囲碁漂流の記

週末にリアル対局を愉しむアマ有段者が、さまざまな話題を提供します。初二段・上級向け即効上達法あり、懐古趣味の諸事雑観あり

命運のレシピ

2020年10月18日 | 雑観の森/心・幸福・人生

 

遠い日の記憶、味、歌、そして これから 

 ~ 「凄み」を、たんと味わう の巻】

 

これは織田信長の御賄頭(おまかないがしら=コック長)で

名人の誉れ高い「坪内某」なる人物の逸話である。

元は三好氏に仕え、信長の捕虜となっていたのだが――。

 

(坪内某は虜囚だったので)

包丁は持っていない。

それを惜しい とおもったのは

織田家の御賄頭の市原五右衛門で、

坪内ほどの名人にものをつくらせぬ

ということはありますまい。

ぜひ上様の御膳は

かれの包丁にてつかまつれば

いかがでございましょう

、と献策した。

 

信長は、物の味にさほど関心のあった男ではなさそうで、

坪内をそれほど珍重する気はなかったらしい。

ひとまず、承知した。ただし、

――膳はつくらせる。しかし、まずければ殺す。

というのが信長の条件であった。

 

坪内は、夕餉(ゆうがれい)をつくった。

試食し、信長は激怒した。

このように薄味の水くさいものが食えるか、

というのである。

坪内はおどろかず、

いまひとたび機会をあたえてもらいたい、

翌朝の餉をつくらせてもらいたい、

それにてもなお上様のお舌にあわぬ

とあらば 自分は切腹なりとも

なんなりともする、といった。

その言葉が信長にとどけられた。

信長はゆるした。

 

その翌朝の朝餉で信長は満足した。

「信長公御感ナナメナラズシテ坪内ヲ御家人ニ召シ出サルル旨オホセ出サル」

「あたりまえのことさ」

と、坪内はあとで料理人仲間にいったらしい。

最初につくった膳は京風の味だから

信長公のお舌にあわなかったのさ、

二度目の膳は あれは田舎味だ、

塩梅を辛ごしらえでやったのだ、

「故ニ御意ニ入リ候ト言フ。信長公ニ恥辱ヲ与ヘ参ラセシト笑ヒケルト也」

 

このはなしは高名な咄で、

上方の薄味、田舎の濃味 というのが

すでに このころには そうであった 

ということが わかっておもしろいのだが、

それ以上におどろかせるのは

坪内某の 京者らしい凄みである。

 

当時、美濃の不破ノ関から以東をアズマといった。

信長は尾張だから当然アズマであり、

アズマは言葉もちがい、物の味もちがう。

魚鳥を煮るにも醢(ひしお)でひりひりと煮あげる

といった味わいの地帯で信長が育ったということを、

坪内は百も承知でありながら、

わざと淡々とした京味で仕立てて最初の膳を出した

というあたりが、坪内の京者らしさであり、

そこに命がけの痛烈な批判を込めている。

 

のちの千利休の秀吉に対する態度にも

似たような気配がうかがわれるが、

利休はこのことの度がすぎて殺された。

坪内はあやうくまぬがれた。

しかし もう半歩踏み出せば死ぬという

きわどさのなかで こういう芸当をした。

 

「そこが、京都人の典型や」と、

席にいるひとがいったのである。(後略)

 

司馬遼太郎「京の味」(1969年)から抜粋

(司馬が友人との酒席で「京都人」をさかなにしたことを書いている)

 

        ◇

 

こんな話を長々と引用したのにはワケがある。

先日、新婚の娘がラインで写真2枚をアップしてきた。

時折、弁当を作って持たせている、という。

いまどきの仕事、いまどきの中間管理職もハードのようで

頑張る姿が心配ゆえ、それなりのエールを送っているとか。

わたしは殊勝な心掛けにそこそこ感心した。(意外でもあったが)

ともあれ西のおんなが作る味覚。東のおとこの裁定はいかに。

 

 

 

歌を思い出した。

 

♪ バラ色の頬 

若さなど束の間

男ごころをつかむには

お料理上手におなりなさい

 「ラ・キュイジーヌ」

 

時の流れははやい

料理の腕を磨きなさい

と、グレコは歌った。

天・地・人の恵みをさばく両の手は

いつも相手のこころに触れていて

キミを取り巻く人生を実り多くする。

 

 


ジュリエット・グレコ (1927~2020年) 戦後のシャンソン界を牽引し、世界最高峰の歌手と称えられた。2016年に引退。先月23日、93歳で死去。

 

 



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