【大坂で生まれたおんなの場合 ~ の巻】
歴史家の奈良本辰也は「京の味」(1976年)で、
「値段に相応して満足できるのは大阪」と書いていた。
これを読んだか読まなかったかは知らないが
田辺聖子(昨年6月死去、享年91)だったら
どんな反応をしただろうか。
食をテーマにした傑作エッセイは数々あれど、
その数年後に著した「大阪のおかず ほか二編」から
私の育った大阪の福島という町は、
梅田駅から西へいった、
小商売の多い下町である。
(大阪の「おばんざい」について、鯨のコロや船場汁、かやくご飯に白味噌汁、ハモからサバなど、調理法や味わい方を次々 紹介したあとでーー)
どこそこの店がああだ、こうだ、と講評し、
美味しいものに口が肥えているだけの人間は、
それは「口いやしい」というものであって、
本当の食通ではないのだ。
まして自分一人が美味しい店を食べあるき、
家族はついぞ連れていったことがない、
そういう食通が男性には往々いるが、
そういうのは単に「エゴ食通」なのである。
日本の男性には、そういう人が多い。(中略)
すべて勿体つけるのはアカンのである。
自慢というのではないが、食物の前口上というか、
能書きを上手にしゃべれる人は楽しい。
結局、美味しく食べる要素、というのは、
食物自体が40㌫くらい、
あと40㌫が一緒にテーブルを囲む人間、
20㌫がまわりの環境、
これが私の実感である。
いやな奴とモノを食べるくらい苦痛なことはない。
仕事をしつつ食べるなんてのも不快である。
対談というのもよくない。
でもって、私が美味しいと思う店は、
店の人が気持ちがよいとか、
いつも親しい友人といくから、
という雰囲気で稼いでいるところばかりである。
いくら美味しくても、
親爺さんが偏屈だとか、
店の人が不親切だとか、
行列して待っているだとかいうのは、
美味しいとは思えない。
これはなんてことはない。
自分がトシをとって気難しくなっただけのことであろう。
「おせいさん」流のアルアル本音トーク炸裂!
なのである。
わたしも、若い頃の自分を思い出しつつ、
これを読み返すたび、なるほどなあ、と思う。
ところが、である。
このエッセイはココロの向くままに、脱線転覆し、
ついには異次元に突入する。
もう少しだけ、肝のさわりをのみ引用しておく。
(ご興味あらば買い求めて読んでいただくとよろしい)
しかし私は、
大阪のきつねうどんとか お好み焼きは、
「吉兆」や「瓢亭」の結構なるお料理に
まさるとも劣らないと思っている。