日本学生野球憲章 前文
国民が等しく教育を受ける権利をもつことは憲法が保障するところであり、学生野球は、この権利を実現すべき学校教育の一環として位置づけられる。この意味で、学生野球は経済的な対価を求めず、心と身体を鍛える場である。
学生野球は、各校がそれぞれの教育理念に立って行う教育活動の一環として展開されることを基礎として、他校との試合や大会への参加等の交流を通じて、一層普遍的な教育的意味をもつものとなる。学生野球は、地域的組織および全国規模の組織を結成して、このような交流の枠組みを作り上げてきた。
本憲章は、昭和 21(1946)年の制定以来、その時々の新しい諸問題に対応すべく 6 回の改正を経て来たが、その間、前文は一貫して制定時の姿を維持してきた。それは、この前文が、
「学生たることの自覚を基礎とし、学生たることを忘れてはわれらの学生野球は成り立ち得ない。勤勉と規律とはつねにわれらと共にあり、怠惰と放縦とに対しては不断に警戒されなければならない。元来野球はスポーツとしてそれ自身意昧と価値とを持つであろう。しかし学生野球としてはそれに止まらず試合を通じてフェアの精神を体得する事、幸運にも驕らず悲運にも屈せぬ明朗強靭な情意を涵養する事、いかなる艱難をも凌ぎうる強靭な身体を鍛練する事、これこそ実にわれらの野球を導く理念でなければならない」
と、全く正しい思想を表明するものであったことに負うものである。
しかし今日の学生野球がこうした精神の次元を超えた性質の諸問題に直面していることは明らかであり、今回憲章の全面的見直しが求められた所以もここにある。このような状況に対処するには、これまでの前文の理念を引き継ぎつつも、上述のように、学生野球の枠組みを学生の「教育を受ける権利」の問題として明確に捉えなおさなければならない。
本憲章はこうした認識を前提に、学生野球のあり方に関する一般的な諸原則を必要な限度で掲げて、諸関係者・諸団体の共通理解にしようとするものである。
もちろん、ここに盛られたルールのすべてが永久不変のものとは限らない。しかし学生の「教育を受ける権利」を前提とする「教育の一環としての学生野球」という基本的理解に即して作られた憲章の本質的構成部分は、学生野球関係者はもちろん、我が国社会全体からも支持され続けるであろう。
以上が、日本学生野球憲章にある前文です。別に、野球憲章に楯突こうという訳でも何でもありません。
「教育」という言葉ほど解っているようで、解りにくいものだと思います。ほぼ、すべての日本人は学校教育を受けています。ということで、「教育=学校教育」というように思えています。学校の教室の中で、先生の話を眠い目をこすりながら、窓の外を眺めながら、ノートにいたずら書きしながら聞いていたり、あるいは教科書、参考書や問題集やなどとにらめっこしながら頭に叩き込むことが、教育であると思ってしまいます。でも、家庭教育や社会教育という言葉もあり、家庭や地域社会からの躾やルールを学ぶことも「教育」です。
教育基本法には「教育は人格の完成を目指す」とあり、これは人格の完成、つまり「人」として生きるための人格を完成するために教育は行われ、あるいは教育は受けられるものであるということだと考えます。「人格を完成」させるためには、これは知識・学力だけではなく、道徳性や協調性、他人との意思疎通能力など多くのことも必要です。ただ、これらは育ってきた生活環境などで、その中身は大きく変わってくるものです。
学生野球は、これら一般的な教育の枠組みの中で学べないようなことを学びとらなければならない場だと思います。そして学んだことをどう生かすか。
すべては自分で決めることです。
いろいろあった夏の甲子園はきょう決勝戦です。
教育とは、学校で習ったすべてのことを忘れてしまった後に、自分の中に残るものをいう。
そして、その力を社会が直面する諸問題の解決に役立たせるべく、自ら考え行動できる人間をつくること、それが教育の目的といえよう。
アルベルト・アインシュタイン