制されたものの、その裏に逆転し、6-2で二回戦にコマを進めました(二回戦で後の広島東洋カープの“鉄人”衣笠祥雄さんを擁する京都・平安高に3-5で惜敗)。
村松さんは卒業後は慶應義塾大学からの誘いもあったそうですが、家庭の事情もあってプロ野球へ進む事を決意し、1939年に名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)へ入団しました。
一年目は5勝、二年目に21勝を挙げ、翌年も12勝を挙げ、名古屋軍のエースとしてチームを支えました。
1941年11月30日に職業野球東西対抗戦第二戦に登板。中盤から東軍のリリーフに立ち、五・六回を無失点に抑え、七回1アウト一・三塁の場面を迎えたところで交代しました。これがプロとしての最後の登板になりました。
のちに“打撃の神様”といわれる川上哲治さんを三振にとるほどの剛速球と、背番号18を再び見ることはありませんでした。
そして、その八日後の12月8日に太平洋戦争が始まりました。
プロ入りした後も、村松さんは母校へよく顔を見せたそうです。後輩は「雲の上の存在でしたが、ある日ひょっこり名古屋軍のユニホームでグラウンドへ現れ、投球フォームを教えてくれたり、打撃投手をしてくれた。ボールやバットもたくさん差し入れてくれ、後輩思いでした」と当時を振り返っています。
その後、村松さんは翌年1942年2月に召集され、豊橋陸軍予備士官学校へ派遣されます。1943年には満州国に渡り、1944年はグアム島へ渡りました。そして、その年7月25日にグアム島で米軍に狙撃され24歳の若さで戦死しました。
共にプロ野球でプレーしていた坪内道典さんは「戦後もし生きていればチームのエースとして投げまくっていただろう」と村松さんを惜しんでいます。
プロ三年間の登板89試合38勝26敗、40完投9完封、生涯防御率1.26。
最後のマウンドとなった東西対抗戦終了後に選手全員がボールにサインし、その一つが今でも村松さんの実家に残っているとのことです。
なお、村松さんがつけていた背番号18は、戦争が終わった後の1948年まで誰も付けることはありませんでした。