野球小僧

蔦監督 -高校野球を変えた男の真実-

1970年代~1980年代前半に「さわやかイレブン」「やまびこ打線」で全国の高校野球ファンを沸かせた徳島県立池田高校。山の中にあるこの四国の公立野球部を率いて、甲子園で春夏計三度の優勝、二度の準優勝に導いた名将・蔦文也さん(2001年に逝去)の姿を追ったドキュメンタリー映画「蔦監督 -高校野球を変えた男の真実-」があります。

この映画の監督は蔦さんの孫の映画監督・蔦哲一朗さん。OBの水野雄仁さん(元読売ジャイアンツ)など、蔦さんの教え子や関係者約40人の証言を集めて、「名将」「攻めダルマ」と呼ばれた祖父の実像を追い求めました。製作費はクラウドファンディングによって募り、約5年がかりで2015年末に完成し、12月27日に地元徳島県三好市で初上映されました。

監督としての甲子園通算成績
選抜大会出場7回 21勝5敗 優勝2回(1983年、1986年) 準優勝1回(1974年)
選手権大会出場7回 16勝6敗 優勝1回(1982年) 準優勝1回(1979年)

徳島県三好市(2006年3月1日に三好郡の三野町、池田町、山城町、井川町、東祖谷山村、西祖谷山村が合併し、市制施行)の池田高校野球部のグラウンド脇の記念碑に蔦さんの言葉が刻まれています。

「山あいの町の子供たちに一度でいいから大海(甲子園)を見せてやりたかったんじゃ」

これは1971年夏に念願の初出場を果たした時の言葉です。

蔦さんは1923年8月28日に徳島市で父・新吉さん、母・玉枝さんの間に生まれました。徳島商高の教員だったお父さんはお酒に目がなく、蔦さんを連れ回し、カフェに入り浸っていたそうです。そのお父さんの影響もあってか、蔦さんは「わしから酒と野球をのけたら、なーんも残らん」と言うくらいの無類の酒好きでした。

旧制高校野球時代には徳島商高で1939年の春にファーストで、1940年の春・夏にはピッチャーとして甲子園に出場しています。同志社大学に進学し、野球を続けましたが、太平洋戦争が勃発し、学徒出陣で出征。特攻隊員となり、茨城県土浦海軍航空隊で特攻訓練を受けます。「わしは死ぬ運命なのか」と恐怖に襲われた蔦さんはお酒ををガブ飲みし、酩酊し、桜の木を引っこ抜き、上官にボコボコにされたことがあったそうです。そして、奈良県大和海軍航空隊で「神風特別攻撃隊千早隊」の一員として、突撃命令を待っているときに終戦を迎えました。

大学卒業後、日鉄広畑に半年間所属し帰郷。日本通運に勤務する傍ら、社会人野球・全徳島に加入し、エースとして都市対抗野球大会に3度出場し、ベーブ・ルース杯で優勝します。1950年に東急フライヤーズに入団しますが、わずか1年で退団し再び帰郷しました。0勝1敗、防御率11.70という成績でした。

故郷・徳島の池田高校が野球部の指導者を探していたことから、「わしは生まれ故郷の池田に帰り、監督をしたい」ということで、一念発起し、教員採用試験に合格。1951年に池田高校に社会科教諭として赴任、その授業はいつも本題そっちのけで野球の話でもちきりだったそうです。1952年から野球部監督に就任しましたが、当時の野球部には戦後の物不足の影響もありボールが3個とバットも2本しかなかったほどの環境でした。

蔦さんの40年間の監督人生は前半の20年は甲子園を目前にし、負け続けた「雌伏の時代」でした。

監督就任3年目の1955年秋には徳島県大会の決勝に進出するものの、徳島商高に0-11。1957年夏は、県大会で準優勝するものの、南四国大会の一回戦で敗退。1960年夏は南四国大会の決勝まで進めるが、またも徳島商高に敗れます。その後も毎年負け続け、1970年夏には県代表決定戦で天敵の徳島商高に勝ったものの、南四国大会で土佐高に逆転負けし、涙を呑み続けていました。

当時、野球部長だった元木宏さんは「蔦はんは気が弱いけん、スクイズのサインを出すとき、緊張しよる。ベルトに触ったらスクイズでしたが、何回もベルトを引き上げるけん、すぐに見破られました」とのことで、さらに、負けて池田に帰ると、お酒を浴びるように飲んだそうです。「まず、学校の用務員室でビールを1ケース(当時・大瓶25本)空け、"ほな、いこか"と、スタンドバーやスナックを4~5軒ハシゴ。毎日でっせ。ツケが溜まり、ボーナスが出た日に、ごっそりママさんに持って行かれたこともある。ヨメはんに叱られるいうんで、私が一計を案じた。月賦でテレビを買うてボーナスで払ったことにしたらどやと。そしたら、本当にテレビ買うて、背中に担ぎ、千鳥足で帰りましたわ」という時代が20年も続きました。

