元;中日ドラゴンズ監督の高木守道さんが2020年1月17日に亡くなりました。
亡くなる5日前の1月12日には現役時代から仲のいい元;ドラゴンズの板東英二さんがパーソナリティーを務めるラジオ出演をこなしており、1月17日にはゴルフの予定があったということで、あまりにも突然のことでした。
現役時代は21年間で2274安打を放つなど、俊足巧打の名セカンドで活躍し、特に守備で魅せた「バックトス」が代名詞となっていました。私は、高木さんの長い現役時代の半分以上の期間のご活躍は知りませんが、後年のユニフォーム姿は記憶しています。バックアップ、ベースカバーなど内野手としては目立たない地味なプレーの一つ一つに決して手を抜くことなく、基本を大事にする選手だったと思います。
ドラゴンズの監督としては、読売ジャイアンツと激しい優勝争いを演じた1994年の「10.8」、2012年のCSファイナル。あと1勝でリーグ優勝、日本シリーズ進出を逃すなど「悲運の将」の肩書がついて回ってもいました。
第2次政権だった2012年6月30日のジャイアンツ戦では、当時ピッチングコーチだった権藤博さんとの「70歳代バトル」が大きく報じられました。また、9月18日のジャイアンツ戦でも話題になりました。
2013年5月14日の北海道日本ハムファイターズ戦では、7回の守備において高木さんは中継に入らなかった井端弘和さん(元;中日ドラゴンズほか)の守備に激高し、帽子を脱ぎ捨てベンチ裏で消えると、壁を蹴り上げて大騒動となり、この模様がTV中継でも流され、これまた、話題になりました。
まさに「瞬間湯沸かし器」と言われたりし、また、高木さんは自身を指して自虐的に「暴走老人」と言うことがありました。「怒った時は星野(仙一)さん(元;中日ドラゴンズ監督ほか)よりも怖い」と、ドラゴンズ番記者がいうこともあったそうです。
権藤さんは、コーチを退任した後、高木さんとの件について、「監督と意見が食い違うことがなければ、最初からコーチはいらないわけですよ。イエスマンはいらない。監督とコーチの立場は重々わかっています。でも勝とう、いい戦いをしようと思ったら熱くなる。監督の言うとおりにしていたらこの選手のためにならない、となれば意見は言いますよ」とコメントしています。
井端さんは、「僕も冷静さを欠いたので監督に謝りにいったら、高木さんは『オレなんか試合途中に帰ったこともあるんだから、いちいち気にするな』」とコメントしています。
これらについては髙木さんが自身のプレースタイルや野球理論には確固たる自信を持っており、これを否定されたりした場合にはたとえ誰であろうとも徹底的に怒り、反抗する骨太さを持っていたからでしょう。自分自身がこなせてしまうからか、プレー自体に対しては非常に厳しい面があったのでしょう。
また、それに加えて心も広い人であったと思えます。
それに、出身地の岐阜(高木さんは岐阜・県岐阜商業高出身)で熱心に子どもたちを対象によく野球教室を開いていたそうです。
本当に野球が好きだった方だったのだと思います。
長い間、ドラゴンズのためにありがとうございました。
ご冥福をお祈りします。