不思議活性

立原道造詩集と 3

  
  
    3
 
 私が好きな道造の詩の多くは、高原避暑地の軽井沢と信州追分が舞台であり、その北国街道と中山道の分かれ道があるそばの泉洞寺には、道造とアサイがよく散歩した野仏があります。
 
 道造詩集『萱草に寄す』「のちのおもひに」より。
 
夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を
 
うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つていた
―そして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいていないと知りながら 語りつづけた・・・・・・
 
 また詩集『優しき歌』 「夢みたものは・・・・・・」より。
 
夢みたものは ひとつの幸福
ねがつたものは ひとつの愛
やまなみのあちらにも しづかな村がある
明るい日曜日の 青い空がある
 
 夢みたものは ひとつの愛
ねがつたものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と
 
  私の信濃追分での平成14年(2002年)から平成26年(2014年)の勤務でしたが、仕事帰りに見る追分のまんまるい大きなうさぎがみえる月に親しみを覚えるようになったのが想い出されもします・・・・。
 
 そう、山頭火の・・・
 
 なるほど 信濃の月がでている
 
の句がたまらなく好きな私です。
 
    
 夢、再びです・・・。
 
  立原道造、「天の誘ひ」より。
 
 死んだ人なんかいないんだ。
 どこかへ行けば、きつといいことはある。
 
 夏になつたら、それは花が咲いたといふことだ、高原を林深く行かう。もう母もなく、おまへもなく。つつじや石楠の花びらを踏んで。ちようどついこの間、落葉を踏んだやうにして。
 林の奥には、そこで世界がなくなるところがあるものだ。そこまで歩かう。それは麓をめぐつて山をこえた向うかも知れない。誰にも見えない。
 僕はいろいろな笑ひ声や泣き声をもう一度思ひ出すだらう。それからほんたうに叱られたことのなかつたことを。僕はそのあと大きなまちがひをするだらう。今までのまちがひがそのためにすつかり消える。
 
 人は誰でもがいつもよい大人になるとは限らないのだ。美しかつたすべてを花びらに埋めつくして、霧に溶けて。
 
     * * * * * *

・誰でもがよい大人になるとは限らないのだ・・・・。でも、誰もが、心のなかに子供の頃の楽しい想い出や、青春の淡い想い出があるのでは・・・・。
 二十四歳という若さで、青春のさなか、この世を去った道造の詩は夢のように、いつまでも静かに、やさしい調べを奏でています・・・・。



 

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