ラグビーワールドカップ日本大会は10月13日、1次リーグA組の試合が横浜国際総合競技場(神奈川県横浜市)であり、日本代表(世界8位)が28-21でスコットランド代表(9位)を破って4連勝とし、A組1位で初の決勝トーナメント進出を決めました。
日本代表は引き分け以上で悲願のベスト8入りが決定。スコットランド代表にとっては勝たなければ先がありません。どちらかが勝ち残り、どちらかが敗退を喫する運命の最終戦は台風の影響で開催が危ぶまれたものの、関係者によって急ピッチの整備で開催に漕ぎつけました。試合前には選手たちが、被害に遭われた方への黙とうが捧げられました。
先手はスコットランド代表。SOラッセル選手が自ら作ったチャンスからトライ。コンバージョンキックも決まり7点を先行。日本代表は15分にSO田村優がペナルティーゴールを外した直後、WTB福岡堅樹選手からのパスを受けたWTB松島幸太朗選手が今大会5つ目となるトライ。田村選手がコンバージョンキックを決めて、7-7と追いつきます。
25分には松島選手の突破から、パスをつないでPR稲垣啓太選手が代表初トライ。コンバージョンゴールも決まり、14-7と逆にリードを奪います。さらに38分にペナルティゴールを外しますが、その直後に福岡選手が3試合連続のトライ。ゴールも決まり、日本代表21-7スコットランド代表のスコアで前半終了となりました。
そして後半、2分に福岡選手がトライ。日本代表のこの日4トライ目で、ボーナスポイントを獲得。28-7とリードを広げ、決勝トーナメント進出へ前進します。
しかし、ここからスコットランド代表の追い上げが始まります。後半9分にPRネル選手のトライで反撃の狼煙を上げると、12分には一気に5選手を交代。15分にはPRファーガソン選手がトライを決めて、1トライ1ゴールの7点差まで一気に追い上げます。
さらにスコットランド代表は猛攻を仕掛けてきますが、ディフェンスで凌ぎ切った日本代表にノーサイドの瞬間が訪れ、史上初の決勝トーナメント進出という、日本のラグビー史に新しいページを追加しました。
ラグビーの歴史は、1823年に英国の有名なパブリックスクールであるラグビー校でのフットボールの試合中、ウィリアム・ウェッブ・エリスさんがボールを抱えたまま相手のゴール目指して走り出したことだとされています(諸説ありますが)。
日本にラグビーが伝えられたのは1899年(明治32年)に、慶應義塾の英語講師であったエドワード・ブラムウェル・クラークさんと田中銀之助さんという英国ケンブリッジ大学の卒業生によるものだというのが通説でした。しかし、ラグビーがこれよりもっと早くから日本でプレーされていたそうです。
英国の歴史家マイク・ガルブレイスさんは日本のラグビーの歴史をひも解く研究を行っており、今回の発見に至ったそうです。
1866年1月26日に書かれた文献に、当時「フットボール」と呼ばれていたラグビーのチーム「横浜フットボールクラブ(現;YC&AC)」が横浜で設立され、外国人同士のラグビーの試合が開催されていたそうです。
1866年1月と言えば日本は江戸時代末期のことです。1866年1月30日に東京の浅草三軒町から出火して浅草一円が焼かれ、浅草寺の雷門が焼失しており、3月7日には京都で坂本龍馬さんの仲介で西郷隆盛さん、小松帯刀さんと桂小五郎さんが会談し、薩長同盟が成立していたころです。また、これは英国にラグビー・フットボール協会ができる5年前、そしてウェールズに正式なクラブチームが発足するよりも前の出来事ということになります。
それに遡ること、1862年9月14日。武蔵国橘樹郡生麦村(現;神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主島津茂久(忠義)さんのお父さんの島津久光さんの行列に英国商人チャールズ・レノックス・リチャードソンさんたち4人と鉢合わせました。当時、大名が道をとおる時、地元の住民は平伏しなくてはならないのが、決まりだったこともあり、供回りの藩士たちは、馬から降りなかったリチャードソンさんたちを斬りつけました。尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、薩英戦争に発展してしまいました。
いわゆる生麦事件です。この頃の日本は約200年以上鎖国しており、外国人の入国や日本人の海外渡航を禁じていました。
生麦事件に始まった外国人排斥の動きは加速し、1863年には江戸幕府が外国人に日本から退去するよう求めるようになりました。一方で事件後に日本に住み始めた英国人のために、多くの軍人が派遣されるようにもなりました。そして、日本に定住した外国人と英国海軍がクリケットの試合を行っていました。
このクリケットの試合で奇妙だったのが、選手たちが(日本人から)攻撃されることを恐れて武器を持って試合を行っていたとのことです。この試合は外国人の退去期限の翌日に行われたと考えられています。
また、「ウィケットキーパー(捕手)はピストルを持っていた。それをウィケットの後ろに置いて、アウトを6回取った」と書かれている文献も見つかり、さらに、「集まった半数はフットボールをした」と書かれていました。当時、「フットボール」という言葉はサッカーにもラグビーにも使われていたため、どちらの試合を指しているのかはわかりません。
しかし、ジャパン・ウィークリー・メイルが1873年に「ボールをキャッチし、敵方へ威勢よく走り、素晴らしいドロップキックでゴールを決めた」という記事が書かれていたそうです。また、1874年発行の英語雑誌には、英国とスコットランドの移民が横浜で「フットボール」をしている様子の挿絵が描かれていました。
つまり、日本初のラグビーチーム創設は1866年ですが、それより以前の1863年から日本でラグビーが行われ、それから、約150年後の2019年に同じ横浜で日本のラグビーの歴史に新しい1ページが書き加えられました。