幕末維新動乱犠牲者解脱成仏護摩法要も無事行満。おめでとうございます。
御霊もお喜びでしょう。
さて、法要の邪魔になるかもしれないし面倒くさいので周りの法友にも一切黙っていた事実関係のトンデモについて幾つか語りたいです。
戊辰戦争において東北戦争や会津戦争に至った原因は薩長新政府側の旧幕府方への「怨念」などではないです。結局、会津藩主松平容保が新政府に対し徹底抗戦の姿勢を崩さなかったことが根本原因と言うしかないです。
新政府の方針は「恭順の実効が示されなければ討つ」、逆に言うと「恭順の実効を示せば赦す」で一貫しています。実際、松平容保と共に徳川慶喜公側近だった容保実弟の松平定敬(さだあき。元京都所司代)が藩主だった桑名藩は、藩主定敬本人は函館戦争まで抵抗を続けたにも関わらず、藩は早々に恭順の姿勢を明確にしたので全然戦争にはならなかったのです。無血開城ですよ。
東北戦争や会津戦争の原因が薩長新政府側の旧幕府方への「怨念」が理由だったら、そうはいかないでしょう。幕末政局において薩長新政府側と対立関係にあったいわゆる「一会桑勢力」の一角を占める桑名藩は会津同様にボコボコにされたはずです。
匿名不良会員の私が言っても説得力が無いので、桑名藩があった三重県出身の幕末維新政治史を専門とする水谷憲二氏著『「朝敵」から見た戊辰戦争 桑名藩・会津藩の選択』(洋泉社)より一文を引用するので読んでください。会津や東北で戦争になった理由・経緯が簡明に端的に説明されています。文中の「奥羽府」とは「奥羽鎮撫総督府」の略で、判りやすく例えると「東北方面担当新政府軍本部」みたいなものです。それから、「閏四月(うるう しがつ)」いうのは旧暦で使われる閏月(うるうづき)で「四月」の翌月です。太文字強調は私によるものです。
なお振り返ってみれば、奥羽府から仙台藩に対する四月二十五日の通達では、しだいに会津藩が「暴動」を引き起こしそうな状態ではあるが、謝罪をすれば寛大に処置する考えであることを明らかにしている。しかし、それに対する容保名義の返答書(閏四月十五日付)は、徳川家の存続が確定するまでは「謝罪」しない覚悟を表明する内容になっている。閏四月十二日に奥羽府に差し出された会津藩側の嘆願書でもわかるように、会津藩が本気で恭順を望んでいるようには思えない。その一方で仙台藩ら東北諸藩は会津藩を説得して何とか平和的な解決に持ち込むことを画策して、また奥羽府においても会津藩の恭順の意志が本物であれば穏便に解決しようと考えていた。しかし、会津藩はまったく武装を解除する気配がなく、東北諸藩は討伐対象である会津藩と結びついて和平交渉を計画して奥羽府に激しく迫り、そして奥羽府は着々と会津藩を攻撃する態勢を整えて東北諸藩を討伐に駆り立てた。このような奥羽府と東北諸藩との間に不信が募り、やがてそれは互いの誤解となり、最後には引き返すことができない戦争に発展していった。
"会津や東北諸藩は恭順したにも関わらず薩長新政府側は最初から彼らを赦す気はサラサラ無く徹底的に叩き潰すつもりだった"などという「会津観光史学」的思い込みにとりつかれている職員さんがいらっしゃるみたいですね。星亮一さん(失笑)とかではなく、深く幅広い客観的事実を元に合理的論理的見解を導き出すごく普通の歴史研究者の成果から歴史を勉強し直して頂きたいものです。
そういえば、松平容保が蝦夷地(現北海道)に持っていた領地をプロシア(現ドイツ)に事実上売却して軍資金等を得ようとした「松平容保蝦夷地売却未遂事件」は阿含ニュース特報とかでは一切触れられてませんでしたね。まあ、会津観光史学の立場からは「売国奴松平容保」はマズイので当然でしょうが(笑)。これについてはまた後日、気が向いたらということで。お休みなさい。