▼化けの皮がはがれ、正体が現れてきたか?
治安維持法復活の兆候か?
明治元年から遡ること十八年。
徳川幕府の衰えは覆い難く
庶民の目にも明らかになっていた。
落ち目になると
ささいな陰口にも
こせこせと気を回す。
詰まらぬ噂ばなし一つにも
目くじらを立てるようになる。
そして必要以上の取締りに
血道を上げていく。
だいたい権力というものは
大多数の民衆の反抗におびえるもの。
昔からそうと決まっていた。
その一例――。
* * *
◆神田松ケ枝町の大店「形万」
その主人・万吉の場合
六月のある晩
町内の風呂屋でのこと
顔見知りの芋屋の主人・長谷川なにがしと
万吉は、四方山ばなしに講じていた。
話の末に、長谷川某
ふと何を思ったか
「今の公方様じゃ
おさまりませんや」
と言い出した。
形万のあるじもまた、何となく
「そうですなあ」と相槌を打った。
ところが、
それが同じ湯舟に浸かっていたと思しき
岡っ引きの耳に入っていたらしい。
翌朝いきなり
八丁堀からの捕縄つかいに踏み込まれ
有無もいわさず後ろ手に縛られてしまった。
家には病気の母と妊娠中の女房がいた。
驚き取りすがろうとしたが
あっさり蹴にされ
主人は引き立てられた。
牢屋のなかで、
一体何事か、と思案するも
さっぱり思い当たらない。
風呂屋の噂ばなしなど
とうに忘れていた。
「公方様じゃおさまらぬ」
ぐらいのことは
誰もが口にしていた時代である。
そのまま20日ほど置かれ
やっと取り調べ。
なんと長谷川某の白状により
形万から話しかけたという
妙な具合になっているではないか。
牢名主は
「おまえは公方様を罵ったそうだな。
それは軽くて遠島だな。
とうぶん娑婆の風にはあたれねえ」という。
心細くなり、一大決心をして
「白状しますから母と女房に逢わせてください」
と嘆願に及ぶと、それから拷問につぐ拷問である。
万吉の足は水ぶくれし、腫れあがった姿を見て
面会にきた女房は気絶した。
息を吹き返した女房は
追い詰められた反動からか
肚が座ったようである。
気が強く、しゃんとなる。
「お役人さま、
良人はけっして
お上を悪く申しはいたしません」
役人はあくまで高圧的だ。
「黙れ、さあ万吉、
白状してしまえ」
女房も負けずに叫ぶ。
「ないことは、
けっしておっしゃるな」
「無礼ものッ、
よし、この者から白状させよ」
妊娠中の女を殴り付ける。
殺されたら佐倉宗五郎になって
公方さまを取り殺してくれよう
などと考えながら、女は耐え忍んだ。
たいした反骨夫婦である。
結局、長谷川が真相を白状したため
万吉夫婦は無罪放免となった。
長谷川は死刑(あるいは牢死?)となった。
軽口が捕縛、拷問で自白、そして死罪である。
万吉は、のちのちまで
徳川が滅亡していい気味だ
と憤懣をぶちまけていたという。
佐倉宗五郎とは
1653年、公津村(現在の成田市)の名主・佐倉宗吾(木内惣五郎)は将軍家綱に決死の直訴状を手渡した。藩領の苛政に苦しむ農民の窮状を伝えるべく直訴するも、捕えられて家族もろとも死罪となった。この行いは日本の民権運動のはじまりとされ、江戸後期から明治、そして戦前戦後に「義民・佐倉宗吾」伝説は庶民の悲劇のヒーローとして、芝居や講談、浮世絵、映画の題材となった。
◆権力が暴力的取締りのため組織した例
火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた) 江戸時代、重罪である火付け(放火)、盗賊(押し込み強盗団)、賭博を取り締まった。捜査機関の町奉行とは違い、幕府常備軍の一部であり、武力制圧軍として荒っぽい取り締まりで治安維持に当たった
憲兵(けんぺい) 大日本帝国陸軍の陸軍大臣の管轄機関。軍事警察、行政警察、司法警察を兼ねた。国家憲兵としての権限を拡大し、全国市町村に配置され、軍警察、治安維持、防諜を主要任務した。内地、外地、占領地を問わずに活動したが、戦後に解体された