三方ヶ原の戦いは、1573年(元亀3年)1月25日に遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町付近)で行なわれた武田信玄さんと徳川家康さんの戦争の事です。
家康さん生涯の中での大敗北とされていますが、酒井忠次さん、本多忠勝さんや石川数正さんら有力な武将はほとんど死んでいません。確かに敗北ではありますが、実際はそれほどの大敗北ではなかったのでは、天下人があえて敗北を強調するのは、教訓を込めたかったからではないかとも言われています。
この頃、畿内に進出した織田信長さんに対する足利義昭さんによる信長包囲網の戦いは熾烈を極めていました。そんな中、家康さんは信長さんの忠実な狸として支えていました。
ある日、信玄さんは義昭さんに応じて上洛を決意し、三河に侵攻しました。当時の信玄さんの甲州軍団は最強を誇り、三河武士の三倍のHPを持つといわれていました。そして、家康さんの三倍の兵力で攻めてきたため、信長さんに援軍を請いますが、信長さんの回答は3000だけ援軍を寄越すというものでした。
信玄さんの侵攻に対し、家康さんは忠勝さんら屈強な武将を引きつれ、偵察に出かけます(一言坂の戦い)。ですが、信玄さんたちに発見され、しんがりを忠勝さんに任せて逃亡しました。
浜松城に引き返した家康さんを放置し、調子に乗った信玄さんはそのまま二俣城を攻略し、信長さん陣地に向かいました。このままでは恐ろしい信長さんに怒られてしまうと考えた家康さんは全兵力を持って信玄さんに奇襲を仕掛けます。
「祝田の坂」の近くまで追いかけて来ましたが、実は信玄さんは家康さんのことは気が付いていて、逆に待ち構えていました。家康さんの首を狙って襲い来る武田家相手に、家康さんの家臣たちは家康さんの兜を奪い、家康の名乗りを上げ、身代わりになろうと奮戦しました。家康さんは逃げる途中、あまりにもお腹が空いたため、途中の茶屋で餅を買い求めますが、敵が迫って来たためにお金を払わずに逃亡を再開し始めますが(いわゆる一つの食い逃げ)、茶屋のお婆さんに結局つかまってお金を払わされました。この餅を買った場所を「小豆餅」、お金を払わされた場所を「銭取」という地名で呼ばれています。
浜松城まで逃げ込んだ家康さんでしたが、あまりにも急いでいたため、城門を開けっ放しにしまいましたが、これを空城の計と勘違いした武田軍は浜松城攻略を諦めたそうです。
城に帰った家康さんは敗戦直後の意気消沈した自分の顔の絵を描かせ、生涯この絵を大切にし、敗北を自戒したと伝えられています。
この戦いで信玄さんが家康さんをとことん追い続けていたら、江戸幕府は成立していなかったかも知れません。そうすると、今の世の中はどのような社会になっていたでしょうか。しかし、歴史は、信玄さんは追撃しませんでした。
信玄さんはこの戦いの数ヶ月後、この世を去っています。家康さんの家臣は、この信玄死亡のニュースを聞き(NHKではないと思う)、皆喜んだといいます。しかし、家康さんは家臣を諫めてこう言いました。
「信玄のような武勇の大将は古今まれである。自分は若いころから彼を見習いたいと思っていた。信玄こそ、我らにとって、武略の師であると言ってよい。隣国に強敵があるのは幸いである。なぜなら、こちらは油断怠りなく励み、また、かりそめの仕置きにも心を遣うゆえに、政治も正しくなり、家も整う。もし、隣国に強敵がなかったら、味方は武力のたしなみ薄く、上下ともに己を高く思って恥恐れる心を持たぬため、だんだん弱くなるものである。信玄のような敵将の死を味方が喜ぶ理はない」
最大のライバルこそが、自分を育ててくれると言うことです。どんな人からでも学べるものがある、という考えで家康さんはいたというこでしょう。さすが、日本の歴史の中でも例のない260年にも渡る戦いの無い世の中の礎を造った人です。
「我以外、皆我が師」(作家:吉川英治)
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