そして、後半の20年は甲子園の常連校になり、勝ち続けた「雄飛の時代」が来ます。

1971年夏。県大会を勝ち上がり、南四国大会決勝で天敵の徳島商高との試合。序盤に0-3とリードされ、蔦さんの弱気の虫がうずき「もう、あかん、あかん」と言いますが、元木さんが「蔦はん、勝負は最後まで諦めたらいかん」と言い、蔦さんが破れかぶれでヒットエンドランのサインを出し、成功したことがきっかけになり、強気に転じます。六回に同点に追いつき、延長十回裏、満塁からタイムリーが出て5-4でサヨナラ勝利し、悲願の甲子園出場を決めました。

その甲子園練習の時、ノックバットを持った蔦さんが「前から考えとったんじゃが、やりたいことがある。あそこに打ち込むことじゃ」とレフトスタンドを指差し、20年間の思いを込めてバットを振り、レフトスタンド中段へ放り込みました。

そして、1974年春。池田高の名前が全国区となったのが11人の部員で選抜大会出場を決め、NHKが「谷間の球児」という番組を制作し、「さわやかイレブン」と呼ばれたことでした。初戦の函館有斗高(北海道)戦は開会式直後の第一試合でした。当時エースだった山本智久さんは「監督とナインがあがっているのを見て、投球練習の第1球を故意にバックネットへぶつけたんです」と言う。この大会で池田高は決勝に進出し、準優勝をしました。

それから5年後の夏、今度は深紅の大優勝旗を手にするチャンスを手にしましたが、尾藤公さん箕島高(和歌山)に八回裏に2点を失い、3-4で逆転負けをしました。そして、細かい野球では尾藤野球に勝てないと思い、スクイズではなく、外野フライで1点を取る野球への分岐点にもなりました。なお、この年が木製バットが使われた最後の年でした。ちなみに、この試合でキャッチャーだったのが現池田高野球部の岡田康志監督でした。

その二年後、畠山準さん(元横浜ベイスターズなど)が二年、水野さんが一年の時、高橋由彦さんが野球部副部長に就任すると、トレーニング革命に着手します。「タイヤ引き25mを5セット。ハードル跳び30回を5セット。腕立て伏せ15回を5セット。背筋25回を4セット。バーベルなど、器具を使ったトレーニングが5セット。そして、仕上げがグラウンドの向こうに聳える西山(709m)登りでした。筋トレばかり脚光を浴びましたが、実際はサーキットトレーニング。パワー野球ではなく、科学野球でした」とのことで、水野さんの背筋力は130kgから185kgになり、飛距離が大幅にアップするようになります。

その結果、1982年夏の大会は池田高のため、蔦さんのための甲子園大会となりました。
準々決勝の早稲田実業高(東京)戦は強力打線が爆発。一回裏に三番・江上光治さん2ラン。六回裏、水野さん2ラン。さらに八回裏にも満塁ホームランと早稲田実高の荒木大輔さん(元ヤクルトスワローズ)と石井丈裕さん(元西武ライオンズ)に20安打を浴びせ、14-2で大勝し、決勝はバントと機動力野球で高校野球のお手本と言われた広島商高(広島)を力でねじ伏せ12-2と勝利し、念願の甲子園初制覇を果たしました。

その夜、蔦さんは生涯最高の美酒に酔いしれたそうです。

しかし、長年の暴飲がたたり、糖尿病を患い、右目がかすみ、両足がしびれ、ノックができなくなり、1992年に監督を引退した後は、記者が訪ねてきても面会を拒んでいました。野球が出来ないだけでなく、酒も医者から止められ、生きる気力を失ってしまいました。

後年、愛弟子の水野さんが訪ねると「わしの人生は終わったんじゃ」ノンアルコールビールを飲んでいたという。「"ブン(蔦さんの愛称)"の痩せた顔を見て、本当に可哀相でした」と言っていました。

それから間もない2001年4月28日に亡くなりました。

蔦哲一朗監督は池田町で生まれ育ちましたが、小・中・高と野球ではなくサッカーをやっていたため、生前は祖父との交流があまりなく、自身が高校二年生のときに他界。その後、上京し、映画監督になってから地元に戻り、地域の人々と交流する過程で改めて祖父の足跡を痛感し、映画化を決意したそうです。

「私は自分の祖父である蔦文也という人間が、一体当時何を考え、なぜあそこまで甲子園というものにこだわったのかということを、自分が映画監督である立場と重ね合わせながら、探求させていただきました」

映画は3月までは徳島県内で上映され、その後、全国でも順次公開される予定になっているとのことです。


コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。
お孫さんが(映画)監督とは、また何とも言えないですね。

強かったですね、池田高校。
あの攻撃野球は観ていて気持ちよかったものです。また、(失礼ながら)四国の山の中からの公立高校というのが良かったです。

近年は生徒集めにも苦労しているところがあるようですが、地元の応援に応え、甲子園で復活する日を楽しみにしていたいと思います。
eco坊主
おはようございます。

蔦文也さんですか~懐かしいなぁ。
「さわやかイレブン」「やまびこ打線」「攻めダルマ」
勿論知っていますよ!!!
私の青春時代の名将の一人でしたから。
でも、蔦監督のノンプロ、プロの事は知りませんでした。
そしてあの蔦監督が弱気だったとは・・ビックリです。

人は明確な目標と執念があれば変われますよね~
それで全国制覇を成し遂げられたのですから。

私も(ちっちゃな目標ですが)執念を持って向かっています!!!
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