囲碁漂流の記

週末にリアル対局を愉しむアマ有段者が、さまざまな話題を提供します。初二段・上級向け即効上達法あり、懐古趣味の諸事雑観あり

続々々・命運のレシピ

2020年10月21日 | 雑観の森/心・幸福・人生

 

大坂で生まれたおんなの場合 ~ の巻】

 

 

歴史家の奈良本辰也は「京の味」(1976年)で、

「値段に相応して満足できるのは大阪」と書いていた。

これを読んだか読まなかったかは知らないが

田辺聖子(昨年6月死去、享年91)だったら

どんな反応をしただろうか。

 

食をテーマにした傑作エッセイは数々あれど、

その数年後に著した「大阪のおかず ほか二編」から

 

 

私の育った大阪の福島という町は、

梅田駅から西へいった、

小商売の多い下町である。

(大阪の「おばんざい」について、鯨のコロや船場汁、かやくご飯に白味噌汁、ハモからサバなど、調理法や味わい方を次々 紹介したあとでーー)

 

どこそこの店がああだ、こうだ、と講評し、

美味しいものに口が肥えているだけの人間は、

それは「口いやしい」というものであって、

本当の食通ではないのだ。

 

まして自分一人が美味しい店を食べあるき、

家族はついぞ連れていったことがない、

そういう食通が男性には往々いるが、

そういうのは単に「エゴ食通」なのである。

日本の男性には、そういう人が多い。(中略)

 

すべて勿体つけるのはアカンのである。

 

自慢というのではないが、食物の前口上というか、

能書きを上手にしゃべれる人は楽しい。

結局、美味しく食べる要素、というのは、

食物自体が40㌫くらい、

あと40㌫が一緒にテーブルを囲む人間、

20㌫がまわりの環境、

これが私の実感である。

 

いやな奴とモノを食べるくらい苦痛なことはない。

仕事をしつつ食べるなんてのも不快である。

対談というのもよくない。


でもって、私が美味しいと思う店は、

店の人が気持ちがよいとか、

いつも親しい友人といくから、

という雰囲気で稼いでいるところばかりである。

 

いくら美味しくても、

親爺さんが偏屈だとか、

店の人が不親切だとか、

行列して待っているだとかいうのは、

美味しいとは思えない。

これはなんてことはない。

自分がトシをとって気難しくなっただけのことであろう。

 

 


「おせいさん」流のアルアル本音トーク炸裂!

なのである。

わたしも、若い頃の自分を思い出しつつ、

これを読み返すたび、なるほどなあ、と思う。


ところが、である。

このエッセイはココロの向くままに、脱線転覆し、

ついには異次元に突入する。

もう少しだけ、肝のさわりをのみ引用しておく。

(ご興味あらば買い求めて読んでいただくとよろしい)

 

しかし私は、

大阪のきつねうどんとか お好み焼きは、

「吉兆」や「瓢亭」の結構なるお料理に

まさるとも劣らないと思っている。

 

 

 

 

 

 



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